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それから二ヶ月経とうと云う頃。
ロッツェン男爵家に、結婚申込の手紙が届いた。
ここロッツェン男爵家は、人食い男爵の城と呼ばれている。
ロッツェン男爵は孤児をさらって食う。獣のように残酷で、子供を頭からバリバリと食う。
男爵家は三人家族で、人食い男爵、人食いの息子、そして人狼の娘だ。奥方は、人狼である娘を生んで、恐ろしくて実家に逃げたとも、男爵に食われたとも言われている。
……というのは全て、根も葉もない噂であり、まったくの間違いである。
しかし、人々の口端にそう上るだけの理由はある。
娘であるアネットが人狼と呼ばれるのは、グレーと白のツートーンの髪に金色の瞳という狼を思わせる容姿からだけではない。
満月の夜には城の塔に閉籠ってうめき声を上げる。城から離れることはなく、王都に出ることも、地方の有力貴族の招待に応じることもない。年頃だというのに、社交の場を徹底して避けている。
これもすべて、彼女が生まれながらにして患う月酔病のせいなのだが、病のことは秘密にしている。大変に珍しい病であり、判明していないことも多い。
伝染した例はないが、人々の間に混乱が生じることを考えて、秘匿しているのだ。
『人狼の噂だけじゃあ処刑は出来ないが、伝染病だなんて事になったらどこかの阿呆教会に火を放たれかねん』
とは父であるロッツェン男爵の言。
不信心な物言いだが、彼が特別不信心なわけではない。この頃の教会は貴族の力を疎んでおり、なんのかんのと理屈をつけて、財も命も奪おうと算段していた。
ということで、彼女は対外的に人狼の噂のある娘であり、それに反論する術を持っていない。
さらに持参金が期待出来るほど裕福でもなく、新興貴族で派閥にも入れず、爵位としては男爵と低い。そんなアネットに、結婚の申込みなど来ようとは誰も予想していなかった。
「だ、誰ですか? アネットに結婚!?」
アネットの兄である男爵家長男が、声をひっくり返して父親に訊ねる。
彼は妹の結婚を誰よりも心配していた。
社交の場には顔を出し、妹をさり気なく売り込もうともしていた。
豪胆な男爵がなにもせずに構えていたと比べると、妹のため動き回っていたと言っていいだろう。噂のせいで、売り込みが成功することは無かったが。
「ふふ、聞いて驚け。まさに運命だぞ。なんと、……シュトガル辺境伯からだ!」
「なん……」
「なんですって!? シュトガル辺境伯!?」
音圧で兄を黙らせるようにして、部屋に飛び込んできたのは当のアネットだ。
「ねえお父様、本当? 今、シュトガル辺境伯から結婚の申込みがあったって仰ったの? その手紙がそうなの? 見せて頂戴!」
大股に歩いてきて、ずいずいと男爵に迫るアネット。
その様子に、男爵は眉を持ち上げておどけた顔をして見せる。それでも、強面ではあるが。
「おおアネット。今日は具合は良いのか?」
「ええ、まだ細い月ですもの。半月が太りはじめる頃からよ。もう、何度言っても月のことを忘れるのね」
「拗ねるな拗ねるな。機嫌伺いの定型句だ。それよりお前、シュトガル辺境伯を知っているのか?」
「以前、お城に泊めた方でしょう? 私、塔の中で静養している時に会いましたわ」
「ははは! それで、惚れたか? 美丈夫だったからな! なるほど、向こうもこちらの可愛いお姫様を見初めたというわけか!」
「やだ、お父様! 恥ずかしいこと仰らないで!」
大声で笑う男爵の胸を可愛らしく叩きながら、アネットは上目遣いで睨みつける。
それから、ほうっとため息をついて夢見るように遠くを見つめた。
「どこにも嫁げないと思っていた私が、シュトガル辺境伯様に迎えていただけるなんて……なんて奇跡かしら」
「ちょっとまて! 父上、おかしいとは思わないのですか? シュトガル辺境伯がアネットを迎えると? あそこは子供が出来ない呪いを受けて、数百年の間ずっと養子を取ってきたと言われる一族ですよ。他家から嫁を取るなんて聞いたことがない!」
「だから、アネットに惚れたのだろう」
あっさりと答える男爵に、長男は顔をしかめて見せる。
「見たでしょう、あの怪しい一団を。彼らは、食事に手をつけず、赤ワインだけを飲んでいたのですよ。夜に現れ、夜に消えたのですよ。噂の通り吸血鬼に違いありません。使用人に至るまですべて吸血鬼の集団なんですよ!」
「む……? 確かに、冗談がお好きな御仁ではあったが?」
――やっぱりおかしいよね。
――みんな顔色が悪かったですよね。
――血の匂いがしたよな。
――辺境伯の落ち着きはあのお歳とは思えない。
ざわざわと、使用人たちが囁き合う声が広がっていく。
男爵が腕を組み、口を引き結んで考え事の姿勢に入ろうとしたときだ。
「そんなことないわ!」
アネットの声が広間に響いた。
「お兄様! 私たちは不名誉な噂にずっと困らされてきたじゃありませんか! どうして、同じような辺境伯様を可哀想だと思わないの!?」
「そ、そうだが。辺境伯は本物の吸血鬼だろう。君は彼の振る舞いを見ていないからそんな事が言えるんだ」
「あら! 疲れ過ぎたら、料理が食べられなくなることくらいあるわ! 夜の内に帰ったのだって、きちんと理由の置き手紙があったじゃない! 辺境伯ともなればご多忙よ。それに……」
アネットは言葉を探すように視線を動かしたあと、右手を左手で包み込み、それを口元に寄せる。
愛しいものにするように、自分の右手の指先に口づける。
「それに、彼はとても優しくて、寂しそうで、少し恐ろしくて……なんていうか、初めてこんな気持ちになったのよ」
吐息をもらすアネットに、それ長男はそれ以上なにも言えなかった。
そもそも、断れるような縁談では無いのだ。
相手の位も高く、支度金は不要どころか金銭援助を申し出てくれている。
何でも、領地経営が赤字続きであることを宴の席で男爵から聞いたのだとか。当の男爵は酔っていたと言ってなにも覚えていないが、たしかにここ数年の経営状況は良くない。
天候不順での不作が続いたあとに税率を下げたり、対魔物結界の術を新たに掛け直すよう術師を呼んだりと、主にロッツェン男爵が領民のために行っている施策が理由だ。
領民が飢えない死なない困らないというのは、長い目で見れば領地の益になるし、なにより気分がいい。とは男爵の言。
しかし目先の支払いには窮しているのが本音のところ。
ということで現実主義者の長男としては、辺境伯の申し出を撥ね付ける選択肢はほぼ無かった。
妹が嫌がれば、調整に走ろうとは思っていたが、当のアネットは一度会ったシュトガル辺境伯に夢中だ。
「良いではないか、お互い想い合って夫婦になれるのだ。妹のめでたい門出を、盛大に祝って送り出そうでは無いか」
「そうですね……ってちょっと父上! これを!」
説得されてつまらなさそうに、辺境伯からの書面を弄くっていた長男が慌てて声を上げる。
「結婚の条件が一つだけ、書かれていますよ。読まれましたか?」
「んー、なになに?」
男爵と長男が書面を覗き込むところに、アネットもスススと寄っていく。
「えーと、読むわね。『結婚式を挙げる場合は、日が暮れてからにすること。』ですって。変わってるわね。あ! 夕方からだと、皆様の予定が合わせやすいのかしら! 日中は忙しいですものね」
「なるほどそういうことか。気遣いの出来る御方だ」
アネットの解釈に、感心したように頷く男爵。
そんな父娘の姿を見て、長男はどうしても首を捻らざるを得なかった。