5
夫から拒絶されたアネットは、ふらつきながら書斎を出る。
外は新月。
吸血鬼の城――そう、ここは本当に吸血鬼の城だったのだ――は真っ暗だ。
小さな燭台を手にして歩く。
書斎の隣の図書室を抜け、遊戯室を通り、次の小部屋はというと。
「なにこれ」
初めは物置かと思った。しかし、そこには棺桶がたくさん並んでいる。
ルーカスの部屋で見た黒く材質で作られた棺桶とは違う、簡素な棺桶だ。
小さな灯りを頼りに歩くと、並べられた棺桶の一つに足を掛けてしまった。
ガタンッ
と軽い音がして、棺桶が動き、蓋がズレる。
その軽さに、この棺桶は空なのだと分かった。
「ここは我ら使用人の寝室でございます」
背後から声がした。
「誰!?」
振り向くと、家政婦が立っている。城に招かれた時に挨拶をされ、挙式のときにも給仕の采配をしていたのを見ているので、顔見知りだ。
しかし、アネットは悲鳴を上げそうになった。
彼女の目が暗闇の中で光っていた。
灰色のワンピース姿の家政婦は、しずしずと、しかし確実な足取りでアネットに近づいてくる。
「こ、来ないで」
「アネット様、恐れないで下さいませ。旦那様からお聞きでしょうが、私たちこの城の者は皆吸血鬼です。三百年もの間、死の安息を奪われて生きております。しかし、私たちが人を襲うことはありません。輸血用の血や、鳥や兎の血を代用にしております」
真っ暗な中、家政婦の足取りは全く危なげがない。
「三百年? それって……魔物大発生?」
「はい。私達は、その時にこの城を守り、死にかけたのです。逃げる選択肢はありませんでした」
家政婦は、もはやアネットの手の届くほどの近くにまで迫っていた。
そこで足を止めると、家政婦は言葉を区切った。
アネットの手元の燭台の灯が、家政婦の顔を照らす。彼女は遠くを見るような目をして、続きを語りだした。
「あの時、私たちは死ぬまで城を守るしかありませんでした。シュトガル丘陵に立つこの城を超えれば、すぐに人の住む街があります。そして街を越えてしまえば、王都までの間に、この山城以上に堅牢な砦も、強い武力を持つ貴族も、いなかったのです。……そうして全滅しかけた私たちの前に、恐ろしい男が現れました。男は、魔物大発生に倒れた私たちのうち、息の有った者を吸血鬼にして、生き残りの魔物たちを潰しました。我らを作った父にして元凶、大吸血鬼のヘニングという男です」
「…………」
「ヘニングは、生きている年月を忘れるほど生きております。今は吸血鬼を率いて傭兵軍団と武器商人をやっております。太陽にも焼かれず、銀の銃弾にも倒れず、富もあり、手下も沢山引き連れております。そのヘニングに、旦那様は命じられたのです。嫁をとれ、と」
す、と手を上げて、アネットを指差しながら家政婦が言った。
「それでどうして、私を……?」
「旦那様はヘニングのように成りたくなかったのです。つまり、人間を吸血鬼にするなどという残酷なことをしたくなかった。それで、家族を作らずに生きてきたのですが……近年あまりに吸血鬼だという噂が広まっているから、結婚しろ、とヘニングが命じてきたのです。そこで相手として、人狼だと噂の貴女が選ばれました。人狼でしたら、吸血鬼に血を吸われても死にませんし、死んだとしても、吸血鬼化しませんから。これも全てヘニングから言われた事です」
「そん、……そんなことのために、私を?」
「申し訳ございません。旦那様を恨まないで下さいませ。そして、……以後、旦那様には近づかずにお過ごし下さいませ。旦那様は、ただの人間の娘を殺したくなどないのです。ただ、ただこれだけはお伝えしたいのですが」
ずいっと、さらに一歩家政婦が前に踏み出した。
アネットよりも少し背の高い家政婦の鼻先が、すぐ目の前にある。
「旦那様はアネット様を愛そうとされていました。大切にしたいと。ただ……吸血鬼は人間の娘を幸せにすることは出来ません。お互いを愛さないように過ごされるのが、お互いの幸せのためです。……お分かりでしょう? 人の血を吸わない私たちは飢えております。とくに、愛する相手への吸血行動は、吸血鬼の本能のようなもの。……旦那様に愛されないように、ご留意下さいませ」
それでは、と小声で言い残して、家政婦は部屋から去っていった。
「そんな……彼を愛しては、幸せになれない……? そんなこと……、ひどい!」
アネットはそれから、棺桶に躓き、蹴飛ばし、よろけながら部屋を駆け抜けた。
辛くてたまらない。
愛せると思った相手から拒絶され、愛してはお互いに不幸になるとまで言われてしまった。
彼はたしかに自分を愛そうとしたのだとも言われた。
仮面夫婦を提案して自分を遠ざけたのは、間違っても欲に流されて吸血したくないという彼の優しさからだろう。
でも、そんな生殺しの相手のような自分がずっと彼の城に居て良いのだろうか。
ただでさえ、満月が近くなれば、苦しみに伏せることしか出来なくなる病持ち。
そのうえで、辺境伯ルーカスにとっては、吸血衝動を思い出させる残酷な存在。
「どうして、どうして……ッ」
走って、走って、躓いて、また走って。
どう通ったか分からないまま、アネットは用意された寝室にたどり着いた。
夫婦の寝室として用意された部屋には、落ち着いたトーンの家具が揃えられている。
ソファ、キャビネット。壁には大きな鏡の……枠だけ。
呆然として、枠だけ残された鏡を見上げるアネット。背後には、天蓋付きの豪華なベッドがある。
よろよろとベッドに倒れ込むと、アネットはまた、声を上げて泣いた。
* * *
アネットに先立ち、棺桶の並ぶ部屋の扉を出た家政婦。彼女はそこで立ち止まり、深くお辞儀をした。
その先には、辺境伯ルーカスが立っていた。
「僕たちは地獄耳だぞ。僕が居ると気付いていて、あの話をアネットにしたのか?」
「申し訳ありません。ですが私は旦那様をずっと、子供のころから見ております。アネット様に会いに塔に上り、戻られたときの旦那様の柔らかなお顔。あんなお顔は、吸血鬼になってから初めてで……つい差し出がましいことを……」
「あれでは彼女を追い詰めるだけだろう!」
潜めた声に静かな怒りを込めて、ルーカスが言う。
「正直に事情を言わないと、あのお嬢様は旦那様との交流を諦めませんよ。お優しくて強いお嬢様のようですので、仮面夫婦と一方的に言われても、なんとかしようとするでしょう。そうなりますと、旦那様がお辛いことになります」
「しかし……」
唸るように言って、彼は頭をルーカスは頭を掻いた。
白銀の長い髪が、ばさばさと広がっていく。
それから動きを止め、少しの沈黙があった。
「わかった」
彼はそう呟いて、書斎に戻っていった。
同じフロアの別の部屋から、アネットが躓いたらしい足音が響いてきていた。