統治者としての第一歩
ロットシュタット城攻防戦が終わって一か月。外敵を追い払ってラーザイル東部に訪れたのは平和ではなく嵐であった。
自然災害ではない。人為的な『粛清』の嵐がラーザイル西部を激しく吹き荒らしていったのである。
その嵐を作り出した張本人はヒルデ・シューマッハである。彼女はガラック王国を撃退し、正式に王からシューマッハ公爵の地位を叙爵された後、すぐさま自身の領地に戻った。
帰るや否やヒルデは触れを出し、民衆の前に姿を現すことにした。八倍の敵を撃退する奇跡的な勝利に沸き立つ民衆はその奇跡を成し遂げた新しく美しい当主を一目見ようと互いを押しのけあいながらヒルデが姿を見せる城下に集まった。
城のテラスに颯爽と現れたヒルデを見上げた民衆たちは感嘆の息を吐いた。ヒルデの若く輝かんばかりの美しさがその要因の一つであったが、もう一つ理由があった。
それは彼女が身に纏う男物の衣装にあった。だが、男装だからという珍しさに民衆たちは驚いたのではない。赤を基調としたその衣装は先々代のヒルデの父ローベルトがよく好んで着ていた衣装そのものだった。
英雄であったローベルトを知る領民たちの胸に懐かしい感情が灯った。ローベルトは折に触れてよく民衆の前に顔を出していたのである。その衣装はヒルデの燃えるような美しい炎髪とよく似あった。
現れたヒルデは凛々しくも眩しい笑顔とともに、張りのある声を響かせる。
「我が民たちよ!今日はよく集まってくれた。私を知らぬ者もいるだろうから改めて名乗ろう。私の名はヒルデ・シューマッハ。亡き父ローベルト・シューマッハの娘だ」
熱狂的な歓声がそれに応えた。知らぬ者など誰がいるだろう。彼女はラーザイルの英雄であるローベルトが残したただ一人の娘であり、そして先のガラック王国を圧倒的劣勢の中、見事撃退した恐るべき将才の秘めた新たな当主である。
ヒルデは笑顔で手を振って答える。だが、少ししてヒルデはふとその微笑に陰が差す。
声のトーンを抑えながらもしかし周囲に響くような声で語り掛けた。
「まずはこの場でお前たちと再び会えたこと嬉しく思う。公の場で顔を見せたのは私の家族の葬儀以来か。あの日、多くの者が私の家族を想って涙してくれたことを昨日のことにように覚えている。父ローベルトはシューマッハ公爵当主の鑑だった。ラーザイルを、民を守るため戦時ではいつも前に出て戦い、平時では民への慈しみを忘れぬ良き領主であった。だが、その父は殺された。ほかならぬ叔父の手によって。幼い当時の私は何もできず、山荘に閉じ込められた。そして、多くの者にとって長く辛い冬の時代が続いた。――それが五年だ」
ついさっきまで沸きあがっていた聴衆は一気に静まり返った。五年もの時がたったとはいえ、まだ世代は変わっていない。多くの者があのローベルトの輝かしい時代を知っていた。そしてそれが急転直下した絶望も。
「よくぞ耐えてくれた」
その一言には苦しい時代を生き抜いた者しか出せない万感の思いが籠められていて、大きな声でなくとも不思議なほど多くの者の胸を強く打った。
「ただ詫びねばならない。私の力不足とはいえ、叔父の専横を許しお前たちを苦しめたのは事実だ。例えどのような事情があったとしても、民であるお前たちからすればシューマッハ家が為したことには違いないのだ。ゆえに謝らせてほしい。――すまなかった」
ヒルデは深く頭を下げた。
驚くべき光景に聴衆は時間が止まったかのように固まった。貴族が民に頭を下げる状況をこの場にいる誰もが経験したことはなかった。
「……ヒルデ様が一番……!」
聴衆からは見えないテラスの奥からペトラ・ロームが自分を抑えきれぬような声を上げ、はらりと涙を流した。
ヒルデの言う意味は頭では理解できた。ヒルデの言う通り、ペーターの悪政はペーター個人の話だけではない。シューマッハ家の過ちでもある。ゆえに、先代の罪をヒルデは当主として謝罪をしているのだろう。
だが、彼女は侍女としてヒルデが辛かった五年間を共に過ごしてきた。ヒルデの怒りと哀しみを誰よりも近くで見てきた彼女の胸は今にも張り裂けそうだった。
義賊上がりのヒルデの片腕――ラルフ・ランドルフはペトラの肩に手を置いて無言で首を横に振った。付き合いの短い彼自身はペトラのような感傷はなかったが、軽い驚きはあった。貴族が民衆にわざわざ演説をするのはもちろん、頭を下げるなんてことは異例である。義賊であるラルフを対等の礼で迎え入れた実例はすでにあるのだが、つくづくヒルデは普通の貴族の型にはまらない人間だった。
――いや。そもそも貴族を潰すと宣言したのは彼女だ。だから、その型に入るつもりがないのは当然だ。だが、この意味はなんだ。目指す先は何か。
頭の中で考えを巡らせて、一つの心当たりに行きついたラルフは内心笑った。もし本当にラルフの予想通りならば、なるほど今の行動はその布石に違いない。が、確信を持つにはその道筋はあまりに遠かった。その想像が正しいかはいずれ分かること。今急いで問い詰めることもない。
ペトラが涙で濡れた瞳をラルフに向ける。ラルフは己の思考を切り上げて、ペトラに顎で聴衆の方を示した。
「ヒルデ様……!」
音一つない静寂の中、群衆の中から一人の男が崩れ落ちるように跪いた。驚いた周囲が距離を取り、男の姿が露わとなる。
ところどころ穴の開き、擦り切れた粗衣。痩せこけた頬。ぼさぼさの髪。見るからに栄養失調で今にも倒れそうな男が声を震わせて訴えた。
「私には一人の息子がいました……!ですが、税の取り立てが厳しく、飢えに苦しみ、弱った息子は半年前、病で死にました……!いえ、殺されたのです!私の息子は……!先代の領主様に……殺されたのです……!」
血を吐くような訴えが針のように数千の人々の胸に痛く突き刺さった。他人事ではない。ここにいる者皆が程度の差こそあれ、同じような思いをしてきたのだ。
悔しそうに俯いていた男が昂然と顔を上げた。
「ヒルデ様ッ……!」
ヒルデはまっすぐに男の目を見つめた。どんなことを言われたとしても全てを受け止める覚悟をした目だった。
「ありがとうございました……!」
男は涙を流して地面に手を付いた。
「一生かけてもどうにもできぬこの恨みをあなたは――晴らしてくれました……!息子の仇を討ってくれたこと、感謝いたします……!」
ヒルデが静かに言った。
「名を聞かせてくれ」
「フリッツと…申します」
ヒルデが再び尋ねる。今度はより優しい声音だった。
「そうか、フリッツ。では、お前の息子の名は?」
男は感に打たれたように、目を見開いた。涙ぐんだ男が絞り出すように答えた。
「クルト――でございます……!」
ヒルデは黙祷を捧げるように目を瞑った。しばしの間それが続き、ヒルデが目を開いて言った。
「――ありがとう。お前たちの思いを私は忘れない」
声にならない感動が男の全身を打った。その感動はさざ波のようにその場にいた人々に浸透していく。ヒルデは声を上げた。
「過去には戻れない!喪った者は帰ってこない!だが、過去にあった悲劇を――繰り返してはならない!――あってはならない!忘れてはならないのだ……!――ゆえに私は!約束する!二度とこのような悲劇が起こらぬよう全力で努めることを!ヒルデ・シューマッハはラーザイルの民とともにあることを!宣言する!」
その声の覇気に当てられてしんと鎮まったのは一瞬のことだった。すぐに興奮で爆発したかのような歓声が周囲一帯に響き渡った。ヒルデの訴えに震えた心――それが叫びによって現れ、聴衆は理性のたかが外れたようにあらんかぎりの声で吠え、ヒルデの名前を全身全霊で唱和する。
初夏の雲一つない晴天の下、ヒルデ・シューマッハは威風堂々たる様で手を上げて応じる。だが、恐ろしいことにこれだけの劇的な状況を作り出してなお彼女の目はその先を見据えているような冷静さがあった。
――実際、ここまでは彼女にとってただの前段でしかなかった。彼女をより正当化するために用意した演目の一つでしかないのである。
ヒルデは聖人でもなければ、民衆の夢見る理想に殉じる領主でもない。確かに彼女はラーザイルの民を愛してはいる。彼女の理想は民を守るものではある。だが、彼女の理想は、正確にいえば『ラーザイルの腐敗を滅ぼし、公正な国家を作り上げること』であった。
いつの時代も民が求めているのはその瞬間の平穏で豊かな生活である。だが、ヒルデの理想を叶えるには戦いを避けては通れない。また、ヒルデも必要とあらば民の犠牲も厭わない気でいた。そのためにヒルデは民を扇動するのだ。
だが、多くの民はヒルデの本心――自分たちの希望との微妙な違い、に気が付かない。ただ、ヒルデこそが本当に民を想う主であると心から信じ切っていた。民が蒙昧なのではない。ヒルデには聴衆が求めている言葉とあり方をよく理解していた。彼女が特別に優れた演出家であり、役者であったのだ。
ヒルデは思う。偽善かもしれないが、少しでも己の理想が民のために繋がるようにと。
熱狂が少し収まってきたのを見て、ヒルデが片手で抑えるような手ぶりをした。同時に聴衆の熱狂が魔法にかけられたかのように鎮静化していく。
冷徹な己の理想の体現者として行動を起こすべく、ヒルデは口を開いた。
「さしあたって私は次の二つを行うことを約束する。一つは休息だ。先の触れでも出したようにこの一年間の税についてはその多くを免除する。その後の税についても見直しを行うことを約束する」
分かりやすい救済策。聴衆が嫌う道理はない。大きな拍手と歓声が熱烈な賛意となって現れる。ヒルデは拍手の後に再び口を開いた。
「もう一つはペーターの悪行に便乗した者のことだ」
不穏さを感じさせるその一言に一気にあたりが鎮まった。一拍置いてヒルデは続ける。
「ペーターは国を売り、民を虐げた悪そのものだ。だが、奴の下で私腹を肥やしていた者を、その悪を私は見過ごさない。悪には罰を、善には褒賞を。当たり前のことだ。私はその当たり前に則って裁きを下す。彼らに相応しい罰を与える。悪をのさばらせることがないように」
徐々にヒルデの言葉に熱量が籠められていく。ヒルデは唇を軽く舐めた。ごくりと嗄れそうな咽を唾で潤した。
「シューマッハの民よ。私は剣である。外敵を打ち払い、内なる悪を突き刺す剣である。私は代々のシューマッハ家が為してきた誰よりも苛烈な剣となるだろう。このシューマッハ家はラーザイルの守りの要に位置する領土で争いが絶えない地帯だ。私も当主になったばかりでラーザイルのまとまりは欠き、外敵に付け込まれることも多くなるだろう。内政にあっては、つい先までペーターの悪政があったばかりだ。しかし、私は願う。その剣が血を見ないで済む日が来ることを。平和な日が訪れ、お前たちが心からラーザイルの民であることを誇りに思う日が来ることを。長年ラーザイルを守ってきた同胞たちよ。私は新たなシューマッハ家当主としてお前たちの主となる。私は剣だ。だが、その剣はお前たちがいてこその剣だということも忘れないでほしい。――最後に。知っている者もいるかもしれないが、私を『鮮血公女』と呼ぶ者もいるようだ。ならばだ。その悪名をあらんかぎりに広めよう。その悪名で後の世のラーザイルの幸せに繋がれば、これに優る喜びはない」
大声を上げた訳でもないのにその力強い言葉は、多くの者に届き、魂を揺さぶられるような感覚として残った。
「長くなったが私の話は以上だ」とヒルデが締めくくる。同時に聴衆の感動は頂点に達した。ヒルデがその場を後にした後も、ヒルデの名を叫ぶ声は止まらなかった。そして、ヒルデの言葉は一瞬の内に人々の口からラーザイル中を駆け巡ることになった。
ヒルデの演説の内容を聞いた者の反応は立場によって喜んだり眉を顰めたりそれぞれだった。が、その中で最も衝撃を受けた者はペーターの下甘い汁を吸っていた貴族や役人たちであった。
元よりヒルデとは敵対派閥であった彼らではあったが、その多くは民から搾取した財で成り上がった者がほとんどであり、動かせる兵士は少なく、また他貴族同士の特別なつながりもあまり持たなかった。ゆえに目立って結束することはなかったが、多くの認識としては戦いを選んだ。無論単独ではない。ガラック王国に至急の使者を送り、寝返る代わりに援軍を要請した。シューマッハ領外への逃亡を計る者もいたがそれはごく少数派だった。
ただ、ヒルデの演説が広まってすぐのこと、その家臣や使用人たちのほとんどは蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。主人が粛清の対象であることを知った彼らは巻き込まれたくない一心で逃げ去ったのだ。
あのガラック王国軍を打ち破った相手に己の主人が勝てるはずもない。そんな相手に戦うなんて狂気の沙汰だ。逃げた家来の中には、主人の家財をくすね、そして主人の計画を事細かにヒルデの許へ密告する者もいた。裏切り行為以外の何物でもないが、彼らは己の行為をヒルデの理想のためと正当化し、主人の命脈をその手で何のためらいもなく断った。
家来に見捨てられた貴族や役人たちはほとんど人のいない己の屋敷に取り残され、絶望的な状況に顔を青ざめさせた。
「……終わりだ」
だが、一部にはまだ抗おうとする者もいた。
「まだだ!金に糸目はつけん!可能な限り多くの傭兵を雇うのだ!ガラック王国軍が来るまで何としても時を稼げ!」
しかし、その行動は遅きに失した。
「実に滑稽だな」
予め標的を定めて準備を整えていたラルフはその状況を冷静に観察していた。その後の行動は早かった。
「先代のごみ掃除だ。さっさと終わらせるとしよう」
つまらなさそうにそう言って、ラルフは号令を出した。逃げの一手を選ぶような力のない者には即座に衛兵を差し向け捕縛した。一方、それでもなお戦う意志のある者には、戦力を集中させる前にまとまった軍を率い、抵抗する暇も与えず迅速に討伐した。
結果、ペーター派閥の残党は僅か十日で掃討された。その中にはペーター存命時にヒルデの婿となる予定だったハンス・ウィルデンも含まれていた。
ヒルデはその報告には「そうか」と応じただけだった。その肩書は今のヒルデにとって何の意味も持たない。
「早かったな」
「造作もないことだ」
ヒルデなりの称賛の言葉に、ラルフは誇るわけでもなく肩を竦めた。
ヒルデは口元をほころばせた。面倒な仕事だとラルフがぼやいていたことを思い出したのである。
その後、ヒルデは討伐した家長の首を皆等しく刎ね、不当に蓄えた財と支配していた土地を没収した。一方でその遺族への罰は不問とした。その罪は当人にのみ帰せられるものとヒルデは判断したからだ。
罪を問われなかった遺族だったが、そのほとんどが領外に出ることを願った。
ヒルデは許した。ペーター一派への民衆の怒りはすさまじく、後ろ盾もなく自衛の力を失った遺族には己の身を護る術がなかったからである。遺族たちは遠方に住むそれぞれの縁戚を頼って旅立った。以降、その遺族がどうなるかは天のみぞ知る。