英雄が死んだ日
――この物語は英雄の死から始まった。
それは近く冬が到来することを感じさせる冷たい風の吹く秋のことだった。
月明りのない夜半。暗い森の中で焚火の火の粉が小さくはぜる。
僅かな灯りから影が二つ伸びている。跪く男と凛と立つ少女の影が大地に映し出されていた。
弱々しく揺らめく炎が男の顔を暗闇の中、不気味に浮かび上がらせる。
生気のない虚ろな瞳。血の気の失せた青白い顔。鍛えていることが窺える体躯に反して、頬は痩せこけ、その肌は死病に憑かれた病人のようにかさついている。
男の纏う外套はそこかしこが血に染まり、泥と一緒に赤黒くこびりついていた。汚れた闘争の跡、それこそが逆に男を生者の側に辛うじて引き留めているようにも見えた。
異様な男だった。背後から疫病神に抱擁されているのでは。そう思えるほどの不吉さを纏わせ、男は地面に視線を落としている。
だが、生理的嫌悪感にも似た恐怖を抱かずにはいられない男を前にしながら、相対する少女は毅然とした姿勢を崩さなかった。
美しく利発そうな顔にはやや強張りはあるものの、男を見据える目に揺らぎはない。肩下まで伸びた赤髪を軽く手で払うその様は幼いながらも堂に入っている。
怖くはあっても、しかし何か彼女なりの矜持がそうさせたのか。何にせよ、その少女の胆力の強さには賞賛に値した。
少女の名前はヒルデ・シューマッハ。貴族――それもラーザイル連邦西部一の領土を統べる名門シューマッハ公爵家、その現当主の長女だ。シューマッハ家はラーザイルの守護者として戦ってきた軍人の家系であり、その歴史の古さもあって屈指の名家であった。
高い身分に生まれ、親の深い愛情を受けた彼女はしかし貴族特有の見下した驕りとは一切無縁で、幼い頃から勉学や武芸に励んできた。
その才は抜きんでており、時には大人顔負けの見識を披露することもあった。人は彼女を神童と呼び、同時にもし男だったら跡継ぎは決まっていたのに、と残念がられた。
銀の匙を咥えて生まれ、なおかつ容姿も才も十二分与えられた寵児、ヒルデ・シューマッハ。そんな彼女と正体不明の男は傍目から見れば一生交わることのない対極の存在だ。それなのに、なぜ二人が真夜中にこうして向き合っているのか。
結論から言ってしまえば、それは誘拐だった。夜半、城に忍び込んだ男はヒルデを襲い、薬で眠らせ、人気のない森の中に連れだしたのである。
目を覚ませば森の中。見知らぬ男が一人。すぐに状況を理解した彼女は気丈にも泣き叫ぶようなことはなかった。それどころかいつか機を見て抜け出してやると恐れ知らずにも内心息巻いていた。
しかし、彼女の無謀ともいえる恐れ知らずの試みは実行されなかった。
彼女が目を覚ました途端、なんと男は跪いて謝したのである。
不可思議なことに彼女は目を瞬かせた。続けて彼は言う。どうしてもお伝えしなければならないことがある、と。
誘拐された立場を忘れてヒルデはなにか、と問う。男は答えた。
「――にました」
「…………は?」
端的に告げられた言葉になんの冗談だとヒルデは戸惑った。それほど突拍子もないことだった。そして、到底受け入れられないことだった。あり得ないことだった。
彼女の戸惑いに対して男は反応を示さなかった。気味が悪いほどにただ沈黙を保っている。
「今、なんと言った……?」
その問いに男は口を開く。
「あなたの父――ローベルト・シューマッハ公爵は死にました」
「…………………」
抑揚のない声で男が再び短く告げた。父が死んだという残酷なことを。
夜風が吹き付けて、寒々と草木を揺らす。男はじっとヒルデを虚ろな目で見つめるばかり。
――うそだ。
ヒルデの心の叫びは、しかし声にならなかった。
男の全てが告げている。父が死んだのは事実であり、そしてそれは過去のことであり、もう覆りようのないことだということを。
だがそれ以上に――彼女にも思い当たることはあったのである。ただ認めたくない気持ちがありえないと訴え続ける。
「これがその証拠です」
男がおもむろに懐から取り出した。土に汚れたルビーのペンダント――それはヒルデの父が身に着けていたものだった。
「………っ」
ヒルデは目が眩みそうになった。
ヒルデの震える手がペンダントに触れる。何かを恐れるように受け取ったペンダントはその質量以上に重く、思わず取り落としそうになった。
「なぜ……!」
ペンダントを胸に抱き、行き場のない怒りと悲しみの中彼女は声を漏らす。静かに流れた涙が頬を伝って落ちていく。
愛すべき父を喪い傷つく彼女。だが男は無情そのものの一言を放った。
「私が殺しました」
ヒルデがはっと顔を上げる。
男の目はその口調と変わらず恐ろしいほどに空虚だった。否、空虚に徹しようとした悲しい意志をヒルデは僅かに感じ取った。ゆえに、その様が却ってヒルデに確信を与える。
――ああ。
この男は確かに殺したのだ。私の父を。その手で。
怒りと憎しみと悲哀が複雑に混ざった激情を瞳に宿して男を睨む。
「……母と弟は?」
感情を限界まで押し殺した声がヒルデの口から出る。それは十歳の少女とは思えない偉業だった。
訊ねたのは家族の安否。今回、戦勝記念の式典があり、少女の母アネットと弟のカールは父とともに王都に向かっていた。
止めようのない最悪の予想を無理矢理追い払いながら、彼女は問いを重ねた。
「父と同行した私の家族は……どうなった?」
答えはすぐに返ってきた。
「例外はありません。私と共に襲った賊によって殺されました」
「ふざけるなあああああああああああああああああっ‼」
必死の抑制が決壊し、ヒルデは涙を浮かべて男の襟首を掴んだ。
「なぜだ……⁉なぜ、殺した⁉言え!私の父が!母が!弟が何をしたというのだ⁉なぜ、殺されねばならなかった⁉」
男は抵抗もなく、無表情に受け入れる。ひび割れ乾いた唇から発せられる声はどこまでも無情だった。
「あなたの父君。その功の大きさ故です。己の国を護るため、軍を率いて戦い続け、常勝の名をほしいままにしてきた英雄。隣国はその威名を前に戦うことを恐れ、内ではその名声や力は群臣の中で敵う者はなく、王を凌ぐほど。――危険だったのです。英雄の存在そのものが」
「それの何がっ……‼何が悪いというのだっ……‼」
少女の悲痛な叫びが、慟哭が森中に響き渡る。涙にぬれた顔を腕で拭いヒルデは少女の物とは思えない幽鬼のような低い声で言う。
「……答えろ。殺しを命じたのは誰だ」
「……言えません。これ以上言えば、人質となっている私の家族に累が及びます」
その答えが男に出来る精一杯の誠意だった。しかしヒルデは目を剥いた。
「家族……?家族と言ったか、貴様⁉私の家族を殺したお前が!家族を口にすると言うのかっ!」
「……」
その通りだ。男にどのような事情があろうと、それは男にとっての言い訳にしかなりえない。
男は沈黙した。
歯を食いしばって睨むヒルデ。彼女の涙が男の頬に落ちる。その時、初めて男の瞳に感情らしい悲哀の揺らめきが生まれた。だが、己にはその資格すらない。その思いが男から感情を再び失わせた。
ヒルデが掴んでいた襟首から手を離す。流れる涙を何度も拭うが、止まらなかった。
男が重い口を開いた。その声は亡者のような掠れた声だった。
「あなたの叔父君ペーター・シューマッハです」
ヒルデの瞳の中で憎悪の炎が燃え上がった。しかし、その炎を無理矢理飲み下すように俯いた。再び顔を上げると強い意志を持ってはっきりと断じた。
「嘘をつくな」
男は初めて怯みを覚えた。二回りも年下の少女の言葉の力に気圧されて、僅かな動揺が語気に現れる。
「嘘ではありません。ペーター様の命にございます」
「あの小心者の愚物が父を殺しただと?ありえない。そう言えと誰かに命令されたのか?仮にお前の言うことが本当だとしてその裏がいるだろう」
そして彼女はすぐに答えをはじき出した。
「王か。ミランダ王シルヴェスターが私の家族を殺したというのか」
「……」
「私の母は庶出とはいえ、王家の血を引いている。父の名声と母の血筋。私たちを恐れ、殺す理由には十分だ」
男は返す言葉をなくして固まる。自分の目の前にいるのは本当に十歳の少女なのか。その理性と意志は大人と比べてもはるかに傑出――いや、常軌を逸している。
無言の返答にヒルデは確信を深める。だが、男はその確信を否定できない。
男が余計な感情を振り払うように首を振ってヒルデを見上げた。
「ヒルデ様……」
男は冷たい息を吐いた。
「誰の命があったとしても、英雄を、何よりあなたのご家族を殺したのは私です。それだけは間違いありません。ゆえに私のすべきことはこれだけです」
男がすらりと剣を抜いて自身の首に鋭利な剣先を向けた。
「なっ⁈」
ヒルデは驚いて止めようとするが間に合わなかった。
「申し訳ありません」
男の剣が喉を突き破って、鮮血が飛び散る。血しぶきでヒルデの頬が赤く濡れる。
乾いた音とともに男は地面に倒れた。慙愧に堪えない後悔をその死に顔に残して。
その男の名がゲルト・ヴェルナー男爵であると知ったのは翌日のことだった。