仇との謁見
翌朝、ヒルデは王宮に参内した。廊下を行く道すがらすれ違う衛兵や官吏たちに驚きの目を向けられる。ヒルデの装いを指してこそこそと囁き合う。未だ幼さは残っているものの、漂う気品はヒルデが貴人であることも疑いようはなく、何かしら事情があるのだろうと見守った。ただ、彼らはまさかその少女が自身の王と会うまでは想像していなかった。
そういった視線を無視してヒルデは玉座の間に向かう。玉座の間に向かう扉が重々しく開かれ、ヒルデは足を踏み入れた。
部屋に踏み入れた途端、温度の低い非好意的な視線がヒルデに集まる。ほとんど同時にざわりとどよめきの声が上がった。
喪服だった。居合わせる貴族たちが少しでも己をよく見せようと華やかな装いで着飾っているのに対して、装飾一つない黒の装いでヒルデは現れた。しかし、その装飾のなさは彼女の美しさを損なうものでは全くない。深く落ち着いた黒の喪服がヒルデの大人びた気質も相まって、より上品に演出し、首筋から覗いた白磁のようなきめ細かな肌は凛とした美貌をより美しく際立たせていた。
燃えるような赤い髪は派手にならぬよう短くまとめられている。目は伏せられているが、それでも時折その瞳からは彼女の知性と意志があってこその輝きを放っていた。玉座の間に喪服で現れる胆力やその容姿だけでもヒルデがただの小娘ではないと思わせるに充分であった。
ヒルデは動揺と感心入り乱れるように見守る貴族たちの間を静かに、優雅さを保ったまま通り抜ける。
百人を超す人間がいるその玉座の間でヒルデは瞬く間に空気を支配しているようだった。ヒルデの存在感にざわめきすら憚られるようで、貴族たちの声は小さくしぼんでいく。
ヒルデは玉座の前まで辿りつくと、己の王に恭しく跪いた。ざわめきは消え、その場は完全な静寂に包まれていた。そんな中、第一声はシルヴェスターから発せられた。
「ヒルデ・シューマッハ。遠路はるばるよく来たものだ――と言いたいところだが、そういう訳にもいかない。用件は一つ。シューマッハ公――お前の叔父ペーター・シューマッハのことだ」
ヒルデの装いに眉一つ動かさなかったシルヴェスターは淡々と尋ねた。
「ペーターを殺したという。それは本当か」
ヒルデはシルヴェスターの言葉を否定せず、さりげなく訂正した。
「ペーターを『誅殺』いたしました、陛下。叔父はあろうことか己の保身と欲のためガラック王国に通じており、背後から味方を襲う裏切りの時を見計らっておりました。これが証拠にございます」
自身の真の仇を前に自制の利いた幾分固い声でヒルデは答えた。自分を意識して抑えねば、ふとした拍子に怒りを爆発させかねない不安があった。ヒルデは持参していた証拠の書類をシルヴェスターの侍従を通じて、王に渡した。
受け取った書類を検めたシルヴェスターは「確かにこれはガラック王国のものだ。ペーターの署名もある。筆跡も間違いないだろう」と声の抑揚一つ変えず認めた。
貴族たちは「おお……!」とざわめく。噂は本当だったのか、と彼らの心は驚きの声を上げた。一方で、シューマッハ公爵家が裏切っていたという大きな事実は残る。当人が死んだとしても、公爵家としての罪が残るような問題だ。だが、シルヴェスターはそこには触れず、「よく気付いたものだ」とさして感心した様子もなく言った。
「城の家臣から密告がありました故」
嘘の建前を最小限の返事でヒルデは返す。例え頭を下げたとしても不必要に媚びるつもりまではなかった。
シルヴェスターは書類を取り下げさせた。そして、退屈そうに肘掛けに頬杖をついた。
「噂によるとあのペーターはお前の家族を暗殺した仇だという。それが本当ならば実に許しがたいことだ。私も知らなかった。五年前そのことに気付いていれば、あ奴を公爵にせず、首を刎ねたものを。ガラック王国への裏切りといい、人を欺くのがうまい男だったな」
白々しくそう言った後、跪くヒルデをじっと見降ろしてシルヴェスターは尋ねた。
「そうは思わぬか?」
すぐ空気の中に消えてしまいそうな虚ろな声がヒルデの胸を正確に抉る。ヒルデの返事が一拍遅れた。
「……おっしゃる通りです、陛下。巷で広がっている噂の通り叔父は私の家族の命を奪いました。叔父は今の今まで巧妙に己の罪を隠し、陛下を欺いていたのです。私が叔父の罪に気付けたというのは僥倖というもの。仇を討てたこと、望外の喜びにございます」
辛うじて声音を変えずヒルデは返した。揺さぶりがあることは予想していたが、想定以上にシルヴェスターの言葉はヒルデの心に棘となって食い込んできた。あるいはヒルデの反応を見る意図はなく、ただすべての責はペーターにあるとするための話だったのかもしれない。
いずれにせよシルヴェスターとの対話は僅かな間にも拘らず予想以上にヒルデの神経をすり減らしていた。
「ふむ」とシルヴェスターは口に手を当てる。無機質なシルヴェスターの目はヒルデの様子を事細かに観察している。シルヴェスターをよく知る者からすればこれは珍しいことであった。いつもの王ならば、これほど他人に関心をもたない。
シルヴェスターが再び問いを発する前、玉座の間で立ち会っていた一人の貴族が前に出て発言を求めた。
「陛下、ご無礼であること承知の上で大変恐縮ですが、私の方からヒルデ様に一つ確認させていただきたく存じます。よろしいでしょうか」
シルヴェスターはぴくりと眉を動かしたが、「構わん」と言って目を瞑った。
「ありがとうございます」と恭しく一礼をした若い貴族がヒルデの方を向き直って厭味ったらしく言った。
「ではお伺いしますが、その服装について。何の理由があってそのような喪服を召されているのです?ここは恐れ多くも王陛下のおわす場所。それに相応しい装いもせず何のつもりでしょうか」
その目は生意気な小娘が一人前のような顔してでしゃばるな、と侮蔑するようなものだった。ただそれでも若い貴族が一応の礼儀を保っているのは王の御前だからというのと、ヒルデが由緒あるシューマッハ公爵家の娘だからに他ならない。ただヒルデの喪服姿について気になっていた他の貴族は、言い方はともかく内心ではよくぞ聞いてくれた、とその若い貴族を褒めた。
対するヒルデはひっそりと小さく安堵の息を吐いた。分かりやすく明確な悪意の籠った言葉。正直、仇である王に真綿で絞められるような会話をするよりもよほど与しやすい。
そんなヒルデの思いを知らず若い貴族は声高に責め立てた。
「まさか自身の罪を意識して、少しでも憐れみを引こうとしての装いか。確かに仇討ちや裏切りを守るためと言えば聞こえはいいかもしれません。が、実の叔父を手にかけたことには変わりありません。しかも女性でありながら剣を取り、その手を血で汚すなど――実に嘆かわしいことではないですか」
「それは流石に言い過ぎでは」という言葉が同情的な貴族たちの中から出てきたが小さく消える。若い貴族は聞こえないふりをした。実際、その場の空気は若い貴族と同意見の者が半分以上を占めている。それを思えば若い貴族の発言は責められるようなものではなかった。
肉親を討つこと、それを為したのが女であること、どれ一つにとっても忌避感を抱かずにはいられない。特に伝統的な男社会の人間である彼ら貴族にとって後者はその感情が顕著であった。
若い貴族は己の優位を意識して返事を待った。少しでも隙を見せれば、いびり倒してやる。澄ました美貌が泣き崩れるとどのようになるのだろうと、若い貴族は歪んだ期待に目を輝かせていた。
だが、ヒルデの返事は彼が期待していた反応とは全く違うものだった。
「同情を誘うため?いいえ、違います。これは決意の表れです。何物にも染まらぬ私の意志をこの場で示すためこの衣装を敢えて選んだのです」
「ほう?決意?意志?ではそれが何の意志か教えていただけないでしょうか」
「シューマッハ家として戦い抜く意志」
ヒルデはそこで初めて若い貴族の方に目を向けた。彼女の両の目から放たれた静かな気迫に若い貴族はからかう言葉を失い、硬直した。
「民を守るため剣を抜くのがシューマッハの意志。私は父よりそのように教えられました。父はその言葉の通り、戦いの旅に剣を取り、多くの外敵を打ち破り、民を守ってきました。そしてそれは私の父よりも前から――歴代のシューマッハ家当主が為してきたことです」
ヒルデの眼光に力が加わった
「しかし、叔父はその意志を、王を、国を、民を裏切りました」
その言葉に若い貴族は喉元に剣を突き立てられたような錯覚を受けた。うっすらと冷や汗が流れ、何も口を挟むことはできなかった。
「ゆえに私は叔父を誅殺いたしました。たとえ分を超える行為だったとしても、シューマッハの血を引く者として、為さねばなりませんでした。私は己の行為を恥じるつもりはありません。が、それを罪と言うのならば、私は甘んじて受け入れましょう」
声を荒げるでもなく毅然とそう言ってから、ヒルデはふいに柔らかい口調で「それに」と付け加えた。
「私が最後のシューマッハ家として締めくくるのであれば、この姿が最も相応しいでしょう」
再び周囲の空気をヒルデが支配した。貴族たちは少女の覚悟の強さに誰一人言葉を発することができない。若い貴族とのやり取りを無表情で眺めていたシルヴェスターにヒルデは「陛下」と声を上げた。
「私に罪があるというのならお裁きください。ですが、そうでないのならば――私のシューマッハ家継承をお認めください」
シルヴェスターは無言だった。ただじっとヒルデを見下ろすばかりで反応を示さない。その虚無な瞳がヒルデの決意に溢れた輝く瞳を映し出す。そこに揺らぎというものは全くなかった。
誰もが口を開くことを憚った。王の裁決が出る瞬間を貴族たちが固唾を呑んで見守る。緊迫した空気は身じろぎ一つ許されないほどのものであった。
永遠に続きそうな無言の時が流れた。が、それはシルヴェスターの衝撃的な言葉で破られた。
「ヒルデ・シューマッハ。実は今朝、ガラック王国が侵攻してくる、という知らせが入った」
「……!」
ヒルデは驚いて顔を上げた。他貴族もどういうことだと、動揺が広がった。そのような情報を誰も聞いてはいない。シルヴェスターの表情だけが常と変わらぬままだった。
我慢しきれなくなった老臣の一人が髭をせわしなくさすりながら、確認を求めた。
「陛下、それは誠でございましょうか?数はいかほどで……?」
「数は二万程度と聞いている。多少数は前後するだろうが確度の高い情報だ。まず間違いはあるまい」
「二万……!」
その数に絶句した。様子見や小競り合いの類ではない。本格的な侵攻以外にありえない規模だ。
シルヴェスターの目が再びヒルデの方に向けられた。
「ヒルデ・シューマッハ。貴女のその決意、よく伝わった。シューマッハ家を継ぐに相応しい覚悟だ。そうでなくては、シューマッハ公爵の座は務まらないだろう」
「……!」
ヒルデを含めた玉座の間全体に緊張と衝撃が走る。これから王の言わんとすることを皆瞬時に察したのだ。
「行くがよい、公爵。ラーザイルの守護者としての役目を果たすのだ。事は大きく急を要する。公はただちに帰還し、準備を整えよ。我らも準備出来次第、公の軍と合流する」
玉座の間で少なからぬ動揺と感心に包まれる。その言葉は王がヒルデを認めたことに他ならない。正式な手続きこそまだだが、ヒルデは晴れてシューマッハ公爵となったのだ。
念願の勝利。ヒルデは勢いよく応じた。
「はっ!謹んでご下命承ります!」