コルチゾール・仲見世(2/3)
浅草仲見世通りを、
ウィーン帰りの元恋人モモと、僕が歩いています。
2021年、春のはじめ。
僕はデザイン会社勤務、モモは海外拠点に活躍している画家です。
で、僕の最近の作品を見たいってところまでが、前回。
「最近キャンバスに描いたのはこれ」と、
僕は自分のインスタページを開いた。
見せてと言いながら、
モモは僕の手の中のスマホを取り上げた。
モモの腕が僕を離れて、やっと僕の気分は落ち着いた。
モモがスマホを見つめたまま歩みを止めた。
背景には、『桜餅パフェ&人形焼き』と書かれたシャッターが見えた。
視界のピントが広角で合ってきた。
鈍くて薄いピンク色の桜の絵が、シャッター上で舞っていた。
もう仲見世の半分以上を進んでいた。
浅草寺境内まであと少しだった。
自分が思っているより速く歩いていたのかもしれない。
ただただまっすぐの仲見世通りに錯覚すら覚えた。
瞬間移動していた気分だったからだ。
歩いている足にも実感が湧かなかった。
僕はどんな顔して歩いてるんだろう。
シャッターばかりの道じゃ、自分の姿がわからなかった。
ビュンと冷たい風が吹いた。寒い。
モモの金髪が風になびいた。
顔はまだ僕のインスタページを睨んでいた。
長い指で画像を拡大して、僕の作品の隅々を見つめていた。
マスクで隠れたモモの口元はどんな表情なんだろう。
「昔の癖が少し残ってる。でも新しい」
仲見世の冷たい街灯に照らされたモモの目は、
笑っているように見えた。
本当のところはわからないけど。
モモの泳いでいる世界と僕の追いかけている世界は、
多分根本的に違う。
僕は追っているけど、
イメージを掴み切れていない世界を追っていた。
十年前からわかっていた。
十年前から求めている世界の認識が違っていた。で
も本当にモモを好きだった。
いっしょにいられないと告げる代わりなのか、
当初からの目標だったのか、モモは卒業前にウィーンの大学院進学を決めた。
モモに相談されなかったことで、僕から少しだけ喧嘩をふっかけた。
形式的諍い。体裁的衝突。こども。
モモの渡欧直前に、僕らは静かに関係を終わらせた。
いま目の前でスマホを見つめるモモは、
笑っていない気がしてきた。
笑うとか笑わないの話じゃないんだろうなと感じた。
彼女は画家として、僕の作品と対話しているだけなんだと思う。
もちろんそれは光栄なことなんだけど、
僕は自分の指がポケットの中でどんどん冷えていくのを感じた。
爪先が硬くなっていくのを感じた。
末端の感覚が鈍くなっていく過程を感じた。
多分、緊張がピークを迎えたんだと思った。
寒い風の吹く春の、
夕闇が夜への移行を完了させたせいもあったかもしれないけど。
僕にスマホをありがとう、と返すと、
僕たちは手を握って歩き始めた。
モモが触れてきた僕の手を、僕から絡ませて歩き始めた。
僕の絵は彼女にどう映ったんだろう。聞けなかった。
仲良くすることで、
画力云々のディスカッションから逃げるクセは変わっていなかった。
モモのクセじゃない。僕のクセだった。
「ねえ、そろそろいそがない?」
気が付くと、浅草寺境内の賽銭箱の前に来ていた。
いつのまに仲見世を過ぎて、本堂の階段まで上ったんだ?
感覚がつかめない。風景もぼやける。
モモの声が遠くから届いた。
画廊に着くと、教授に向かってモモは駆けていった。
僕の繋がっていた小さな手は、
離れた三秒後に教授に抱き着いていた。
「このご時世なんだから、離れなさい」
そんなに嬉しそうに言ったら、
まったく説得力がないですよ、教授。
教授はマスクに隠れた鼻あたりに触れて、
ゆっくりとモモを引き離し、彼女の金髪を指さして笑った。
教授の笑う気持ちは理解できた。
学生時代とまったく同じモモの金髪のせいで、
モモだけ時が美大時代で止まっていた。
僕はモモに触れられている時だけは、
自分の時間もモモに巻き込まれて
戻っているような気分になった。
きっと教授も僕と同じ気持ちなんだろうなと思った。
僕が雷門でモモを見かけた時、教
授みたいに笑えたらよかったのにと思った。
「ほら、こっち来なさい」と言いながら
教授はモモと僕に、何人かの画商と常連のファンを紹介した。
今日は何も手伝わなくていいから、
二階のサロンで飲んでなさいとも言ってくれた。
到着して早々、飲んでなさいなんて声を掛けられたことはこれまでなかった。
二階のサロンで歓談するために招待してないからと言われたことすら過去にあった。
気遣いとか思いやりを、直接表現している今夜の教授は珍しかった。
モモのせいだと思った。
勧められるまま、二階の歓談用サロンへ向かった。
古くて味のある画廊にそぐわない、消毒用ジェルのボトルが、
階段の終わりに設置されていた。ボトルの脇には
『感染予防に何卒ご協力ください』
と書かれていた。
サロンに入ると、しまった、やられた、と思った。
学生時代のモモと僕の課題作品が展示されていた。
最近の学生の作品も展示されていたけど、
モモと僕の作品群が一番目立つ場所に掛けられていた。
「乾杯しようよ」
モモの顔を見ながら、ワインを一口飲むと味がしなかった。
常温で無害な水みたいだった。
指先の麻痺が、舌にまで拡がったのかもしれない。
そんな風に酒を飲んでいたら、どうなるか、わかるだろ?
(つづく)