出陣
森の襲撃の後、再び剣を取るような事態はなく、ヒルデたちは無事ゲールバラに到着した。
ゲールバラ城内はものものしく喧騒に満ちていた。ひりついた空気は戦の前を感じさせる。ガラック王国の侵攻が虚報の類ではないということが聞かずともよく分かった。
そんな中、ヒルデたちを出迎えたラルフは上機嫌だった。
「おお、着いたか。随分と早い到着だな。その様子を見るに道中色々と騒動はあったものの、ひとまずは成功、といったところかな?」
「そうだな。どうも王都の連中は私のことがよほど嫌いらしい。なかなかに酷い目に遭った」
「ふふ。嫌いな奴に好かれるよりはましだと思うがな」
「同感だ」
ヒルデは可笑しそうに笑った。それから少しだけ真面目な顔になって言う。
「随分と助けられた。一時はどうなることかと思ったが、皆のお陰でこうして戻ってこられた」
ラルフは後ろを向いて、今回の功労者たちに言った。
「だとさ。褒美には期待するといい」
「無論だ。約束しよう」
クララを始めとした護衛は沸き立った。
「まあ?あたしは別にお金欲しさに頑張った訳じゃないからね!でもくれるってんならありがたくもらうとするよ!」
クララが胸を張って言うと、エミールが苦々しく言った。
「ヒルデ様。俺が口出すことじゃないかもしれませんが、あんまり大金をやって調子に乗らせないでくださいね。こいつはこいつで自由にやってたところもあるので。なんなら、俺の御守代ってことでその褒美から差っ引いてもいいかと思います」
「御守代って何さ!あたしがいつエミールに面倒見てもらったんだよ⁈」
「ほとんどずっとだっただろうが!仕事を忘れて遊びまわってたくせによく言うぜ!」
「なんだよ!ちょっと息抜きしたくらいいいじゃん!」
漫才じみた二人の言い合いを切り上げさせ、ラルフは護衛たちを解散させた。それからラルフはヒルデとエミールを連れて城内の廊下を歩きながら言う。
「さて、今回の王都の冒険譚は今すぐにでも訊きたいところだが、今はそれどころではない。後でゆっくり聞くとして、喫緊の問題について話をしようか」
「ガラック王国の侵攻についてだな」
ラルフは頷いた。ラルフは自分の執務室にたどり着いて、扉を開けた。
部屋の中央にある大きな机が一つ。シューマッハ家の所有するラーザイル周辺の地図を目一杯に広げ、机の上には報告書と思わしき、小さなか紙片がいたるところで散らばっている。
部屋の中でゲールバラ守備兵長のボリス・クラウゼが腕を組み、難しい顔で地図を睨んでいる。ボリスは入ってきたヒルデに気が付くと弾かれたように片膝をついた。
「ご帰還されたとは知らず、この場で申し訳ありません。ご無事で何よりでございます、ヒルデ様」
「そこまでかしこまらずともいい、ボリス。もう少し気楽にしてくれ」
「は!」
そう応じて立ち上がるものの、今度は直立不動の姿勢を取るボリスにヒルデは苦笑した。
どうにも過剰に敬われているようでやり辛い、とヒルデは感じた。が、今のところはこれでよしとした。
ヒルデはラルフに目配せをして、説明を促した。ラルフは頷いた。
「では、順を追って説明しよう。五日前、ガラック王国が国境のザストール川を渡り、ラーザイル領内を侵犯した。兵力はおよそ二万五千。ただ、敵はこちらに向かわず、北にずれジンドルフ辺境伯の居城ロットシュタットを目指している」
ラルフは地図上のガラック王国を示す赤い駒を進めて言った。
「進路上の砦、村を落としながら、一直線だ。他からの援軍は全く気にしていないようだ」
「なるほど。私たちは完全に無視されているという形だな」
侮辱だ、とはヒルデは思わなかった。相手の兵力の大きさ以前に、こちらの状況を見ればおかしくはない態度だ。以前密約のあった叔父ペーターは死んだとはいえ、代替わりしたばかりのヒルデは領内をまとめ上げることが先決だ。軍を出すまでには時間がかかる。そう思うのが自然だ。
「実際、川を挟んで防衛する基本戦略すらできていないわけだからな。とはいえ、この動きはあまりに迷いがない」
エミールは首を傾げた。
「それほど不思議ではないのでは?中核になるはずのシューマッハ家が突然のお家騒動で、ラーザイル西部諸侯たちからすれば敵か味方かも不明。各々自領を固め、防衛する方針を取らざるを得ない。そう判断してのことだと思いますがね」
ラルフが返した。
「そのお家騒動のことだが、今回のペーターの件は、国外には大っぴらに漏らしていない。厳しく情報統制こそしていないが、時間は要したはずだ。知ってからの出兵であればタイミングが早すぎる。二万五千もの兵力はそう簡単に集められるものではない」
ラルフは地図に視線を落として、僅かに顔をしかめた。
「それにこの行軍速度と不慣れな土地を行くものとしては異常だ。ジンドルフ辺境伯の侵攻は前もって準備されていた、と考えるのが自然だ」
ラルフの言わんとするところを察したヒルデが重々しく言った。
「叔父の密約のため、だろうな」
ラルフは頷いた。ヒルデは想像した筋書きを語った。想像と言ってもほとんど事実だろうという確信を籠めて。
「ペーターがジンドルフ辺境伯領への侵攻ルートを売ったのだろう。それでいざ侵攻があったとしても、ペーターは密約に従って立ち上がらず、傍観。他の諸侯もシューマッハ家が動くまでは様子見。まさに今のような状況ができるというわけだ」
「なんと……!」
ボリスが目を見開いた。かつての主のせいで宿敵にラーザイル領内深くまで侵攻され、このような苦境にあっている。沸々と怒りが湧き上がるものの、それを口にすれば不敬になるという抑制で難しい顔になった。
エミールも驚いたものの、納得したようだった。彼はボリスと違って、過去にしがらみがない。
「もし、事前に情報が完全に筒抜けで、シューマッハ家の騒動をきっかけに動いたのならば、こちらに侵攻するはずだ。今は流石にこちらの状況を知っているだろうが、ここを襲われなかったのは幸いだな」
だが、襲われなかったからよし、という訳ではない。ジンドルフ辺境伯の次はシューマッハ家であるのは明白だし、西部の危機を見過ごしたとあってはシューマッハ家の沽券に係わる。
「状況は理解した。細かい話は道すがら聞くとしよう。それで、こちらの動かせる兵力はいかほどだ?」
「ざっと四千だな」
短くラルフが答えた。二万五千を相手に決して多い数ではない。無策に正面で相対することにでもなれば、一瞬のうちにすり潰されてしまうことだろう。続けてラルフが言った。
「内いくらかこちらの城の守備に残すことを思えば、援軍に出せるのは三千といったところだろう」
己の勢力を示す黒い駒に触れて、ヒルデは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「百の兵力が一気に三十倍に膨れ上がったわけだ。心強い話じゃないか」
ラルフもまた皮肉気な笑みで応じる。足りぬ戦力なのは重々承知の上。ここで立ち上がらねば、王を討ち、ラーザイルを作り変えるなど夢のまた夢だ。ここで賢さを気取り、様子見を決め込むようであれば、名声は地に落ちるしかない。
ボリスが重々しくヒルデに尋ねた。
「お待ちください。もしや御身が直接出られるおつもりでしょうか?」
「無論。何か問題でも?」
ボリスは厳めしい顔で前に立ち、太い声で諭すように言った。
「危険です。未だ領地を治められたばかりで兵力も十分とは言えません。ここは我らにお任せして、ヒルデ様はここで吉報をお待ちください」
「それは私が女だからか?」
ヒルデの瞳に初めて険が生じた。女は守られるべきだとか、戦場に相応しくないなどと寝言を言うのであれば、この場から叩きだしてやる。
そう思わせるほどヒルデの眼光はあまりに鋭かった。実際、その思いもあったボリスは一瞬怯みを見せた。が、すぐに「いえ」と首を横に振って答える。
「そのようなことはございません。ですが、ヒルデ様はシューマッハ家直系の血を引く最後の一人です。あなたを喪う訳にはいかないのです」
ヒルデは意表を突かれた顔をして、「ふむ」と口元に軽く手を当てた。そしてヒルデは目つきをやわらげて、微笑みかける。
「お前の心配する気持ちは嬉しい。だが、敢えて尋ねよう。城で座して待つ私と軍勢を率いてガラック王国の打ち破る私、どっちが見たい?」
「……!」
その言葉にボリスはすぐ返事ができなかった。一瞬の間にその目の奥に夢想が過ったのである。ヒルデが多くの軍旅を引き連れて戦場を駆け、力強くも気高く指揮する姿を。ヒルデは笑って言った。
「それが答えだ。私はシューマッハ家の当主として、打って出る。部下に任せて己は安全な城内にいては民に笑われよう」
ああ、とボリスは身を打ち震わせ、片膝を立てた。
「失礼いたしました!ならば、私をお連れください!なんとしてでも御身をお守りいたします!」
ヒルデは鷹揚に頷いた。
「分かった。此度の戦、この身はお前に預けるとしよう」
「ははっ!」
余計なことを言わぬよう見守っていたラルフが口を開いた。
「となると、エミール。お前は留守番だな」
「了解です。俺も十分働いたんでね。ここでゆっくり休ませてもらいますよ」
肩を竦めたエミールふうっと息を吐いた。気楽な態度はボリスと対照的で万の軍勢が迫っている危機を感じていないようにすら見える。
別にエミールは状況を軽んじているわけではない。だが、ラルフが何の勝算もなしに無策で突っ込むなんてことはないだろうし、ヒルデにしても大軍を前に無意味に悲壮な覚悟を決め玉砕するような人間には思えない。楽観しているつもりはないが、ただ負けて帰るようなことはもちろん、命を落とすなんて想像もつかない。
ヒルデがラルフの方を向いて確認した。
「出撃の準備は?」
「抜かりない。いつでも可能だ」
ガラック王国の不審な動きを見て軍の編成と準備を急がせてきた。ここで出撃できないようでは流石に話にならない。
満足げにヒルデは頷き、颯爽と身を翻した。
「ならば出陣だ!ガラック王国の兵士を一人残らず叩きだしてやるぞ!」