裁きの日⑤
「黙っていては分からんぞ⁉何とか言ってみろ!」
「……呆れてものも言えん」
「なに?」
ペーターが間の抜けた声を上げる。突然、ラルフが堪えきれぬように噴き出し、腹を抱えて笑った。
ヒルデはちらりとラルフに咎めるような視線を向けると、ラルフが「悪い、続けてくれ」と必死に笑いを抑えようとしていた。戸惑うペーターを前にヒルデは小さな吐息をついた。
「証拠を残していないことなぞ理解している。仮にあったとして、五年も前のことだ。民はいざ知らず、王や貴族に言っても、取り合わず、戯言を言うなと腹の中で一笑されて終わり。大義を説明する理由としてはあまりに弱すぎる」
ヒルデ自身に他貴族と強い繋がりがあれば別だっただろうが、それがない彼女に取れる選択肢ではない。
ヒルデはつまらなさそうに続けた。
「ただ、それでもお題目としてこれ以上のものはない。実際、ことは私の思い通りに動いた。――だが、私は嘘を言ったつもりはない。証拠がなくともお前が無関係でないことは明らかなのだから」
ヒルデの凍てつくような冷眼。そして冷え切った言葉に地獄の悪魔ですらたじろぐような激しい炎が燃え滾っているようだった。その激しさを本能で感じたペーターはぞくっと寒気が走ったように身震いした。
ちょうどその時、トーマスが部屋に入ってきた。
「見つけたか」
笑いのツボから抜け出したラルフが尋ねると、トーマスが頷いた。息の詰まるような異様な圧迫感を感じたトーマスは普段のおどけた態度を抑え、大人しく紙の束をラルフに渡して、ひっそりと退室した。紙束の表紙を一目だけ見てラルフがにやりと笑った。
「我が主よ。お目当てのものが手に入ったぞ」
「そうか」
ヒルデは紙の束を受け取ると、さっと目を通した。「やはりな」と呟き、床に転がっているペーターに視線を落とし、紙の一枚を抜き取って示した。
「あっ……!」とその紙が意味するところを瞬時に悟ったペーターは声を上げた。
「ガラック王国からの所領安堵の公文書だ。平時における情報の提供はもちろん、王国からの侵略に応じてお前が裏切れば、周辺の貴族領土もお前のものとある。さて、ペーター。己の欲と保身のためにラーザイルを売った裏切り者よ。何か弁明はあるか?」
「……」
弁明のしようもない確たる証拠を前にペーターは顔を強張らせたまま硬直している。ペーターの額から冷や汗がだらだらと流れた。ヒルデの手にあるものは自室の金庫に厳重に保管していた書類だった。暗号は誰にも知られていないはず。それがなぜ……?
ヒルデの傍らで興味深そうに眺めているラルフ。ふとペーターの視界にその男が入ってきた。そしてペーターはすぐに理解する。相手は黎明の狼。金庫破りは奴らの専売特許だ。いや、今はそんなことを考えている場合ではない……。
口やかましく喚いていた男が初めて沈黙したのを見て、ヒルデの表情に初めて愉悦の笑みが生じた。
「不思議に思っていた。この五年間一度もガラック王国からの侵攻はなかった。父のような名将がいたときですら、奴らは度々侵攻を繰り返したのにだ。確かに五年前、ガラック王国が受けた損害は大きかった。戦力回復に時間を要しただろう。が、それも長くて二、三年が限界。ここまで長期間何もないのはおかしい」
ヒルデはペーターの思考を追うように話す。一度ペーターの反応を待つ様子を見せたが、ペーターは目をせわしなく泳がせるばかりだった。
「あるべき侵攻が一度もなく、またお前は父に代わって撃退できるほどの力量の半分もない。お前のような無能で卑怯な男が取る手段とすれば自ずと限られる。案の定、この書類が見つかったというわけだ」
ようやくペーターが掠れた声で問うた。
「……初めからそのつもりだったのか?」
「当然。だが、お前ほど汚れた男であれば、叩けば埃がいくらでも出るものだ。やりようはいくらでもあった」
ヒルデは自身の言葉に悪意をたっぷりと籠めた。
「罪状は明らか。後は裁きの時だ」
ペーターは愕然として、身を打ち震わせた。死の運命が確定されようとしている。なんとしてでも逃れようと舌を必死に動かした。
「ま、待て!待つのだ!判断を早まってはならん!落ち着くのだ!脅すような真似をしたことは謝る!お前が反逆を企んだこと、そして黎明の狼どもとつるんでいることは黙っておく!家督もお前に譲ろう!そう――もともとそのつもりだったのだ!ははは!黙っておいて悪かったと思っている!後で――そうお前の誕生日会の時に驚かせようと思ったのだ!なに、私には少しばかり財を残してくれればいい。しばらく田舎で静養するのも悪くないだろう!」
ペーターは陽気に空笑いをしたが、虚しく響くばかりだった。口の中が乾くようでしきりに唾を呑み込んでいる。
ヒルデは全く見向きもせず、人払いを解くよう命じた。同時に黎明の狼の仲間たちが広間に入り、ペーターを一重二重に取り囲むように集まってくる。
男たちの無言の圧力にペーターは涙目で錯乱したように必死に訴えかける。
「冗談だ!冗談だとも!私は自分の罪をよく理解している!特にお前には不便をかけた――いや、悲しい思いをさせたな⁉だが、仕方がなかったのだ!私にも事情があった!――違う、そうじゃない!そうじゃないんだ!そう、お前の怒りはよく理解している!しかしだからといって、復讐心に囚われてはならない!もっと未来を見据えるのだ!ここで一度私を許すのだ!そうすれば、軋轢なく家督も継げる!周囲にも不審がられず、王にも咎められまい⁉私を殺せば、これ幸いと潰しにかかるぞ⁉まだ幼い女であるお前には難しいはずだ!そうだろう⁈思い直すのだ!私を許し、生かす。そしてお前の思うように私を使うといい!それが賢い選択だとは思わないか⁉」
「城下町の広場に連れていけ。私も後で向かう」
表情一つ動かさず、ヒルデが冷たく命じた。命じた先で何をするのか明白だ。処刑以外の何物でもない。縄に括り付けられたペーターは無理矢理立たされ、男たちに引きずられるように連れて行かれる。
ペーターの命乞いはほとんど絶叫の域であった。
「助けてくれ、ヒルデ!悪かった!私が悪かった!罪を!罪を償う!何でもしよう!私にできることなら何でもだ!だから命だけは!命だけは助けてくれ!それ以上のことは何も望まない!ヒルデ⁉」
なりふり構わぬペーターにヒルデがようやく目を向けた。そして一言だけ答える。
「無理だ」
望みが断たれたペーターは顔を土色にして、とうとう言葉を失った。
どこで間違えた。ペーターは己自身に問うた。
ペーター自身は己の器量に疑問を感じたことはなかった。彼はヒルデの後見人になると同時に兄の居城ゲールバラに移りこんだのだが、城主の席に着くと大いに満足した。以降は大過なく領地を治めていたはずだ。
それなのに今更五年前のことを蒸し返して、ヒルデが盾突いてきた。なぜだ?あれは、ミランダ王に歯向かおうとした愚か者を誅殺しただけだというのに。
――だというのにだ!
広間の扉の前。去り際に最後の光明を見出したペーターがヒルデの方に振り向いて、あらんかぎりに声を張り上げた。
「待って、待ってくれ!ローベルトを殺したのは私ではない!いや、確かにヴェルナーと謀ったのは私だ!だが違う!あれは我が王の命に従っただけ!そう、私は――」
「その汚らしい口をふさげ!」
ヒルデの命のもと、ペーターにさるぐつわがかませられた。なおももがき暴れるペーターにヒルデが一喝した。
「王に罪を擦り付けようとは身の程知らずめ!狂人の妄言に付き合ってられるか!」
ペーターが再び連れていかれ、ペーターの声にならない呻き声が遠くなっていった。
ペーターの姿が見えなくなってからヒルデがぽつりと呟いた。
「知っているとも。真の仇が王であることくらい、とっくにな……」
だが、証拠のないことである。それに今の時点でヒルデが王を相手に明確に敵対できるはずもなく、ペーター自身の証言があったとしてもそれを妄言と一蹴するほかなかった。
ただ思う。自分の家族はあんな男に殺されたのかと。