寡兵の戦術④
時を遡ること少し。ヒルデ・シューマッハは自分たちの陣営から離れた草木の影から、ガラック王国軍の様子を眺めていた。ラルフの別動隊を除いたヒルデ麾下二千五百の兵は地形を利用し、息を潜めて身を隠していた。ガラック王国軍の死角になるような場所でヒルデたちは立ち上がるその時を待っている。
「……ついに来たか」
面白いほど予想通りの動きを見せるガラック王国軍にヒルデは背中がぞくりとした。
お膳立てされた勝利が目の前にある。それを作り出した男の名はラルフ・ランドルフ。飄々としつつも自信に満ち溢れた男は一か月前までただの盗賊だったにもかかわらず、僅かな手勢でガラック王国軍を翻弄している。
ヒルデの目に北西から立ち上る煙が見えた。意味することは明らかだ。ラルフは見事左翼軍の陣営を焼き払ったのだろう。敵が動揺している今、好機であった。
「放てえええええええっ‼」
ヒルデの号令が大量の矢を空に出現させた。
突然の喚声と攻撃にガラック王国軍は慌てた。しかし、いるはずのシューマッハ軍の正確な位置は誰も分からなかった。分かったのは矢が飛んできたのは四方八方からであり、つまるところ自分たちは包囲されているということだった。
相手はたった三千。そう思いはしても恐怖を払うことは不可能だった。襲われている当事者からすれば、たった三千でも先頭にいる自分たちはせいぜい千未満。つまり、瞬間的には負けているのだ。不意を突かれたとなると戦うどころではない。逃げ遅れればそれだけ死が近くなる。
そこを畳み掛けるようにシューマッハ軍の陣営だった施設がいきなり炎上した。炎は一瞬にして広がり、逃げ遅れたガラック王国軍を呑み込もうと荒れ狂う。
奇襲に次ぐ奇襲。予想外の連続でガラック王国軍は混乱状態になった。シューマッハ軍を先頭で追っていた部隊は、炎と飛んでくる矢を避けようと部隊長の命令も耳に入らず、我先にと後方に逃げ出した。
そしてその混乱は未だ丘を登り切っていない部隊にも伝染した。泡を食って丘を下り逃げようとする味方の部隊に隊をずたずたにされただけでなく、一緒に目に見えぬ敵への恐怖を与えた。
その状況を見計らっていたように一斉にシューマッハ軍が矢を放った。混乱の中で隊長の指示も通らない中、王国軍はなんとか盾を構え防ごうとした。が、逃げようとする味方の兵士の動きに邪魔されて、思うようにいかず被害は拡大した。
「突撃いいいいいいいいいっ!」
ヒルデの命にシューマッハ軍が左右から姿を現して王国軍の横っ腹に喰いついた。混乱慌ただしい中、そして丘の頂上からも矢はこれでもかと降り注いでくる。剣を取れば頭上から降る矢は防げず、かといって盾を掲げれば、空いた胴体が剣の餌食となる。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ‼」
ボリスはシューマッハ軍の先頭に立って大剣を振り回した。
垂直に振り下ろせば兜が割れ、薙ぎ払えば盾を砕き、斜めに切り下ろせば鎧ごと兵士を切り伏せた。圧倒的な力技。ボリスを中心として嵐が起こっているかのような勢いでガラック王国軍を蹴散らしていく。
ボリスの獅子奮迅の活躍に敵は恐れ戦き、味方は勇気づけられた。更なる猛攻を加え、ガラック王国軍の兵士を打ち破っていく。
「ボリスだけに手柄を立てさせるな!押して押しまくれ!」
ヒルデの激励に兵士たちも力強く応じる。
勢いを殺してはならない。たとえどれほど優勢でも、攻撃が途切れれば数に劣るシューマッハ軍は一転して不利になる。
ヒルデもまた先頭に立ち、鼓舞しながらガラック王国軍の兵士と切り結ぶ。最初にあった護衛の制止も聞かず、彼女は剣を振るい、その剣を返り血で染めていく。
ヒルデの白刃が滑るような軌道で相手の肉を断つ。急所を穿たれたガラック王国兵は苦痛の声を漏らして大地に斃れ、血だまりが出来ていく。
主の目を奪われるような剣技の冴えに兵士たちは意気高々に喝采を上げる。
危なげなく、いっそ美しいと思えるような流れで、ヒルデは敵を倒していく。彼女への反撃はどのような重く鋭い一撃でも軽くいなし、躱されて空を切る。彼女の身体を傷つけることは誰にもできず、せいぜい彼らに出来たのは彼女を返り血で染め上げることくらいだった。
ガラック王国兵の一人が呆然と呟いた。
「鮮血の、戦乙女……!」
その呟きが漏れる頃には趨勢はほぼ決しつつあった。
シューマッハ軍の熾烈な攻撃に対し、ガラック王国軍は戦うことを諦めて潰走した。混乱の最中、道が塞がり、前に出ることもできず後方で待機していた部隊は、前から押し寄せる部隊に巻き込まれるような形でシューマッハ軍に背中を向けた。
「バカな……。こんなことがあるか……。こんなことがあるというのか……!」
唖然とし、シモンズ少将はわなわなと唇を震わせた。一時間前までは勝利を確信していたのにたった今、完全な敗北という絶望を味わっている。最早軍としての機能は完全に失い、ここから先はただの一方的な狩に過ぎない。
現実味がなく、夢であれば早く目を覚ましたいところだが、しかし呆然としている間にも現実は刻一刻とガラック王国軍の命を奪っていく。
シモンズ少将は唇を噛み切った。
「撤退せよ……!」
だが、その命令がなくとももはやガラック王国軍は最も近い味方の陣営――ここではガラック王国軍の右翼部隊に向かって逃げ出していた。
ヒルデは叫んだ。
「追撃せよ!少しでも奴らを削ってやるのだ!」
素早く追撃部隊をまとめ上げたヒルデは逃げるガラック王国軍の背中に食らいついた。一度崩れたガラック王国軍に抵抗する術はない。我先にと逃げ惑うばかりであった。
「嘘だろう⁈」
一瞬のうちに左翼軍が敗北したという報を受けたディクソン中将は思わず素の声で問い返した。だが、どのような過程か分からないが左翼軍が敗北し潰走状態にあるのは疑いようもなく、放置すれば被害が拡大するということは明らかだった。
一度左翼軍の様子を遠望して、事実敗北したのだと否応がなしに理解したディクソン中将はただちに全軍に攻撃の停止命令を出した。予めシューマッハ軍に備えさせていた右翼軍と中央軍の両部隊に救援に向かわせ、左翼軍の撤退を援護させた。
兵卒に交じって剣を振るっていたヒルデの判断は素早く冷静だった。
「追撃はここまでだ。引き揚げよ!」
騎兵隊があれば、もう少し追撃に戦果はあっただろうが、あいにく騎兵のほとんどはラルフが率いている。ただ、戦果としては十分すぎるほど十分だった。これ以上下手に戦いを続ければ、泥沼化し、兵力に優るガラック王国軍にすりつぶされてしまう。引き際が肝心だった。ヒルデの鮮やかな指揮の下、シューマッハ軍は華々しい勝利を手に入れた。
辛うじて壊滅の憂き目を逃れたガラック王国軍の左翼部隊だったが、それでも被害は甚大だった。被害の程度を確認したディクソン中将はシモンズ少将にしっ声を放った。
「何たる無様!何たる失態!たった三千の兵を相手にろくに戦闘もできず、半数を失うなど、言語道断だ!」
「……っ!申し訳ありません……!」
シモンズ少将は面目もなく顔を伏せた。六千はいた兵は三千の兵を失ったのだ。二倍の兵力差があったにもかかわらず完敗。恥と怒りで震えるものの、言い訳の言葉も浮かばない。
ディクソン中将は普段の温厚さを忘れて、憤然とするが、心の中ではそのしっ声がそのまま自分に跳ね返ってくることを理解していた。シューマッハ軍を甘く見ていたのは何を隠そうディクソン中将自身だったのだ。その認識の甘さがこの敗北の結果に繋がっている。
ディクソン中将は続く怒声をかなりの労力をかけて呑み込んだ。だが、その剣幕を収めることまではできなかった。発せられた声はなおも怒りの波動を放っていた。
「左翼軍は西門の城攻めの任を解く。残る兵で防衛の陣地を築き、シューマッハ軍の攻撃に備えよ。これは命令だ」
「は……!」
遊軍として待機するようにとの命令。事実上、戦力外の扱いを受けたシモンズ少将は一層顔色を悪くして苦しげに応じた。反論の余地はどこにもない。敗軍の将の立場とはそういうものである。それに敗北により低下しきった士気、残存兵力の少なさではとてもではないが、攻城戦で役に立ちそうもない。
シモンズ少将が天幕から出た後、ディクソン中将は苛立たし気に椅子に座り、荒々しく水を呷った。
「くそっ!」
ディクソン中将はコップを机に叩きつけた。幕僚たちは総司令官の機嫌の悪さに声も上げられない。嵐が過ぎ去るのを待つように沈黙を守った。
苛立たしさが残る中、ディクソン中将は頭を悩ませた。このまま城攻めを続けるか否かである。
城攻めとシューマッハ軍の被害により残る兵力は約一万九千。対する敵方はジンドルフ辺境伯五千とシューマッハ軍が丸々三千は残っている。ジンドルフ辺境伯の兵数は多少損耗しているだろうが、先のシューマッハ軍の勝利で士気はかなりの高さとなっている。実数以上の実力を発揮するだろう。
しかし――
「城攻めを続行する!右翼軍は東門を、本隊は西門と南門を攻める!なんとしてでもロットシュタットを落とすのだ!」
このまま撤退すれば、ただの負け戦だ。ロットシュタットを落とした後の戦略は最早取れそうもないが、それでも戦果としてこの城を落とすことなしに帰国することはできない。
ディクソン中将は厳として命令を下すと自ら前線に乗り出して指揮を執った。
命を落としかねない危険な行為に幕僚たちは必死で止めようとしたが、ディクソン中将は激しい剣幕でしかり飛ばした。
「ここで勝利せねば、死と同義!今こそが正念場だ!ガラック王国軍の勇ましさを私に示せ!」
ガラック王国軍は奮起した。自分たちの戦いが直接将軍に見てもらう今、功を上げれば褒美をもらえるだろう。