孤高の王と陽だまりの花嫁が最幸の夫婦になるまで【短編版】
ウィルフレッドの人生は、いつも理不尽に彩られてきた。
一応、王子として生まれはしたが、妾腹の出であり、またこの国では特異な禍々しい黒髪黒眼から、忌み子としていないものとして扱われてきた。
流行り病にかかり左目を失い、醜い疱瘡が残ったことも迫害に拍車をかけた。
それらの事に耐えられなかったのだろう、物心ついた頃には、母親は心を病み妄想の世界の住人となっていた。
父王はウィルフレッドを目に入れるのも嫌だったのだろう、八歳の時、ウィルフレッドは辺境の地ハノーヴァーに幽閉された。
その七年後、隣国アマルダ王国との戦いが勃発し、血風の中を必死に生き抜かざるを得なくなった事も。
この身体に流れる忌まわしい父親の血が、否応なくウィルフレッドを新たなる動乱の渦中へといざなった事も。
ウィルフレッドに剣と、武人としての心得を教えてくれ、心の中で父とも慕った恩人も、些細なことですれ違い、自分の下を去った。
その後、亡くなったと人伝に聞き、仲直りの機会は永遠に失われた。
そして今、腹違いの兄をこの手にかけねばならぬ事も。
もうそういう星の下に生まれついたのだと諦めはついていた。
「なぜだっ!? ウィルフレッドォっ!?」
縄で縛られ、両肩を兵士に押さえつけられ、地面に這いつくばった兄が叫ぶ。
兄の名は、ジョン二世。
このウィンザー王国のれっきとした国王である。
「貴様を見出し、王弟として正式に認め、将軍へと引き立ててやったのはこの余だ! その恩を忘れたか!?」
「恩……か。国威発揚の道具として、その方が都合がよかっただけだろう?」
声を荒げる兄に、ウィルフレッドは冷ややかに返す。
戦地に王族も家族を送っている。国民一丸となって祖国を守ろう!
そのスローガンの体のいい生贄として、それまで見向きもしていなかったウィルフレッドに白羽の矢を立てたのだ。
「確かに、そういう側面があったことは認めよう。だが! 余が取り立てなければ、未だに貴様は辺境の地で幽閉の身に甘んじていたはずだ!」
「まあ、そうかもしれないな」
「そうだろう!? だから……」
「ああ、まったく余計なことをしてくれたものだ」
国王の言葉を遮り、ウィルフレッドは何とも苦々しげに嘆息する。
「なっ!? よ、余計なことだとっ!?」
「ああ、思えばあの時なんだろうな。運命の歯車が狂ったのは」
皮肉げに、ウィルフレッドは口の端を吊り上げる。
いやそれとも、運命の歯車が動き出した、と言うべきか?
まあ、今さらどちらでもいいことである。
やることは、変わらない。
この手がどれだけ血に染まろうと、為すべきことを為すのみである。
ウィルフレッドはすうっとその手に持っていた剣を掲げる。
「よ、余を殺すのか!? 余は半分とは言え、貴様と血を分けた実の兄であるぞ! それを手にかけるつもりか!?」
恩の次は肉親の情に訴えかけてくるジョン王。
ウィルフレッドは決してこの兄が嫌いではなかった。
一個人としてみれば、決して悪い人間ではなかったし、他の兄姉に比べれば、そう悪い兄でもなかったと思う。
が――
「ああ」
淡々と、実に淡々とウィルフレッドは肯定する。
そこに感情の色は全くない。
罪悪感も、憐憫も、悲壮な決意も、後悔も、憂いも、迷いも。
何一つない。
仮にも肉親を殺そうというのに、だ。
「た、頼む! 命だけは助けてくれ! 王位は譲る! だ、だから、命だけは! 命だけは助けてくれ! し、死にたくない! 死にた……」
ジョン王の涙ながらの命乞いは、しかし途中で途切れる。
首が胴体に別れを告げることで。
「だったらもう少しましな王であればよかったのだ」
その手に持った剣からポタポタと血を滴らせつつ、ウィルフレッドは小さく嘆息する。
この男が暗愚だったせいで、ウィルフレッドは表舞台に上がらざるを得なくなった。
まったく迷惑この上ない。
彼としては、こんな魑魅魍魎あふれる王都などより、できれば辺境の地ハノーヴァーでのんびりしていたかったのだ。
それで、満足だったのだ。
「おめでとうございます、陛下。これからは貴方がこのウインザーの王です。どうぞ、玉座にお座りください」
すっと腹心の一人であるセドリックが進み出てきて、玉座へと手を指し示す。
ハノーヴァーに幽閉されていた頃からの幼馴染であり、ともに死地を潜り抜け、肩を抱き合って笑った戦友でもあった。
そんな彼も、今やもう敬語でしか接してくれない。
いや、彼だけではない。
この玉座に座れば、この国の全ての人間がウィルフレッドにかしずくことになる。
この国で最も特別な存在――
そして同時に、この国で最も孤高の存在になるのだ。
「ふん」
ウィルフレッドはつまらなげに鼻を鳴らし、大股で玉座へと向かい、どかっと乱暴に腰を下ろす。
ここまで来て、座らない選択肢はなかった。
もう覚悟は定まっている。
彼の手に残るのはいつも、この虚しさに満ちた栄光のみ。
望むと望まざるとにかかわらず、この手の中に転がり込んでくる。
そういう宿命なのだろう。
(因果なものだ。欲しいものは、欲しかったものは、全てこの手から零れ落ちていくというのに、な)
心の中で、思わず諦めにも似た自嘲の笑みをこぼす。
正直、全てをほっぽり出して旅にでも出たいところだが、そうもいかぬ。
散っていった戦友や部下の無念は、果たさねばならない。
誰かが大鉈を振るい、膿を出すしかないのだ。
長い歴史の中で、腐りきってしまったこの国を立て直すには。
「これはまだ始まりにすぎん。この国に巣食う害虫どもをあぶり出し、一掃するぞ」
この宣言通り、ウィンザー王宮では粛清の嵐が吹き荒れる。
二年が経つ頃には、ウィルフレッドは『暴虐武尽の魔王』として国内外で畏怖される存在となっていた。
だがそれで、彼は一向に構わなかった。
血塗られた覇道であろうとも、自分にしか為せぬのであれば、ただ為すのみである。
志半ばで逝った恩人や友の為、国の為、心を殺し、淡々とやるべき仕事をこなしていく。
それが自分という人間に課せられた天命なのだろうと諦めてもいた。
あの日、彼女に出逢うまでは。
☆☆☆
「久しぶり、お母さん」
アリシアは風にたなびくその亜麻色の髪を押さえながら、墓石に声をかける。
流行り病だった。
全然元気だったのに、あっさりと逝ってしまった。
自分や義父、まだ幼い弟妹たちを残して。
「なんか遠くに行かなくちゃならなくなって、当分ここには来れなくなりそう。ごめんね」
謝罪の言葉を口にしても、当然、返ってくる言葉はない。
それが悲しい。
一年前は、返ってくるのが当たり前だったのに。
「お母さんに教えてもらったことは、今もこの胸にいっぱい残ってるよ。それをクロードやセリアに伝えられないのが残念だけど、きっとお義父さんが立派に育ててくれるよ。大丈夫、お母さんの選んだひとだもん」
半ば自分に言い聞かせるように、アリシアは言う。
まだ弟妹たちは四歳と五歳。
おそらくほとんど母の面影も覚えていまい。思い出も多分ない。
だからこそ、自分が色々教えてあげたかったのだが、それも叶わない。
「二人のことをお願いね、って頼まれたのに、ごめんね。でも、形は違うけど、絶対にあの二人は守ってみせるから」
ぐっと胸に手を当て、強く誓う。
そして笑って言った。
「いつかまた絶対ここに帰ってくるから。それまでまたね。大好きなお母さん」
☆☆☆
「サセックス辺境伯、貴様に処分を言い渡す。爵位及び領主の身分を剥奪、全財産を没収する」
「なっ!?」
ウィルフレッドの下した情け容赦ない判決に、サセックス辺境伯は絶句し、一気にその顔から血の気が引いていく。
ここまで重い処分を下されるとは思っていなかったのだろう。
だが、青くなったの一瞬で、すぐに怒りで顔を真っ赤に染めて、サセックス辺境伯が抗議してくる。
「わ、儂らサセックス辺境伯家は幾度となく建国王リチャード陛下のお命を救った建国の功臣であり、先祖代々、国境、ひいてはこの国をずっと守り通してきました。敵の侵攻を撃退したこと実に七度! そ、それをたった一度の失態で取り潰すと仰るか!?」
「そうだ。そもそも貴公の言う功とはあくまで先祖のものであって、貴公自身の手柄ではないしな」
頬杖を突き、淡々とウィルフレッド。
そしてもう興味もないとばかりに顎をしゃくる。
「命だけは助けてやる。お前が虐げて馬鹿にしてきた平民の暮らしというやつを味わってみるんだな。連れていけ」
「はっ!」
「は、放せ! 儂はサセックス辺境伯だぞ! 建国から国を守ってきた! いくらか税を重くしたところで、それは当然の権利……」
バタン……。
サセックス辺境伯は見苦しく喚くも、扉は無情に閉められていく。
彼は法に従い、全ての地位と財産を奪われ、無一文で放逐されるのだ。
とは言っても幸い、長年の圧政や度重なる戦乱で、王国の土地は荒廃しきっており屯田兵は随時募集中だ。
やる気があり、贅沢を控えれば、食うに困ることはないだろう。
正直、あまり耐えられる気はしないが。
「お疲れ様です、陛下。見事なお裁きでございました」
「ふん、ここまで証拠がきっちり揃えてあれば、後は断罪するだけだ。猿でもできる」
セドリックの慰労の言葉に、ウィルフレッドは鼻を鳴らしてつまらなさげに返す。
実際、三件とも作業難度自体は大したことはなかったというか、むしろ内容的には罪状を読み上げるだけ、子供の御遣いもいいところである。
「できることなら、俺以外に任せてしまいたいのだがな?」
ちらりと試すような視線をセドリックに向ける。
「爵位貴族を裁けるのは国王陛下ただお一人でございます」
「ちっ」
ノータイムで粛々と返され、忌々しげに舌打ちする。
つくづく身分というものは面倒くさいものである。
まあだからこそ仕方なく、この地位に就いたと言えるのだが。
「それに、なまなかな胆力や立場では彼らに抗せませんよ。裏から家族を人質に脅す、なんてことも十分あり得ます。そういう伝手を、彼らは色々持っております」
「それで日頃愛国を語り、国を憂い、偉そうな能書きをペラペラ垂れていたと言うのだから、世も末だな」
ウィルフレッドは皮肉げに嘲笑を露わにする。
普段綺麗事を弄する輩ほど、先程のサセックス辺境伯のように、いざ追い詰められると誰より醜い本性を露呈するものだ。
そんな害虫どもが多数のさばっているのがこの国の現状であり、それは衰退もするわけだった。
「然り。だからこそ改革を断行せねばなりません」
「めんどくさい限りだ」
ウィルフレッドは頬杖を突き、はあっと物憂げに嘆息する。
「この国の王だと言うのに、思うようにいかないものだな、人生というものは」
「陛下が政務をほっぽらかして遊興に耽る王であれば、思い通りに過ごせたかと」
「願い下げだな。どうせ途中でこの国は破綻しているだろう」
「十中八九、そうなるでしょうね」
「つまり、やるしかないということだ」
やれやれとウィルフレッドはもう一度嘆息する。
地位も名誉も権力も富も、ウィルフレッドにとってはどうでもいいものである。
彼としては、日がな一日、剣を振って、兵法の追求をして、時に鷹狩りにでも興じていられれば、それだけで良かったのだ。
正直、国王の仕事など彼にとっては、ただただ退屈で面倒なことでしかない。
だが、このままではこの国は終わるとわかってしまう視野の広さと、王としての器量と血統を持ち合わせてしまったのが運の尽きだった。
「失礼します」
不意にコンコンとノックの音とともに騎士が入ってくる。
なんだ? とウィルフレッドが目で問うと、騎士はビシッと直立し言う。
「アリシア殿下がそろそろ御着きになられるとのことです」
「ん、そうか。もうそんな時間か」
ウィルフレッドは頷き、その手に持っていた書類を机に置き立ち上がる。
本音を言えば代役でも立てて残りの仕事を片付けてしまいたいところだったのだが、そういうわけにもいかなかった。
アリシアとは隣国バロアの第三王女であり、
「では我が花嫁を出迎えに行くとするか」
ウィルフレッドが今日、婚礼の儀を行う相手の名であった。
☆☆☆
「「「「「っ!?」」」」」
ウィルフレッドが姿を見せた瞬間、場の空気が凍る。
皆、息を呑み、表情を固くして頭を垂れる。
中には血の気が引いたように青い顔の者や、カタカタと身体を小刻みに震えさせる者もいた。
「良い。手を休めず続けろ。移動のついでに様子を見に来ただけだ」
「「「「「はっ!」」」」」
きびきびとした返事とともに、皆、各々の仕事に戻っていく。
ここは国の財務を担当する官僚が詰める政務室だ。
関係部署から日々、様々な資料が送られてきており、室内はもう書類で山積みである。
彼らは日夜それらを精査し、問題があればウィルフレッドに報告するのが仕事だった。
「では引き続き、頑張ってくれ」
労いの言葉とともに、ウィルフレッドは部屋を後にする。
少しして、背後から一斉に安堵の吐息が漏れるのが聞こえた。
「随分と怯えられたものだ。どんどんひどくなってないか?」
「今回の件も含め、最近は次々と不正を摘発してますからね。次は我が身と戦々恐々としているのでしょう」
ふんっと鼻を鳴らすウィルフレッドに、隣を歩く主席秘書官のセドリックがハハッと苦笑いをこぼす。
「叩けば埃が出そうだな。怯えた奴はきっちり調べておけよ?」
「はっ。しかし、今のところ彼らはまったくのシロです」
すでにもう調査は終わっているらしい。
仕事の速いことである。
「ふん、ならば堂々としていればよいものを」
「陛下は寛大な方ですが、一方で王としての果断さも持っておられます。何も身に覚えがなくても、もしやと怖くなるのが人間というものですよ」
「らしいな。まあ、きちんと働いてくれれば俺はどう思われようと構わん」
他人事のように、ウィルフレッドは言う。
事実、他人の評価など、彼には心の底からどうでもいいことである。
この国難に、そんな些事に構っている暇などないのだ。
「ああ、しかし、今日来るという我が花嫁には、居心地の悪い想いをさせるだろうな」
思い出したように、ウィルフレッドは言う。
冷酷無比と称されるウィルフレッドであるが、まったく情がないわけでもない。
彼自身は蚊の食う程にも思わぬが、この状況が大多数の人間にとっては針のむしろであることは一応わかっている。
女性という生き物が、とかくそういうことを気にするということも知識としては知っている。
顔すら知らない相手だが、出だしから苦労をかけそうで、他人事ながら同情するウィルフレッドである。
「あ~……お願いですから、王女殿下には優しく接してあげてくださいね」
「重々わかっている。元よりそのつもりだ」
ウィンザー王国としても、バロワ王国は東の盾とも言うべき重要な隣国である。
疎遠に扱えば、両親へとその事を手紙などで愚痴ったりすることも十分にあり得る。
そして嫁を軽んじることは、転じて実家の国を軽んじるということだ。
得てしてそういうところから内政干渉を招いたり、同盟関係にヒビが入ったりすることも歴史上ままあった。
現在のウィンザー王国としては、四面楚歌の状況に陥ることだけは断固として避けたいところである。
財政的にも、軍事力的にも、だ。
「わかっておられるのなら結構です。いつもみたいに、スパスパ言葉の刃で斬ったらだめですよ?」
「こっちは斬ってるつもりは一切ないんだがな? いつもあっちがなぜか勝手に傷つき泣き出すんだ」
かつては辺境軍司令官、今や国王ということもあって、ウィルフレッドは近づいてくる女性に事欠かない。
が、どうにも長続きした試しがない。
というより、ほとんどはそういう関係になる前にいつの間にやらそばからいなくなっているというのが常だった。
まあ、代わりはいくらでもいたし、彼としては他にやるべきことも多かったので特に関心もなかったが。
「陛下、女性の心というものはデリケートなんです。ズバズバ核心を突かず何重にもオブラートに包んで言うのが基本です。また相手の話にはどんなに大したことなく聞こえても、まずは相槌を打って、親身なそぶりで『それは大変だったな』と言いましょう」
「……それは不誠実というものではないか?」
わずかに眉をひそめて、ウィルフレッドは返す。
敵ならばいくらでも騙して陥れもするが、他国の人間とは言え、一応は同盟国で、嫁になる人物である。
ウィルフレッドとしては、長期的に良好な関係を維持できることを望んでいる。
そんなその場しのぎの心にもないことを言っていて、果たして関係が長続きするのか、はなはだ疑問であった。
「男女関係において、誠実さなんてものは百害あって一利なし、です」
「ほう? なかなか斬新な意見だな」
誠実さが大事だと言うのが、世間一般の認識であるということぐらいは、そういったことに疎いウィルフレッドも知っている。
しかし、セドリックは今でこそ真面目そうななりを演じているが、これで若い頃から数々の女と浮名を流してきた生粋のプレイボーイである。
いわば男女関係のプロの意見だけに、ここは傾聴しておくべきだろう。
「男と女では、優しさの概念がそもそも違うのです」
「ふむ」
「まず断言しますが、一〇人中九人の女性が、陛下の言う誠実さで対応すれば、内心でムッと顔をしかめるでしょう」
「そうなのか?」
「はい。彼女たちはアドバイスなど求めておりません。欲しいのはひたすら肯定の言葉だけでございます」
「肯定の言葉だけ?」
「はい」
セドリックが神妙な顔で重々しくうなずく。
ウィルフレッドは少し考えて、
「……つまり、彼女らは真正の馬鹿、ということか?」
「~~~~っ!」
セドリックが顔を手で覆い、絶望したような嘆息が漏れる。
少々、不服である。
「お前の言ったことをそのまま受け取れば、そういうことになるだろう?」
「どこをどう受け取ったらそうなるんですか……」
「説明がいるほどのことか? 耳の痛い言葉ほど、自分の悪い部分を気づかせてくれ、成長のきっかけとなる。お前だってそれは体感としてあるだろう?」
「それは、その通りですが……」
「翻って、肯定の言葉しか受け入れられないようでは、その成長のチャンスを不意にし続けるということだ。その間、他の人間は当然、成長する。結果、相対的にさらに馬鹿になっていく。まさに真正の馬鹿というしかあるまい」
証明終了とばかりに、ウィルフレッドは断言する。
ウィルフレッドの脳裏に思い浮かんだのは、先々代の父王と、先代の兄王のことである。
彼らは諫言する忠臣たちを遠ざけ、耳障りのいいことを言う者たちだけをそばに置いた。
その結果、調子のいいことだけ言って裏で私服を肥やしまくる佞臣が跋扈し、この国は大きく傾いた。
やはり馬鹿の所業以外の何物でもないではないか。
「しかし、世の全ての女性がそんな馬鹿であるとはさすがに信じがたいのだが?」
素朴に思ったことを質問する。
一応、ウィルフレッドにも何人か女性の知り合いはいるが、そこまでひどい人間とも思わなかった。
「もちろん、賢い方も大勢おられます。しかし、男女関係となると、色々勝手が変わると申しますか……」
「ふむ、恋愛は人を馬鹿にする、とはよく聞くからな」
古来、破滅しか先のない恋愛に身を焦がす者は男女問わず後を絶たない。
恋愛にはそういう魔力のようなものがあるのかもしれない。
どうしようもなく異性に心惹かれ前後不覚になる、などという経験のないウィルフレッドには、いまいちよくわからない感覚ではあるが。
「そういうことを言ってるのではございませんが……」
「ん? そうなのか?」
「はい、これは男女の機微と言いますか……陛下! お願いですから王女には優しく接してあげてくださいね!? それこそ壊れ物を扱うがごとく!」
「出来得る限り善処しよう。バロワとの同盟はうちの生命線だからな」
ウィルフレッドとしては最大限に前向きに受け入れたつもりだったのだが、
「……頼みますよ、本当の本当に」
セドリックの心配は、全然ぬぐえないようだった。
まあ、彼の気持ちもわからないではなかった。
(おそらく俺には、人として大事な何かが欠けているのだろうな)
子供の頃からなんとなく、漠然とそう感じていた。
他の者たちは通じ合えているのに、自分だけがそれがわからずキョトンとする。
そんな経験が多々あった。
おそらくはその欠損のせいだろう。
具体的にそれが何かと言われると、雲を掴む感じでまったくわからないのだが。
(あえて言えば、人の心といったところか)
もっともウィルフレッド自身は、きちんと心があると思っている。
ないと言うのなら、今こうして考えている自分はいったいなんだという話だ。
だから多分、心がないわけではないが、心の何かが欠けているのだ。
とは言え、卑下するつもりもない。
むしろ自分のその性質を気に入り、自負も持っている。
そういう人間だからこそ、情に振り回されずに冷静で合理的な判断ができるのだ。
三年前の戦乱で、絶望的な状況の中で薄氷の勝利を掴み、部下たちと国土を守れたのは、ひとえにこの資質のおかげも多分にあったはずだ。
(ただ……花嫁には同情するしかないな)
自嘲するように、ウィルフレッドはそんなことを思う。
こんな自分が、果たして誰かと連れ添うなどできるのだろうか?
良好な関係を築いたりできるのだろうか?
彼女を幸せにできるのだろうか?
この欠損を埋めない限り、叶わない。
なんとなく、それだけは確かな気がした。
☆☆☆
「うわぁっ!」
馬車の中で、少女は窓の外の光景に感嘆の声をあげた。
年の頃は一六~七といったところか。
亜麻色の髪の、まだ幾分その表情に幼さが残る少女である。
「これがアヴァロン!? へええ、ブルボンとはまた違った趣がある街並みだわ! 歴史と伝統を感じるというか、さすが千年王都! うわぁ、うわぁ」
「こほん」
「あっ……」
目の前の老紳士の咳払いに、はっと我に返ったように少女は表情を強張らせ、ちょこんと席に座り直す。
そしてちらりと上目遣いで様子をうかがうと、老紳士ははあっとそれはそれは呆れ果てたように溜め息をついていた。
「アリシア王女殿下。今は見逃しますが、あちらに着いてからはあまりはしたない真似は謹んでください。我がバロワの品位に関わりますゆえ」
「はい……」
少女はしゅんっとうなだれる。
彼女の名はアリシア・ルイーズ・バロワ。
その名が示すように、まごうことなくバロワ王家の血を引く王女ではあるのだが、
(そりゃ頑張りはするけど、無理無理無理! あたし、宮廷作法とか全然知らないのにぃ! できるわけない。どうしよどうしよ!?)
実はつい一ヶ月前まではごくごく普通の庶民だったりする。
彼女の母は現正妃の侍女で、正妃の妊娠中に王がつい手を出してしまった、という宮廷ではよくある話だ。
だが、自分の部下に夫を寝取られたというのが、正妃はよっぽど腹立たしかったのだろう。
妊娠がバレるや速攻で着の身着のまま追い出され、流浪の中でひっそり産まれたのがアリシアである。
恐妻家の王は当然認知することはなく、母もその後、辺境警備の騎士と再婚し弟妹たちを産み、そして昨年、流行り病でぽっくりと亡くなってしまった。
一応、母が亡くなったことを手紙に書いたが返信もなく、綺麗さっぱり忘れようとしていた矢先、そう一月前のことだ。
突然、王宮からの使いが来て出仕してみれば、同盟国ウィンザーに嫁に行けという。
(いわゆる政略結婚というやつよね)
その時のことを思い出しつつ、アリシアは心の中で嘆息する。
血のつながらない自分を愛情深く育ててくれた義父こそ父親だと思っていたし、母を傷つけかばいもしなかった実父には怒りさえ抱いていた。
それでも、心のどこかで期待していたのは事実だ。
正妃の目を恐れ手放したが、そのことに罪悪感を抱き自分の事を心配し想ってくれていたのではないか、と。
そして、そんなことはまったくなかった。
アリシアは単なる身代わりだった。
ウインザーの現王ウィルフレッド・アイヴァーン・ウインザーは、苛烈な性格で、アマルダとの戦いでは数万人を容赦なく焼き払い、王となってからも粛清に次ぐ粛清で今やウィンザー王国の人々は恐怖に慄いているという。
そんな男の下には行きたくないと正妃の産んだ腹違いの姉二人は駄々をこね、正妃もそれに同調し、妻に頭の上がらない国王はそれを受諾、だが、同盟は強化したいということで、思い出したように白羽の矢が立ったのがアリシアだったというわけである。
(てか、なによ暴虐武尽の魔王って!? ちょっと対応間違っただけでぶち殺されそうなんだけど……ひぃぃぃ)
考えるだけでもうがくぶるだった。
さっきのはしゃぎようだって、ある種の現実逃避だったのだ。
(逃げられるものなら、今からでも逃げれないかなぁ。でも、そうもいかないのよねぇ)
なにせ実父はバロワの王である。
義父の周辺に圧力を掛け、一家を路頭に迷わすこともできるのだぞと匂わされた。
こんなのが自分の実の父親かと思うと情けなさや悲しさや怒りや殺意がごちゃまぜになって渦巻いたが、家にはまだ幼い弟妹達と産まれたばかりの赤ん坊もいる。
弟妹たちは自分が絶対に守ると母の墓前にも誓っている。
アリシアに選択の余地などなかった。
(とりあえずなんとか殺されないように頑張ろう)
膝の上でグッと拳を握り、気合を入れ直す。
生きてさえいれば、家族に会える日もくるはずだ。
あんな父親の為に、その腹違いの姉の身代わりになって死ぬなどまっぴらごめんだった。
「む、着いたようですな」
老紳士――バロワ王国宰相のリシャールがつぶやくとほぼ同時に、馬車が停止する。
窓の先には王城が荘厳なそびえ立っていた。
それを見た瞬間、
(ひぃぃ、やっぱ場違いだよぉ)
入れ直した気合が、瞬く間に霧散していく。
自分は王女とは名ばかりの、ほとんど庶民同然に育った人間なのだ。
こんなところでやっていける気がまるでしない。
だが、そんなアリシアの戸惑いなど無視して、きぃっと馬車のドアが開いていく。
「ほら、行きますよ」
「ちょっ、ま、待ってください。こ、心の準備を!」
「来るまでに十分時間はあったでしょう。ほら、早く。貴女の恥はバロワの恥になるのですから」
ぐいっと手を無理やり引かれ、立たされる。
視線の先には、騎士たちが重厚な鎧を着て、ずらっと並んでいて待ち構えていた。
数十数百という目が、こちらを見ていた。
普段のアリシアであれば、それだけで怖気づいていただろう。
だがもうそんなものは、すぐに頭から吹き飛んだ。
もっと恐ろしいものが、そこにはいたのだ。
それは、騎士たちが作った道を堂々と闊歩してこちらに近づいてくる。
黒髪黒眼の若い男である。
片目は眼帯で覆われているが、もう一つの眼はまさに獲物を狙う鷹のように鋭い。
顔立ちは整っているほうだとは思うが、恰好いいとかどうとかより、とにかく怖いのだ。
もう存在感の桁が、他の者たちとは二つほど違った。
そこにいるだけで、見る者を圧倒、畏怖させる。
そんな異様なオーラのようなものをひしひしと感じた。
「あ、あの方が……あたしの結婚相手、ですか?」
「そう、ウィンザー王国国王、ウィルフレッド・アイヴァーン・ウィンザー陛下です」
「無理むりムリ! 絶対無理です!」
アリシアはぶるぶるぶるっと震えるように首を左右に振る。
なんだあれは!?
冗談抜きで、本当に魔王そのものではないか。
想像していたのの一〇倍怖い。
夫婦どころか、直視することさえできない。
こんなの無理に決まっているではないか!
「今さらそんなことが通用するわけないでしょう。ほら」
ずいっと背中を押される。
しかもけっこう勢いよく。
よろけるようにアリシアの身体は前へと進み、馬車のタラップを踏む。
瞬間、カクンと膝から力が抜ける。
恐怖と緊張で膝に力が入らなくなっていたのだ。
「わわっ!?」
やばい! 転ぶ!
なんとか両手でバランスを取ろうとするも、もはやどうにもならない。
否応なく身体が地面に吸い寄せられていく。
視界の隅で黒い影が駆け寄ってくるのが見えた。
国王ウィルフレッドそのひとである。
野生の獣を思わせるような、しなやかで素早い動きだった。
それはまるで、物語に出てくるお姫様を助ける騎士そのもので――
アリシアの顔はそのまま彼の胸元へとトスンと吸い込まれ――
そして気が付けばその肘は、国王のこめかみを思いっきり打ち抜いていた。
全体重を乗せた、まさに会心の一撃であった。
☆☆☆
「ぐぅっ!」
苦悶の声とともに、国王が片膝をつく。
周囲の騎士たちが一斉にどよめく。
当然と言えば当然だった。
世界広しと言えど、初対面の国王陛下を肘で打ち倒した花嫁などまずいまい。
いても困る。
(うわああああ、なにやらかしちゃってんのよ、あたしはぁぁっ!?)
国王の胸の中で、アリシアは悶える。
多少そそっかしいところはあるが、こんな大ドジは記憶でも数えるほどである。
それがどうしてよりによって、こんな大舞台で!?
(どうしよどうしよ!? 終わった! あたしの人生、終わった……)
きっとこれからはエルボープリンセスなんていうこっぱずかしい二つ名で呼ばれることになるのだ。
蔑んだ視線とともに、クスクスヒソヒソ笑われ続けるのだ、一生。
ああ、死にたい。
死んで人生をもう一度やり直したい……。
「っつ~~っ!」
(って、そんなこと考えてる場合じゃなかった!)
ウィルフレッドの呻きに、アリシアははっと悲嘆の海から我に帰る。
あまりの事にパニックになってしまったが、被害者であるウィルフレッドの容態を確認する方が先決だった。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! だ、大丈夫ですか!?」
ガバッと彼の胸から身体をはがし、その顔を覗き見る。
手で押さえている部位からして、おそらくこめかみのあたりか。完璧に人体の急所の一つである。
いかに最強と名高い武人と言えど、相当痛かったに違いない。
「陛下、大丈夫ですか!?」
「お怪我は!?」
「す、すぐに医師を……」
慌てて側近と思しき人たちが心配げに駆け寄ってくる。
が、国王はバッとそれを手で制し、
「騒ぐな、勢いあまって転んだだけだ。大したことはない」
何事もなかったかのように、すくっと立ち上がる。
そしてアリシアを見下ろし、問うてくる。
「君の方こそ怪我はないか?」
「っ!?」
瞬間、ドキンッ! とアリシアの心臓が跳ねる。
恋愛的なものだったら良かったが、違う。
これは……恐怖だ。
「は、はい、お、おかげさまで、な、なんとか」
声が震えているのが、自分でもわかった。
こんなことではダメだということもわかっている。
だが、身体の震えが止まらない。
「……あまり大丈夫そうには見えないが?」
「い、いえ、ほ、本当に、ぴ、ピンピンしてますから」
「ピンピン?」
国王が驚いたように目を丸くしている。
(ああ、一国の王女が使うような言葉じゃないよね)
きっと不審に思われたのだろう。
「も、申し訳ございません、陛下。王女がとんだご無礼を……」
宰相も馬車から駆け降りてきて、アリシアの頭を掴み無理やり下げてくる。
貴方が押したせいでしょう! とアリシアは思ったが、これ幸いとも思った。
少なくとも、こうしていれば、国王の顔を見ないで済むから。
「頭を上げられよ。さっきも言ったが大したことはない。ちょっとしたアクシデントだ。気にするな。こちらも気にしていない」
「はっ、そう言って頂けると助かります」
「さて、ではセレモニーを続けたいところだが……」
再び国王の視線がアリシアのほうを向くのが、なんとなく気配でわかった。
だが、アリシアは怖くて顔を上げられない。
どうしても、ダメなのだ。
あの鷹のように鋭く冷たい眼を前にすると、幼い頃のトラウマが脳裏にまざまざと蘇ってくるのだ。
思い返すのは一〇年前――
当時はまだ母も再婚しておらず、誰のとも知れぬ子を産んだ女に世間も冷たく、居づらくなって別の街へと引っ越そうとしていた時だった。
アリシア母娘の乗った馬車が、山賊に襲われたのだ。
「ほう、女の親子か。ククッ、どっちもなかなかの別嬪じゃねえか」
乗り込んできた髭面の山賊が、じろじろと母の顔とアリシアの顔を見比べながら、下卑た笑みを浮かべる。
いったい自分たちはどうなるんだろう!?
とにかく怖くて怖くて仕方なかった。
「や、やめて! お、お金なら支払いますから、み、見逃して!」
母がぎゅっとアリシアを守るように抱き締めながら悲痛な声をあげる。
カタカタとその身体の震えが、アリシアにも伝わってきた。
「へっ、身なりからして大して持ってないだろ。そんなはした金なんかいるかよ。お前ら二人売った方がよっぽど儲けになるぜ」
山賊が母に手を伸ばし、ぐいっと無理やり引っ張る。
「いや! 離して! 誰か助けて!」
「ママっ!?」
「うるせえ! 助けなんか来やしねえよ。見な!」
「ひっ!?」
馬車から引きずり降ろされ、最初に目に飛び込んできたのは、無惨に転がったいくつもの死体である。
この馬車を護衛していた傭兵たちだった。
「諦めな。もうお前ら親子は俺たちのもんってことだ」
「そ、そんな……っ!?」
「お頭ー! 女が乗ってましたぜ。けっこう美人!」
「ほう、そうか!」
一際巨漢の山賊が、嬉しそうに笑い、のしのしと近づいてくる。
そして母親の顔をくいっと持ち上げ、
「くくっ、少しとうは立っているが、確かに上玉だな。娘のほうも……」
「い、いや!」
拒絶の言葉とともにその手を払おうとするも、
「ふんっ」
その手首を掴まれ、乱暴に持ち上げられる。
「い、いたい!」
「お願いします! 娘にはひどいことしないで!」
「ほうほう、こっちも上玉じゃないか。こりゃ高く売れそうだ」
母親の嘆願をガン無視して、山賊の頭はジロジロとアリシアの顔を見て嗤う。
こちらを物としか認識していない目が、とにかく怖かった。
「ひっ!? う、うわあああああん! 助けてー! ママ! ママーっ! うわあああん!」
「うるせえ、ぴぃぴぃ泣くな!」
パァン!
右の頬に信じられない強い痛みが疾る。
ジンジンと感じたこともないような熱さが、頬を焼く。
いったい何が起きたのか、一瞬わからなかった。
ここまで容赦なく強く殴られたのは、生まれて初めてだったのだ。
当然、泣き止むなんてこともなく――
「う、う、うわあああああああああんっ!!」
アリシアはもうわけもわからず、ただ喚くように泣き叫ぶ。
痛い!
怖い!
助けて!
いくつもの感情が心の中で爆発していた。
「ちっ、だからうるせえって言ってんだろ! ちょうどいい。躾だ! 泣いてる限りぶたれるってことをきっちり身体に叩き込んでやる!」
「や、やめてぇっ!」
娘を守ろうと、母親が慌てて山賊の頭にすがりつく。
だが所詮は女の細腕。
「きゃあっ!?」
簡単に振り払われ、地面に薙ぎ倒される。
「うあああああんっ!」
「だからうるせえって……」
山賊の頭が再び右手を振り上げた、その時だった。
「ぐあっ!」
「ぎゃあっ!?」
「てめ、なにっ、がふっ!?」
山賊たちの野太い悲鳴が、次々と響き渡る。
現れたのは、黒髪黒眼の少年である。
年の頃はまだ一四~五歳といったところか。
だがその顔にはおおよそ稚気と呼べるものはなく、いっぱしの戦士の貌である。
中でも印象的なのは、氷のように冷たく、そして鷹のように鋭いその眼だった。
「騒ぎを聞きつけて来てみれば、山賊か」
周囲に注意深く視線を巡らせ、少年は淡々と言う。
山賊は一〇人以上、多勢に無勢もいいところなのに、まったく落ち着いたものである。
「くそっ、がき、よくも仲間を!」
「ぶっ殺してやる!」
山賊が怒り狂って少年に斬りかかるが、
「ぐぅっ!?」
「ぐぇっ!? な……っ!?」
その二人の間を少年が駆け抜けると、山賊が血を噴いて倒れていく。
そこからは、一方的な虐殺だった。
彼が剣を振るうたび、一人また一人と斬り捨てられていく。
十数人はいた山賊が、一分も経たないうちに残るは頭一人になっていた。
「く、くるなっ! け、剣を捨てろ! こいつがどうなっても知らんぞ!?」
ぐいっとアリシアを盾にして、山賊の頭が叫ぶ。
その声とアリシアを掴む手が、明らかに震えていた。
「馬鹿か? 見ず知らずの人間の為に、なぜ俺が剣を捨てねばならない?」
黒髪の少年が冷ややかに笑う。
ぞくぅっ!?
「ひぃっ!?」
「ひぐっ!」
奇しくも、山賊の頭とアリシアの悲鳴が重なる。
そこにあったのは、虚無の殺意だった。
殺るべきことを殺る。
そこに敵意も憎悪も恐怖も、何の感情もない。
彼にとって人殺しは、ただの作業でしかないのだ。
子供心にも、それがわかった。
自分はもう、ここで死ぬのだ、と。
「あっ……ああ……っ!」
圧倒的恐怖で、泣くことさえ出なかった。
もはや息をすることさえ難しく、出るのは声にもならない嗚咽と、歯の鳴るカチカチという音だけだった。
「俺に遭ったことを、せいぜい地獄で後悔するんだな」
血だまりの中で感情のない瞳で凄絶に笑う少年が、とにかく怖かった。
山賊たちもそれは恐ろしかったが、この少年の放つ禍々しい圧迫感に比べれば、全然大したことはない。
まるでそう、これは物語に出てくる死神や悪魔そのものではないか!
「っ!?」
恐怖が臨界点を超えたのだろう、ぷつんっとアリシアの視界は真っ黒に染まり、そこで記憶は途切れた。
……。
…………。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「……えっ!? あ、は、はい。だ、大丈夫です!」
国王の声に、アリシアはハッと我に返る。
どうやら昔の記憶がフラッシュバックしていたらしい。
「とてもそうは見えないぞ。顔色が真っ青だ」
ジッとアリシアの顔を覗き見つつ、国王は言う。
貴方が見ているからだ! と反射的に思ったが、さすがに言うわけにもいかない。
ただやはり怖さには打ち勝てず、目を逸らしてしまう。
(あの死神にそっくりすぎるのよ、このひと! だめだめだめ! むりむりむり!)
これが国家的な式典の最中だとか、すでにアリシアの頭の中からは吹き飛んでいる。
あの死神のような少年が、自分を助けてくれたということも頭ではわかっている。
自分が今生きているのが、そのなによりの証拠だ。
だが、これはもう理屈ではないのである。
目蓋の裏に、心の奥底に、鮮明にイメージとして刻み込まれてしまった。
血みどろの中で酷薄に笑う少年が。
その恐怖が、どうしても心を縛って離さないのだ。
「……俺が、怖いか?」
「っ!」
内心を言い当てられ、さらにアリシアの身体が強張る。
冷たい刃を首筋に突き付けられたような、そんな気分である。
どう返すべきが正解なのか、まるでわからない。
彼があの時の死神ならば、言葉を間違えれば、今度こそ殺されるかもしれない。
そんな恐怖がさらに頭の中を真っ白にし――
『アリシア、感情だけで物事を判断してはだめよー』
脳裏に、亡き母から言われた言葉が蘇る。
『あなた、ほんと怖がりよねー。でもね、怖い人には二種類いるんだよ。本当に怖い人と、本当は優しい人と』
『悪魔はとても優しい微笑みと声で近づいてくるし、本当に優しい人は、意外といかめしい顔してたりするものよ。あのあたしたちを助けてくれた黒髪の少年や、お義父さんみたいにね』
『その辺をちゃんと見極めれば幸せになれるよ。あたしみたいにね』
『だから怖がらないで、ちゃんと相手を見て』
次々と母の言葉が連鎖的に浮かぶ。
それがほんの少しだけ、アリシアに勇気と冷静さをくれた。
「す、すみません、と、取り乱しまして……」
たどたどしくもなんとか謝ると、
「色々、俺の噂を耳にしているのだろう? 正常な反応だ。気にするな」
国王はフッと小さく笑みをこぼす。
「……えっ?」
その自嘲するような響きの中に、少しだけ、そうほんの少しだけ、寂しさが混じっているように聞こえた。
勘違いかもしれないが、確かに感じたのだ。
それで、アリシアは冷水を浴びせかけられたかのようにはっとなる。
(あたしっては、いったい何をしているの?)
この人が、自分にいったいどんな害を及ぼしたと言うのだろうか?
何もしていない。
むしろ転びそうになったところを助けてくれただけだ。
肘打ちかましたのに、怒っている素振りもない。
表情はムスッとしていて声も淡々として温かみはないが、さっきからずっと自分の体調を気遣ってくれてもいた。
翻って自分はどうだ?
助けて気遣ってまでくれた人に対して、見た目の印象だけで、怖がってビクついて言葉もろくに交わせないどころか目まで反らして、嫌な思いまでさせて。
どう贔屓目に考えても、人としておかしいのはこっちである。
無性に恥ずかしくなってきた。
「セドリック」
「はっ」
「王女はどうやら体調不良らしい。残念だが輿入れのセレモニーは取りやめに……」
いけない!
そんなことになればバロワの恥となり、実父が家族にどんな害が及ぶか。
もう恐怖に立ち竦んでいる場合ではなかった。
「お待ちください!」
気が付けば、制止の声を張り上げていた。
「ん?」
国王が不審げにアリシアのほうを振り返る。
「っ!」
ぞくっと心と身体が反射的に強烈な拒絶反応を示す。
頭では理解しても、覚悟を決めても、深層心理の奥深くに刻み込まれた恐怖は、そう簡単に拭えるものではない。
彼と向き合うと、どうしても心の奥底に恐怖の渦が巻き起こり、心をいっぱいにし、かき乱してくる。
「どうした?」
国王が訝しげに問う。
ドクンドクンと心臓は早鐘のように鳴っている。
喉はもうからからで、アリシアはごくりと唾を呑み込む。
(なにくそっ! お母さんも言っていた。女は度胸って! あの死神さんだってあたしを助けてくれただけじゃないか。怖くない怖くない怖くない! 今こそ踏ん張れ! 放浪生活で培った雑草魂!)
くじけそうになる自分を何度も何度も叱咤激励し、意地と気合で恐怖の波を力任せに押し返し、キッと国王を真正面から睨み据える。
「もう大丈夫です! セレモニーを続けましょう!」
☆☆☆
ほんの少しだけ、時は巻き戻る。
(出だしからこれとは、前途多難だな)
何事も即断即決、いついかなる時も冷静さを失わず、二四歳という年に見合わぬ泰然自若さで知られるウィンザー王国の国王ウィルフレッドは、実に珍しく戸惑っていた。
その理由は、言わずもがな、哀れに自分に怯える少女である。
どう扱えばいいのかわからず、正直、困り果てていた。
(つくづく不憫な娘だ)
卓抜した戦略家たるウィルフレッドである。
自分の嫁になる人間のことは、調べられることは当然調べている。
彼女が正妃の子でないことも、市井で暮らしていたのに王家の都合で呼び戻され、身代わりにウィルフレッドの下へと差し出されたことも、知っている。
他人には思えず同情も覚えていたが、
「……俺が、怖いか?」
「っ!」
一応確認すると、アリシア王女がビクッと身体を強張らせる。
どうやら大当たりのようである。
「色々、俺の噂を耳にしているのだろう? 正常な反応だ。気にするな」
この言葉通り、恐怖でこうなるのは、別に彼女だけではない。
これまでにもよくあったことだった。
彼女はその中でも、なかなかひどい部類ではあるが。
(そういえばセドリックにも、『貴方は言うなればドラゴンですから』と口癖のように言われていたな)
どうも自分は、まったくそのつもりはないのだが、無意識に他人を威圧してしまっているらしい。
そこにいるだけで、寝ていてさえ人は勝手に恐怖する。
本人的には優しく撫でたつもりでも、その力で、威圧感で、言葉の爪で、相手を薙ぎ倒し、切り裂いてしまう。
呼吸しているだけでも、鼻息で吹き飛ばしてしまう。
そういう存在だ、と。
ひどい言い草だとは思うが、事実から見るに的を射てはいるのだろう。
(まあ、いつものことだ)
別にその辺をとやかく言うつもりは、ウィルフレッドにはなかった。
この手のことはもう慣れっこすぎて、今さら気にもならない。
そんなことより、彼が気にするのは今後のことである。
(これが部下なら簡単なんだがな)
適度な恐怖ならむしろ発奮させる材料だから放置すればいいし、業務や体調に支障をきたすレベルならば、自分とは合わなかったのだろうと配置替えすればいいだけの話だ。
幸い、王宮にはやらねばならぬ仕事は腐るほどある。
適材適所で振り分ければいいだけのことだ。
(さすがに同盟国から頂いた嫁となると、そうもいかんしなぁ)
性格が合わなそうなので別なのと取り換えてくれ、などとはとても言えない。
言えば、せっかく結んだ同盟関係にヒビを入れること請け合いである。
ウィルフレッド個人としては、このまま田舎のほうの家族の下に返してやりたいところなのだが、自分たちの結婚には冗談抜きで二国の命運がかかっている。
この二国に住む何百万という人々の生活も。
一個人の都合で別れるわけにはいかないのだ。
(とは言え、市井で育った何も知らぬ娘に、これ以上、こんな茶番に付き合わせるのは酷だな)
この結婚に愛などはなく、あるのは国家間の打算のみだ。
重要なのは、ウィンザーとバロワが縁戚関係を結んだ、という一点である。
それだけ叶えば、御の字である。
ならば形式的なことや対外的なことはすべて、こちらが引き受ければいいだけの話だ。
公式の場に妻がいないというのは多少面子的に面倒臭いことにはなりそうだが、型破りさでは定評のあるウィルフレッドである。
これまた今さらだし、自分ならばどうとでもできるだろう。
事実、してきた。
「セドリック」
「はっ」
「王女はどうやら体調不良らしい。残念だが輿入れのセレモニーは取りやめに……」
しよう、そう言いかけたその時だった。
「お待ちください!」
凛とした声が背中から響く。
「ん?」
わずかに眉をひそめつつ、ウィルフレッドは振り返る。
一瞬、誰かわからなかった。
声はアリシア王女のものだ。
だが、その声に宿る覇気は、先程までとはまるで別人である。
「どうした?」
「っ!」
とは言えその威勢も、ウィルフレッドが彼女に目を向けるまでである。
視線が合った瞬間、アリシア王女はまた表情を固く強張らせる。
怖いのだろう。無理をするな。
そう言おうとしたが、すんでのところで思いとどまる。
アリシア王女はそれでも目を反らさず、こちらの目をこれでもかと睨みつけてきたからだ。
「もう大丈夫です! セレモニーを続けましょう!」
「…………」
その毅然とした豹変ぶりに、ウィルフレッドは思わず目を奪われる。
怖くないはずがない。
証拠に今も、彼女の身体は小さく震えたままだ。
それでも、意志のこもった強くまっすぐな瞳を自分へと向けてくる。
彼の知る女は誰も、このような瞳を自分に向けてくることはなかった。
先程の少女のように怯えるか、自分の背後にある権勢を求め媚びてくるか、そのどちらかでしかなかった。
だから少しだけ意外で、新鮮で、そしてとても美しいと感じた。
☆☆☆
その後、セレモニーは滞りなく進んだ。
セレモニーの目的は、教会での結婚の誓いと、新たな正妃となるアリシアのお披露目である。
つまりアリシアの仕事としては、基本国王の隣を歩き、笑顔で周囲に手を振ることだ。
正直、人前に出るのはあまり好きではないが、過去のトラウマと向き合うことに比べたら、大したプレッシャーではない。
なんとか無難にこなし、一件落着。
不安に思っていたセレモニーのクライマックスの誓いのキスも、国王が気を遣ってくれたのかオデコにだった。
ちょっと申し訳なくも思ったが、おかげで変にパニックになることもなく、大任を果たすこともでき、ほっと一息つく。
……とはいかなかった。
今までの物はほんの序の口、まだ最大最強の難関が待ち構えていた。
新婚夫婦に必ず訪れるもの。
そうすなわち、初夜である。
(ひぃぃぃっ、やっぱりするのよね!? しなくちゃいけないのよね!? そういうこと!?)
目の前でデンッと存在感と圧をこれでもかと発している天蓋付きの豪奢なベッドを前に、アリシアは思いっきり顔を引き攣らせる。
当然ながら、アリシアにはそういう経験はない。
恋人がいたこともない。
それでいきなりこれか!? と不安に慄いていた。
「アリシア殿」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
背後から声をかけられ、思わず声が裏返る。
おそるおそる振り返るとそこにいるのは当然、このたび自分の夫となったウィンザー王国国王ウィルフレッドである。
正装から寝間着と思しきガウンを羽織っている。胸元からは鍛えられた胸板が覗き、なんとも言えない色気があった。
いやがおうにもこれからのことを意識せざるを得ない。
思わずごくりと唾を呑み込み――
「そう怯えるな。何もするつもりはない」
国王は苦笑とともに、近くにあったソファーにどさっと腰を掛ける。
(あっ、またあの笑い方だ)
小さく鼻を鳴らし、皮肉げな、好かれるのを諦めきったような、そして怖がられることをどこか当然と受け入れてもいる、そんな笑みだ。
チクリと罪悪感で、胸が痛む。
こんな顔をさせているのは、他でもない自分なのだ。
「あ、あの、何もするつもりはないって、い、いいんですか?」
間抜けな質問だと、我ながら思うアリシア。
状況から普通に考えて、自分が怯えた姿を見せたからなのは明らかである。
「そ、その、た、確かにちょ、ちょっと怖いですけど、頑張ります! し、しないといけないことなんだから、耐えてみせます!」
なけなしの勇気を振り絞って、アリシアは気丈に言う。
宰相の話によれば、明け方、女官長を始めとした複数の人間が、ベッドに付いた血を確認しにくるという。
処女であるということで、花嫁の貞操観念の確認し、その後、生まれた子供が夫の血を引いていることを確信するために。
デリカシーのかけらもない! 狂ってる!
と、アリシアは憤然としたものだが、なにより血統を重んじる貴族階級においては、ごくごく一般的なしきたりらしい。
ここで無作法をしようものなら、家族にバロワ王の魔の手が伸びる。
それだけは、何をおいても避けねばならない。
たとえこの身がどうなろうとも、だ。
いやさすがに、死にたくまではないが。
「無理しなくていい」
「む、無理なんて!」
「そもそも、元から俺にそういうつもりはない」
「えっ、あ、そ、それはやっぱり、わたしが怯えすぎたから、ですか?」
「いや、それは関係ない」
「じゃ、じゃあ好みではないと」
アリシアはそこまで自分をブサイクだとまでは思ったことはないが、バロワ王国の宮廷や今日のセレモニーで見た着飾った華やかな美女たちと比べると、自分はやっぱり地味で垢抜けていないと思う。
相手はなにせ一国の王である。
しかも向かうところ敵なしの一代の英雄でもある。
きっと女なんて選り取り見取りのはずで、自分などではきっと物足りないのだろう。
そう思ったのだが、国王は首を振る。
「そうでもない。君はまあ、そこそこ綺麗なほうだと思うぞ。さすがに絶世の美女とも思わないが」
女性に対して『そこそこ』なんて、わざわざそんな断りをいれるのはいかがなものかとちょっと思ったが、一方でだからこそその無粋な言葉に嘘はないのだろうとも思った。
今の、国も違えば色々状況もわからない中で、アリシアもお世辞なんてかけらも求めてない。
むしろありがたくさえあった。
「ではあの、どうして、ですか?」
「最初にまず、それを君には話さねばならないと思っていた」
おそるおそる続きを促すと、国王はじっとアリシアを見据え、真剣な顔付きで言う。
いや、この王はいつも険しい表情しか浮かべていないのだが。
セレモニーの間に多少は慣れたとはいえ、やはり怖いものは怖い。
さらに、なんだろう。
雰囲気がというしかないが、とても深刻そうに感じた。
「な、なんです、か?」
ドキドキと緊張に詰まりながら、アリシアは問う。
いったいどんな難題を切り出されるのか、戦々恐々である。
国王がゆっくりと口を開き、
「俺はこの先、君との間に子を儲けるつもりはない。だから、そういうことをする気もない。夫失格といっていいだろう。申し訳ない」
ガバッと深々と頭を下げる。
アリシアのほうが思わずギョッとなる。
「そ、そんな! へ、陛下、あ、頭をお上げください」
あわあわおろおろ動転しながら、アリシアは言う。
相手は国王、この口で最も至尊の存在である。
そんな存在が頭を下げてくるなど、夢にも思わうわけないではないか!
しかし、国王は頭を上げることなく、
「いや、本来ならこんなことは結婚する前に伝えるべきことだ。結婚してから伝えるのは、重大な契約違反と言える。だが、バロワとの同盟は我が国の生命線だ。この結婚は、なんとしても成約させねばならなかった」
「はい! わかりました! 許します、許しますから頭をお上げください!」
「ん? 許すといっても、まだ理由を説明しきっていない。それを聞いてからでも……」
「そんなの聞かなくても許します! だから頭を上げてください!」
もう勘弁してほしい、とアリシアは涙目で思う。
こっちはつい先日まで庶民だった身である。
この状態はもうただただ恐縮するしかなく、心臓に悪いことこの上ないのだ。
「ふむ、そうか。君は随分と心が広いな」
微妙にズレたことを言いつつ、ようやく国王が顔をあげてくれる。
アリシアは内心でほっと一息つきつつ、
(でも、随分と律儀な王様よね)
そんなことを思う。
セレモニーからこれまで、さんざんアリシアは怯えに怯えていたのだ。
正直、失礼この上なかったと我ながら思う。
それを理由にすれば手を出さないのは、人間として至極当然のことではある。
全部こっちの落ち度にできるだろうに、それをするつもりはないらしい。
「こちらとしては有り難いが、少々、早計にも思う。正妃となれば、その子は世継ぎだ。懐妊の兆しがなければ、周囲からは冷たい目で見られるだろう」
「あ~……」
そういえばそういうものがあった、とアリシアは頬を軽く引き攣らせる。
知人の女性が、跡取りを産めないことで夫側の親戚から圧力が強くてきつい! と嘆いていたものだが、王宮のそれはおそらくその人の比ではあるまい。
かなりの数の視線、圧力に晒されるに違いない。
考えるだけで少し気が滅入った。
確かに国王の言うとおり、少し早計だったかもしれない。
「あの、やっぱり理由を説明して頂いてもよろしいですか? 誰か、他に想い人がおられる、とか?」
さすがにこれからずっと、そういう視線や圧力に耐え続けるのはせめて理由ぐらいはわからないときつそうだった。
「いや、そもそも王でいる限り、俺は誰とも子を儲けるつもりはない」
きっぱりと言い切られ、アリシアはキョトンとなる。
言葉の意味を咀嚼してから、おずおずと問う。
「……あの、王様というのは、子供を作らないといけないんじゃないのですか?」
それが貴族や王族の最大の義務だったはずだ。
家と血統を存続させるには、子孫の存在が必要不可欠だから。
実際、アリシアはバロワ王国のいろんな人たちから、そう圧力をかけられたものだ。
とにかく男子を産め、と。
「くそくらえだな」
だが国王はそれを一言の下に切り捨てる。
しかも国王とは思えぬ言葉遣いで、である。
「俺から言わせれば、我が子を王にしたいなど、とてもまっとうな神経ではないな」
吐き捨てるように、国王は言い切る。
その言葉には、抑えきれない嫌悪が滲んでいた。
「そ、そういうものなのですか? できるものならしたい人、いっぱいいそうですけど」
事実、この短い間でも、いっぱい見てきた。
地位や権力、財産、欲しい物は思うがまま。
そういうイメージがあったのだが……?
「ああ、吐いて捨てるほどいるな、そういうのは。そのためには親兄弟さえ殺すほどに欲しいらしい」
冷めきった声で、ウィルフレッドは言う。
それでアリシアもハッとなる。
宰相によれば、この人は、親兄弟から何度も刺客を放たれ、ついには自分も腹違いとは言え兄をその手にかけ玉座を奪ったという話だ。
そのあたりで、色々想うところがあるのだろう。
「だが少なくとも俺は、自分の子が王座を巡って殺し合う様など、心底勘弁願いたいな」
「……なるほど」
アリシアも重々しくうなずく。
彼女自身、半分しか血が繋がっていないとは言え、弟妹たちを心から可愛く思っている。
そんな彼らと殺し合うなど、絶対にしたくない。
想像さえしたくなかった。
「だから……子供は作らない、と?」
「そうだ。君には申し訳ないと思うし、大変な思いもさせると思うが、なんとか受け入れてほしいと思っている。その分、俺にできる限りのことはしよう。だから、この通りだ」
言って、国王は再び深々と頭を下げる。
少々、極端な気がしないでもないが、それだけ、権力というものの怖さを思い知っているのだろう。
そして、自らの子をそんな目に遭わせたくはない、と。
その生い立ちを考えると、彼の気持ちもわからないでもなかった。
「ま、まあ、わたしは別にそれで、全然構いませんけども……」
アリシアとしても、その申し出は正直、願ってもないことであった。
この王のことはもう嫌いではないが、やはりそういうことは、好きなひととすることだとアリシアは思う。
それに、純粋に怖くもある。
しないで済むのなら万々歳であった。
「そうか。助かる!」
国王が顔をあげ、ふ~~っと安堵の吐息をつく。
彼なりにかなり気を揉む案件であったらしい。
おそらくは自分ではなく、自分の後ろにいるバロアの動向を気にして、だろうが。
「でも、次の王はどうするのです? 絶対いろんなところからせっつかれますよね?」
「弟がいる。少々頼りなくはあるが、まあ、セドリックあたりが補佐すればなんとかなるだろう」
あっさりとそんなことを言う。
玉座というものにまったく未練がないらしい。
簒奪という話だから、自分から王位に就いたはずなのに。
「……あの、陛下はなんでこの国の王様をやろうって思われたんですか? すっごく嫌そうなのに。あっ、もちろん、仰りたくないことならいいんですけど」
聞いていいのか迷ったが、もうその場の空気に乗っかって率直に聞いてみることにした。
もう結婚してしまったんだし、自分にも関わりのあることだ。
聞けそうなときに聞いておいたほうがいいだろうと思った。
「この国は、腐っていた。千年という長い伝統としがらみで雁字搦めになり、大鉈も振るえず不正も横行し、斜陽の一途を辿っていた」
回顧するように虚空を見上げ、ぽつりと国王が口を開く。
「……はい」
その辺の話も、宰相から聞いていた通りである。
現国王ウィルフレッドが台頭してくるまでは、歴史が長いだけで、かつての栄光などはるか昔、落ちぶれた三流国家だった、と。
「先々代も、先代も、ろくなことをせず贅沢三昧、国を傾かせ続けるだけだった。皆が緩やかな衰退を感じていた。皆がそれをどうにかしたいと願っていた。皆が俺に期待を寄せているのがわかった。他に誰もいなかった。それだけの話だ」
とてもそれだけとは言えないようなことを、国王は淡々と言う。
どこか他人事のようにも聞こえた。
きっとこの二年間だって、大変だったはずなのに。
決してやりたくてやっているわけではないことは、言動の端々から感じる。
ただ、やらなくちゃいけないからやっている。
そしてそれを、仕方ないこととも思っている。
たとえ大勢に嫌われても、それがこの国に住む皆の幸せのためになるのなら、と。
なかなかできることではないと思った。
少なくとも、自分なら絶対すぐに潰れている。
「陛下って噂に反して、実はかなり優しい人、ですよね?」
お母さんの言う通りだ、と思った。
まだ出会って半日も経っていないが、これはもう確信があった。
確かに噂通り、大のために小を切り捨てることをいとわない、そういう苛烈な厳しさを持ってはいるのだろう。
でも、それだけじゃない。
本当のこの人はきっと、生真面目で、誠実で、大勢のために献身的に尽くそうとする、すっごく優しいひとだと思った。
ただ、見た目と雰囲気に圧があってめちゃくちゃ怖いだけで。
しゃべる言葉も無骨すぎて不器用すぎて、わかりにくいだけで。
「……は?」
何を言われたのかわからないとばかりに、国王が目を瞬かせる。
しばらく呆然とし、ついで――
「ぷっ」
国王の口から変な声が吹き出す。
なんだ? とアリシアがいぶかった瞬間、
「くくくっ」
たまりかねたように、国王が口元を押さえる。
よほどツボにはまったのか、身体を振るわせてまでいた。
「へ? ~~っ!」
最初はポカンとしたアリシアであったが、だんだんとその顔が羞恥に染まっていく。
庶民育ちのアリシアには、宮廷の常識がわからない。
何か自分がとんちんかんなことを言ってしまったのかもしれないが、でもそこまで笑うことはないではないか。
普段であれば、アリシアも猛然と食って掛かったであろうが、相手は曲がりなりにも国王、下手に口答えするわけにもいかない。
しかし面白いはずもなく、その唇がどんどん尖っていく。
「ああ、すまんすまん。くくくっ、まさか優しい人扱いされるとは夢にも思っていなくてな」
実に三〇秒近くも笑い続けてから、ようやく国王が謝罪してくる。
「むぅっ、陛下、普通に優しい人じゃないですか。何もおかしなこと言ってません」
内心の恥ずかしさや怒りを抑え、なんとか丁寧に言葉を返すアリシア。
もっとも根が素直なたちなので、その表情や声にはありありと不満がこもっていたが。
また一人称も素の「あたし」に戻っているが、本人は気づいていない。
「いや、おかしいな。生まれてこの方、そんな風に言われたのは初めてだ。冷たいだの心がないだのとはよく言われるがな」
先程までとは違う、くつくつと自らを嘲るような笑みを国王は零す。
戻ってしまった、とアリシアは内心ちょっと残念に思う。
笑われるのは嫌だったが、それでも、こんな顔よりもさっきの楽しげに笑っていた時の顔のほうが全然良かったと思う。
「それは周りの人の見る目がないんですよ」
だからきっぱりと言ってやる。
皆のために頑張ってるのに、わかってもらえないなんて、怖がられているだけなんて、そんなのあまりに悲しすぎるじゃないか。寂しすぎるじゃないか。
他の人がわからないのなら、せめて自分だけでもわかってあげようと思った。
この人の、不器用すぎてわかりにくい優しさを。
愛している、なんて口が裂けても言えない。
愛されている、ともまったく思わない。
あんなに一方的に怖がった自分には、今更そのどちらの資格もないと思う。
それでも――
たとえ国同士の思惑しかなかったとしても――
まだ出会ったばかりだとしても――
もう自分はこの人の妻なのだから。
そして自分はどうもこの人が、嫌いではないから。
異性としてはともかく、人間としてはとても好ましいと思ってしまったから。
「そうか? やはり君の目のほうがおかしいと思うがな」
「別にそれならそれでいいです。あたしが個人的にそう思っておくだけですから」
「なるほど、それならば仕方ないな。しかし、最初はどうなるかと思ったが、今では結婚相手が君で良かったと心底思う」
「えっ!?」
思わずドキンッとアリシアの胸が脈打つ。
いきなりそんなことを言われるとは思っても見なかったから。
「そ、それって……」
「否が応でも、これから長い付き合いになるのだ。好感を持ってもらえるに越したことはない」
うむっと国王が満足げにうなずく。
がくんっとアリシアの肩から力が抜ける。
つくづく、そうつくづく実務的なことしか考えていないひとだと思う。
それに、女心もわかっていない。
なんだ、よりにもよって否が応でもって。
仕方なしでも付き合うしかない、と言っているみたいではないか。
本人にそのつもりがないのはわかっている。
おそらくむしろ、アリシアのほうに配慮しての言葉だろう、ということも。
それでももう少し、もう少し言い方というものがあるのではなかろうか?
とにもかくにも、後にウィンザー王国一のおしどり夫婦と言われることになる二人の結婚生活は、こうして幕を開けたのだった。
めでたしめでたし
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