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 アネットの嫁入りに着いて来てくれたのは、メイドが一人に料理人が一人だった。

 初めは、親しいメイドを一人だけ連れて行こうとしたところに、先方から、料理人が必要なのであれば連れてきたほうが良い、と言われたのだ。

 そのときは、実家の味を恋しく思うからだろうか、と疑いもせずに考えていた。

 

「それが、まさか一人も料理人が居ないし、釜も数百年単位で火を入れてないってんだから」


 水くみ場にて。

 料理人として連れてこられた、ジニーという痩せた中年の女が腰を叩いて愚痴をこぼす。


「昼間の働き手だって、あたしだけだってんだから! まあ掃除も繕いものも、置いとけば夜中に吸血鬼の婆さんたちがやってくれるのは助かるけどね。洗濯はやっぱりお天道様の下でしなきゃあね」


 タライを持ってそう叫ぶのは、耳が遠くなりかけているメイドのマリーだ。こちらは見事に丸々と太った体格をした、中年の女だ。

 どちらも、長くロッチェン家に仕えており、豪胆で楽観的な性格だ。

 他の使用人たちが恐れて嫌がるなか、喜んで立候補してくれた。


 そして、半月が経とうとするころにはすっかりと、吸血鬼の城にも馴染んでしまったのだから恐れ入る。


「ごめんなさい。私について来たばかりに」

 

 ぜえぜえと息を切らしながらやってきたのは、アネットだ。


「お嬢様、起き上がったらダメですよ。お部屋で寝ていてくれないと」


 マリーがタライを放り出して、アネットに駆け寄る。

 よろけたアネットの肩を、危ないところで抱きとめた。しかし、マリーの足も一緒によろけてしまう。

 

「ありがとう。……昨日はマリーも遅くまで看病してくれていたし、私も手伝わないとって思ったんだけど。お邪魔みたい」


「そうですよ! お嬢様はアタシの特性ポタージュをお部屋で待っていてくださいよ! あとでマリーがお紅茶も持って上がりますから! そんでマリーもお紅茶持ってったら、そのまま部屋で寝ておいで! ほかの仕事ならアタシが代われるからね!」


 バケツを担いだジニーがそう叫ぶ。

 今日は、嫁いできて初めての満月の日だった。


 

 * * *


 

「うあぁあ゙ーーーーーっ! ぁあ゙、い、ぃい゙ーーーーー‼」

 

 アネットの部屋に絶叫が響く。

 外には、吸血鬼の使用人たちの足音もひっきりなしに行き来している。


 水が必要か訊ねるもの、医師を呼ばなくて良いのかと言うもの、タオルを運んでくるもの。

 全てをマリーが追い返す。


「お嬢様の病気は特別なんですよ。それに、注射を打ったりもして血が出たりもする。あなた達を信用しないわけでも無いですけどねえ、まだ任せられるほどでは無いんですよ」


 そうはっきりと断るマリーに、食い下がる吸血鬼の使用人は居ない。

 お互いの距離を保とうというのは、彼らの主人である辺境伯からの達しでもある。

 

 フン! と鼻息荒くドアを閉じた後、マリーは悶えるアネットの傍らにしゃがみこんだ。


「ああなんてことでしょう! こんな時にいつものお医者様が王都に行っているなんて! お嬢様がこんな地獄に来て、初めての満月だっていうのに!」


 最後の一本になっていた鎮静剤を注射器で吸い上げると、慣れた手付きでアネットの腕に注射しようとする。

 その時だ。


「やあっっ!!」


 暴れるアネットの腕が、注射器に当たった。いつもならば、その程度で注射器を取り落とすようなことはない。

 しかしマリーも、豪胆とはいえ、慣れない環境での疲れが溜まっていた。


 手をすべらせたマリーの注射器は、そのままマリーの太ももに刺さる。

 慌ててそれを外そうとするマリーの手に、本能的に注射器を奪おうとするアネットの手が重なった。


「あ!」


「ぎっ」


 二人の声が同時に出た。

 注射器の中身の鎮静剤は、マリーに注射されてしまったのだ。

 処方されていたアンプルは、鎮静剤を打たれ慣れたアネットのための特別な配合。

 マリーはたちまち、体が脱力していくのを感じた。

 次の瞬間には視界がぼやけ、そして、その次の瞬間には意識を失っていた。


「やあーーーーー! まりぃい゙ーーーー!」


 アネットが、眠るマリーの体にしがみつく。

 病気で辛い時には、小さな頃からずっとマリーが横にいて世話をしてくれたのだ。

 極限の状態でマリーが眠り込んでしまい、アネットの錯乱はもはや手がつけられないほどになった。


 そのとき、部屋の戸が大きく開かれた。

 床に座り込んだアネットの背後には大きな窓がある。月明かりが彼女の背後から差し込み、部屋を煌々と照らしていた。

 逆光が、侵入者の形を浮かび上がらせる。

 すらりとした体躯は男性のもの。一つに束ねた長い髪。目は赤く輝き、アネットを真っすぐに見つめていた。

 

 影は駆け寄ってきて、アネットを抱きしめる。


「大丈夫だ、アネット。落ち着け」


 影の男が注射器を踏み潰したのか、パリンというガラスの音がする。

 注射器に残っていた鎮静剤の、化学的な香りが漂う。

 低く囁かれる声は甘く、抱きしめられればアネットの体の奥で血が沸き立つ。

 

「へん、きょ、はく……ぅ」


「そうだ、僕だ。苦しいか? 何をして欲しい?」


「な……ん、で……」


 アネットの目に涙が滲む。お互いを守るために、仮面夫婦の約束をしたはずだった。

 それなのに、どうして、今入ってきてしまうのか。アネットはそう問いたかった。

 

「すまない。君の病気について、きちんと分かっていなかった。君を迎え入れるのに、こちらでも薬や医者を用意するべきだったんだ。満月の夜にここまでひどいことになるなんて……」


 アネットを抱きとめているのは、辺境伯ルーカス・フローシュだった。

 

 どうして、今になってそんな風に、優しく囁くのか。アネットは混乱する頭で、恨みがましくそう思う。

 

 せっかく吸血鬼の家政婦が助言したというのに。

 赤く光る瞳に見つめられて、彼女は血の疼きを思い出していた。


 病の症状なのかもしれないし、単なる錯乱なのかもしれない。

 でも、もうアネットは止まれなかった。


「へんきょ、はく……ぅぐ。こっ、ち……」


 細い手首を、彼の頬に伸ばす。

 満月の光に照らされて、彼の顔がはっきりと見える。こくっ、と密かに飲み込まれた息までも見えそうなほどはっきりと。

 

 見つめあう。

 アネットの金色の瞳に、ルーカスの瞳の赤い光が映る。

 

「こっち、……ぐぅ、こ、こぉ、……」


 ネグリジェの襟を引き下げ、白い首筋からデコルテにかけてを晒す。

 今度ははっきりと、ルーカスが生唾を飲む音が聞こえた。

 ルーカスの唇が、アネットの首筋に寄せられる。アネットは、彼の頭を抱えてこう囁いた。


「噛ん……で……飲ん、ん、で……」


「アネット! アネット!」


 ルーカスの瞳が一瞬揺れ、そして、首筋に熱い息がかかる。

 

「る……かす」


「アネット、ごめん。愛している!」


「たし……も……」 

 

 月の光のなか、吸血鬼の辺境伯は、月に酔った娘の血を飲んだ。

 飢えていた分、十分にむさぼった。


 月に酔った娘は、彼を受け入れ、ねだった。

 お願いだから、私の血を飲んで、と。

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