人の思い
遡ること数時間前。黎明の狼を率いるヒルデ一行が行軍を続けていると、その後ろから続々と領民がついてきている。
予定外のことで不審に思ったヒルデが命じて、一度小休止を挟ませるついでに確認させた。すると、近隣の村で村長をしている男がヒルデ達の前に連れてこられた。
「領主様の税を抑えるよう訴えてくださる、と聞いたもので……」
村長の言葉にラルフとヒルデは視線を交差させた。
そのような話はしていない。この武装を見てなぜそう思ったのか。
「その結果を見届けたいと思った者たちが集まり、このような数まで膨れ上がったのでしょう。私の村以外からも多数集まっているかと思います」
「そうか」
そう言った後ラルフは後ろを見て「多いな」と村長に聞かれぬよう呟いた。
すでに千人は集まっているだろうか。示し合わせた訳でもないのにこれだけの人数がよくもまあ、と言ったところだが、恐ろしいことになおも増えそうな勢いである。それだけ切羽詰まっているのだとは想像はつくが、これから行おうとしている荒事に巻き込まれる可能性を思うと顔をしかめざるを得ない。
「今朝方、俺たちがこの辺を通ることを話したんだが、どうも変な風に広がっちまったみたいで……」
近隣の村々への伝令を担当した男が頭を掻きながら答える。ラルフが尋ねた。
「ちなみになんと言ったんだ?」
「言われた通りでさあ。ヒルデ様がゲールバラ城に向かわれる。警護のため俺たちも一緒に行くけど気にするな。これだけだ」
ラルフ達の微妙な反応を見て、村長は顔をさっと青ざめさせた。何やら取違があったらしいと悟った村長は馬上のヒルデの方を向いて、縋るように言った。
「そ、そこにいらっしゃるのはヒルデ様とお見受けします。この度我らの窮状を見かねて、屋敷から出られたのだと思ったのですが……」
違いましたでしょうか……?と声にしなくとも不安そうな顔がそう言っている。領民の瘦せ細った体を見れば切実な問題だということがよく伝わってきた。
「――違わないとも。お前の言う通りだ」
ヒルデの断言に村長の顔を明るくした。しかし、ヒルデの続く言葉にすぐ硬直することになる。
「今日私は叔父を殺すのだから」
衝撃で返す言葉を失う村長にヒルデは続けた。
「お前たちを虐げる悪党も死ねば、どうすることもできまい。私は父が大切にしたこのゲールバラを取り戻しに行く。お前たちの長い忍耐も今日で終わりだ」
ヒルデはふっと笑う。
「来るならば構わん。ただし、私たちとの距離は十分離しておけ。折角だ。叔父の最期を見届けてくるといい」
そう言い残してヒルデたちが通り過ぎた。村長はしばらく放心したように立ち尽くしていたが、やがて去り行くヒルデの背中に向かって深々と頭を下げた。
街道を進みながらラルフは後ろを振り向いた。村長に話をしてから気が付けば数千人もの領民が後続についてきている。
「それにしてもよく集まるものだ」
ラルフの感心した呟きを耳にして、近くにいた黎明の狼の団員の一人、トーマスが尋ねた。
「でもよお。あいつら、どうするんだ?離れてりゃあ戦いに巻き込まれることはねえが、じゃあそもそも帰らせた方が何もなくて安全で楽じゃねえか」
ゲールバラまで近くなったとはいえ、まだ到着には少しばかり時間がある。領民を多数引き連れている奇妙な状態はかなり目立つ。実際のところ、ペーターがこの集団に気付き、この瞬間いきなり戦いになってもおかしくない。が、不思議とその気配はない。
それに周囲は平原。偵察も城内と周囲に出している。現時点で不意を突かれることはないか、とラルフはトーマスの問いに応じた
「まあ、お前の言うことも一理ある。とはいえ、連れてくるメリットもそれなりにあるわけだ。――そうだな。どんなメリットがあるか、言ってみろ」
「分かんねえな」
一顧だにせずトーマスは答え、ラルフは呆れた。
「分かんねえじゃないだろう。もう少し考えろ」
「考えるのは苦手だ。けど、損しないってなら、俺はそれでいいぜ」
そう言うと、トーマスは別の仲間の輪に入って雑談を始めた。「ったく」とラルフは悪態をついた。自分から訊いておいてどうでもいいと来るとは。
「私でよければ答えを聞こうか」
ヒルデが皮肉っぽい微笑を浮かべて、馬を寄せる。
「この手の話を本人にするのはこそばゆいな」
そう言いながらも、まあ、いいかとラルフは自身の推察を口にする。
「分かりやすいところでいえば、一つは頭数を揃えた、というところだろう。戦いに参加させずとも、いるだけでその多さに心理的な効果はある。現時点のゲールバラの守備兵の五倍を優に超えるわけだからな。領民が押し寄せる可能性を前にして、動揺するはずだ」
「それで?」
「もう一つは状況の与える印象だな。シューマッハ家長女が悪逆非道のペーターを討つ。それはいいとして、黎明の狼だけを率いたのと、領民を率いているのとでは印象が違う。民衆の支持を得た、という形式が整っている分聞こえはいい。なにせ俺たちは盗賊だ」
「何も付け加えることはない。その通りだ」
ヒルデは満足したように頷いた。
「狙ったのか?」
何気なく尋ねた風でありながら、ラルフの声は鋭い。黎明の狼あってのこの戦いにヒルデが独断でことを為そうとした、というのもあるが、領民を好んで巻き込むようなやり方に反対はせずとも納得しかねるような感覚がラルフにあった。
「多少は」
ヒルデは短く答えた後、前の方を向いて言う。
「予め触れを出して多少行軍にゆとりを持たせればこうなるかと多少は予想していた。だが、予想はしただけで、私の方で特に手を加えたわけではない。ただ実際に来れば、止めはすまいと思っていた」
「なぜ?」
「こう言っては何だが、今回は戦と呼べるような代物ではない。慢心しているように聞こえるかもしれないが、結果は見えている。領民が傷つくようなことはそうそうないだろう」
ラルフは頷いた。こちらの兵力こそ百程度。だが、相手は名だたる名城とそれなりの数の守備兵がいながらも、夜間の警備で疲れ、また、質も落ちてきている。こちらがある程度準備を進めていた、ということもあれば、戦力上負けてはない。
それに、ペーターは当主としての力量も低く評判は悪い。ヒルデはローベルトの長女で、正統な後継者と半ば認められている身だ。混乱はあれど、ヒルデが瞬間ゲールバラの実権を握るのに不都合はそれほどない。
「であれば、なおのこと民衆を率いる理由はないだろう。どうせ勝つのであれば、不確定な要素は排すべきだ。その後の印象を気にするのであれば、家臣どもの切り崩しに専念すればよかったはずだ。領民を気にするより、家臣どもを掌握した方が手っ取り早い」
「お前も前に言った通り、下手に内部の切り崩しを計れば、計画が漏れる危険があった。だが、そういうことではなく……そうだな。なあ、ラルフ。ペーターは領民に好かれていると思うか?それとも憎まれていると思うか?」
ラルフは突然の問いに眉を顰めた。
「何を……。憎まれているだろう。実際に人は飢え、苦しんでいる。拷問で殺された者だっている。好かれる要素はない」
「そうだ。家族を殺された者だって少なくない。皆が奴を憎んでいる。それが、ある日突然殺されたと知ればどう思う?」
「……?」
ヒルデはラルフに顔を向けぬまま感情の読めぬ顔で淡々と言う。
「私なら素直に喜べない。本当に死んだのかと疑う。だが、事実死んだと知れば、今度は虚しくなる。家族を殺した元凶がある日突然、私とは関係のないところで殺された。私のこの憎しみはなんだったのだと持て余すのだ」
「……」
「別にだからと言って、それが悪いとは言わない。その虚しさは時とともに薄れるだろう。だが、可能であれば、復讐する者たちのけじめのため、せめて直接目に収めてやりたいと思っただけだ」
そう言い残してヒルデは馬の歩みを速めた。
「なるほど。それは盲点だったな」
ヒルデが前を行った後、取り残されたラルフは僅かに自嘲気味な調子で呟いた。領主としてはあまりに情に踏み入り過ぎと言えるだろう。勝利だけを考えればよいこの時に、大勢に影響のないことに気を回すなど余計な感傷だ。だが、ラルフはそれを無駄だと切り捨てる気にはなれなかった。
少しして、ラルフは再び背後を振り返り、鬼気を漂わせながらしっかりと付いてくる痩せ細った領民たちを目に収めた。