ミランダ王シルヴェスター三世
ミランダ王シルヴェスター三世――シルヴェスター・ボルグハルトは四十二歳。在位十四年目であり、これまでラーザイル宗主国として治めてきた彼の外向きの評価は可もなく不可もなくといったところだ。騒乱の起こりやすい西部に関してはこれまで亡き名将であるローベルト・シューマッハに一任し、彼が死んで以降は特に目立った動きはないまま今に至る。
その身体的特徴にしても取り立てて何かあるわけではなく、人の平均よりはやや長身で、顔立ちにしても美貌ではないにしろ整っている、といったところだ。ただ人としての温度を全く感じない無機質な碧眼がその人となりをよく表していた。
「お前の瞳は蛇のようだ」
かつて侮蔑と嫌悪の感情を隠さずそう評した兄がシルヴェスターにはいた。今はいない。シルヴェスターは玉座を手にするため、競争相手であった兄や弟、その他親族の尽くを謀略にかけ、追放あるいは始末してきた。その兄も始末された一人であった。最期に何か叫んでいたが、シルヴェスターの記憶には何一つ残ってない。今となっては顔すらも思い出せない。
さて、ペーターが殺されたという知らせを聞いた後、シルヴェスターは一人私室に引きこもり、家臣に入室を禁じた後、黙考した。
視線を虚空に彷徨わせ、思考にふける。思わぬ何かがあったときに行うシルヴェスターの習慣だった。しばらくして部屋からひっそりと出たシルヴェスターはバイエルン伯爵を侍従に呼ばせた。
王の呼び出しを予想していたのか、バイエルン伯はすぐに姿を現した。侍従に下がるよう命じて、部屋の中は二人だけになった。
恭しく王の前で跪いたバイエルン伯にシルヴェスターが尋ねた。
「シューマッハ公の件、どう思う?」
何の抑揚もなく平坦な声が投げ落とされる。
「申し訳ありませんが、私も噂を聞きつけたばかり。他の方々と知る内容にそれほど差はございません。急ぎ確認を行っているところです。確証なく陛下に私の推測を申し上げるわけには参りません」
「構わん。思うところを述べよ」
「は……」
バイエルン伯はまず己の知る噂の内容を言った後、自身の推察を付け加えた。
「噂の経緯はともかく、シューマッハ公が亡くなられたこと、そしてその姪であるヒルデ様が今回の騒動を実行したこと。この二つについては、可能性は高いと愚考します。この二つに関しては、結果の話。噂の性質から察するに、ここで虚偽の内容を混ぜることはないかと思われます」
「そうだろうな。私もそう思う」
シルヴェスターは顎を一撫でした後、思い出したように尋ねた。
「時に伯はシューマッハ公に近頃会いに行ったようだな。その際はどうだった?」
「よくご存じで」
バイエルン伯は恐縮した風を見せた。シルヴェスターが独自の情報網で貴族を監視しているということはある程度の貴族であれば誰もが知っていることである。
「自身の地位を盤石にする案をお探しのようでした。ヒルデ様に家督を奪われぬようにしたいと」
「ほう。その時点できな臭い動きがあったと?」
「さて……。何かあったわけではないようですが、今思えば気になる点があったのかもしれません。私はあの娘を始末すればと提言したのですが、公は別の案をお考えだったようで。少なくとも差し迫った風には感じませんでした」
「ちなみにその案とは?」
「なんのことはありません。嫁入りにございます」
ウィルデン家の名前をバイエルン伯は伏せた。ほとんど無関係なのに、巻き込む必要ないだろう。バイエルン伯はそのように判断した。
「……なるほど」
シルヴェスターの目が一層冷えたものになる。ペーターの小賢しい在り様をこの王は以前から軽蔑していた。
その話はもういい。シルヴェスターの目はそう言っていた。
「公が通じていたという噂については……噂と公の性格からの憶測に過ぎませんが、否定しきれない、としか申し上げられません。今思えば、確かに公の私室にはガラック王国の品々が多数ございました。申し訳ございません。その時点で調べておくべきでした」
「……」
シルヴェスターは少しばかり考え込むような仕草を見せた。その変化に乏しい表情からはどのような思考を巡らせているかバイエルン伯には判別が付かなかった。だが、少なくとも知っていたのではないか。知っていて放置したか、あるいは手を打っていたか。
いずれにせよ、バイエルン伯の推測が及ぶところではない。それは過去の話。シルヴェスターも触れるつもりはないだろう。
少し間を置いてシルヴェスターは再び問いかける。
「他には?」
「特に何もございませんでした、陛下」
「――伯よ」
そう呼ぶシルヴェスターの声はあくまで平坦なままであった。
「敢えて口にしなかったことが一つあろう。ここには私とお前しかおらぬ。気にせず申すがよい」
「申し訳ありません。それでは恐れながら。シューマッハ公、ペーター様がヒルデ様の仇という話でございます」
シルヴェスターは頷いた。
「ローベルト様が亡くなられた時からもそのような噂自体はございました。ヒルデ様がどこまで事情を知っているのか不明ですが、注意をしておくに越したことはございません。もしよろしければそれとなく探りを入れようかと」
「そうだな。伯の言う通りだ。だが、探る必要はない」
「……は」
波風を立てるな、という意味でバイエルン伯は理解した。しかしシルヴェスターの意図はそうではなかったらしい。続く常と変わらぬ抑揚のない口から出た内容にバイエルン伯は驚愕した。
「実は昨日、私の部屋に文が届けられていた。宛名はなかったが、そこにはこう書かれていた。『正しき継承がなされなければ、英雄の真の仇が明らかとなる』と」
「それは……!」
バイエルン伯の陰気な目が驚きで僅かに見開く。だが、内心の動揺はそれ以上であった。
「十中八九、いや確実にそのヒルデとかいう小娘の仕業だろう。公が死に際に口を割ったか、それとも何か他に手がかりを見つけでもしたか。だが、そんなことはどうでもいいことだ。分かるかバイエルン伯。一国の王を相手に、分不相応にも脅迫し取引を持ち掛けたのだ。もし公爵位を認めなければ、その真の仇が誰か噂を広める、と。随分直接的な表現なのが少しばかり気になるが」
非常に珍しいことにシルヴェスターの口ぶりが楽しげであるように感じられた。
「驚きで言葉もございません。陛下の私室に土足で踏み込むばかりか、そのような文を送るなど許しがたき行為にございます。実行した不届き者は捕らえられたのでしょうか?」
「いや、見つかっていない。捜しても無駄だろう。私室に文を置くことくらい、ある程度の人間であれば誰にでもできる」
再びシルヴェスターの口調が平坦なものに戻る。バイエルン伯は黙然と頷いた。シルヴェスターはバイエルン伯に、というよりむしろ自分の中で整理するように言葉を続けた。
「もし仮にその要求に従わないとしてだ。噂程度気にするほどでもない、と切り捨てるのは容易だ。だが、広まったら広まったで厄介なことには変わりない。未だローベルトへの民衆の人気は意外にも根強く残っているようだ。領民に反発され、それがもとで諸外国に下手に付け込まれるようなことは避けたい」
「……」
「そもそもこの噂にしても不自然だ。ここまで噂の広まりが早いことを思うと警戒した方がいいか……?」
王の思考を邪魔しないように口を挟まず控えていたバイエルン伯が確認のため一つ尋ねた。
「お考え中のところ恐れながら失礼いたします、陛下。というと、この噂、意図して流されたものだと……?」
「それがヒルデ本人か、あるいは背後にいる何者かは今のところ分からぬが、ほぼ間違いはあるまい。仮に背後で操る者がいれば、何も知らぬまま下手に刺激するのは得策ではないだろう」
「背後、というとやはりガラック王国でしょうか?」
「それも一つだ。何はともあれ今時点においては様子見とする方がいいか。表立ってはその時の流れに身を任せるとしよう」
「……御意」
結論は出た、というようにシルヴェスターは一度静かに目を瞑った。
これが東部の話であれば、躊躇いもなく所領没収することができただろう。反抗したとしても、すぐに制圧できる。だが、西部はミランダ王家の手から離れて久しい。隣接する諸外国の動向次第で情勢が変わることもあり、下手な手出しは慎むべきだった。
「近いうちヒルデが王宮に来るという知らせも入っている。そこで伯に頼みたいことがある」
「なんなりと」
シルヴェスターはいくつか指示を出して、頷いたバイエルン伯が退室する。再び一人になったシルヴェスターは「ヒルデ・シューマッハ……」と呟いた。
「まずは会ってみることにしよう。判断はそれからでも遅くない」