勉強会
知子は今日も昌と伴に勉強をしていた。
休学中とは言え、さすがに旧帝大の学生。理系科目に関しては難問奇問も淀みなく解説してくれる。『血』が出る前に、大学を出ていたのだから、それも当然か。
知子は、昌を少し見直した。
見た目は『美少女』ではあるものの、悪のりもするし、下品な言動も多い彼女だ。しかし、こと勉強の分野は、進学校の先生や予備校講師にも劣らない。
「これは、解けなくても仕方ないよ」
「解けなくてもいいんですか?」
「基本的に、大学入試は満点を取らなくてもいいよ。これは解けなくても仕方ない問題。整数問題に多いかな」
「昌さんは解けるのに?」
「私が解けたのは、群論、……大学の数学を少し勉強してたから。
現実的に、高校範囲までの知識じゃぁ、初見でこれを制限時間中に解くのは難しいよ。
知子ちゃんだって、高校の勉強をしていたから、中学校レベルは難しくないでしょ? それと同じだよ」
「そういうもんですか」
「そだよ。
大学レベルの内容は、光紀さんも苦労していたし、沙耶香さんなんか、学生時代は半分投げてたみたいだけど。
それでも、光紀さんも沙耶香さんも、大学入試レベルなら解けない問題はほとんど無いんだよ」
「昌さんは理系だから、数学や理科が強いんですね」
「そうかもね。
でもね、大学はどの分野でも数学の素養が要るよ」
「そうなんですか?」
「名目だけでも、研究するならね。
あと、純粋に入試をパスする技術としても重要。
微積分野は、代表的なパターンを憶えてしまえば、入試レベルで解けない問題はまず無くなる。つまり、絶対に落とせない問題ってこと」
知子はじっと考える。
正直、数学を勉強する意味が分からないし、パターンを網羅し尽くすなんて大変そうだ。
「まぁ、使う使わないは別にして、数学は脳の筋トレみたいなもんだと思えばいいよ。
競技場で筋トレすることは無いけど、筋トレで鍛えた筋肉は競技で活きるでしょ。それと一緒。
演繹的思考力は仕事をする上でも重要だけど、それを鍛えるには数学が一番簡単で手っ取り早いんだ」
「えんえきてき思考力? ですか」
「『演繹』の意味は、辞書で調べましょう。それも勉強」
「はい」
昌は意図的にハードルを上げている。知子の心を少しでも外に向けるためだ。
その日は外で昼食をとった後ビデオ屋さんに寄って、マンションの玄関ホールで別れた。
知子は暗証番号でホールの扉を解錠し自宅へ戻る。
鍵は既に開いている。美貴が帰ってきているようだ。
「ただい……」
足下には靴が四揃い。うち三つは見たことがない。どうやら、美貴のお友達らしい。
「お帰りー、知子」
「た、ただい、ま」
リビングには美貴と、同じ制服を着た三人。
「この子が前に言ってた知子。
ちょっと人見知りする、可愛い義妹。
知子、こっちはバスケ部で、今日は試験勉強だよ」
試験一日目は、三教科で終わりだ。明日に向けて、試験範囲の最終確認だろうか。
知子は、昌が一緒でなくて良かったと胸をなで下ろした。珍しく早い時間で昌が帰ったのは、これを予期していたのだろうか?
「は、はじめ、まして。北川 知子と、いいます」
女性として初めて美貴の関係者に会うことに、知子は緊張する。
美貴の友達も自己紹介をするが、知子はこの場に居づらい。とりあえず、ビデオ屋さんの袋をテレビの横に置いたが、次はどうするのが良いだろうか。
先輩たちはダイニングのテーブルを占領している。知子が取れる行動は、リビングのソファーに座ることぐらいだろうか?
「知子ちゃーん、そんなに緊張しなくていーよー。」
「こっち、おいでよー」
「そうそう。お菓子もあるよー」
お誕生日席に、予備の――普段は脱衣所にある籐の――椅子がある。多分、美貴が出したのだろうが、知子にとっては余計なお世話だった。
この場合は、行った方が良いのだろうな。しかし知子は数瞬迷う。緊張感で喉がカラカラだ。
とりあえずグラスを出して、予備の椅子にかける。
テーブル上の麦茶を取る。一口飲むと少し落ち着いたところで、先輩の一人がポッキーを取った。
「はい、あーん」
ポッキーを知子に向ける。
ものすごく照れる。女性から「あーん」は、幼児期以来だ。
『知治』だったら喜んで食べただろうか? いや、やはり照れたに違いない。
知子は顔が熱くなっていることを自覚しながら、ポッキーを口にした。その様子に先輩たちは「かっわいー!」と大喜びだ。
知子は咥えたポッキーをつまみ、少しずつ囓る。そこで初めて、口ではなく手で取れば良かったことに思いあたる。自分は一体、何をしているんだろう?
「知子ちゃーん、その髪、地毛? 染めてるの?」
先輩たちの質問タイムが始まる。一応、知子が応えるが、肌や髪の手入れなどは、美貴が代わって応えてくれた。
さすがに、知子の出自についてまで訊いてくる子は居なかったが、代わりに応えてくれる美貴を、生涯で最も頼もしく感じた時間でもあった。
「ところで、知子ちゃん、銀色の髪のすっごい美人と知り合いじゃない?」
知子はどう応えたものか躊躇したが、美貴があっさり「昌さんのこと?」と応える。知子がおろおろしている内に、美貴はつらつらと続ける。
曰く、知子がかかっていた病院の看護師と格闘技つながりの人で、境遇が知子と似ていることから、気にかけてくれていること。
知子もその人つながりで合気道を習い始めたこと――まだ、稽古には行っていないが。
その『昌さん』は、高校時代に大企業の跡取りに見初められて結婚したが、子育てしながら勉強して、大学に合格した人だとか。
自然、話題はその人の方へ傾く。
やはり、書店に併設されたカフェでの会話は、その二人の容姿と相まってかなり噂になっていた。どうやら、先輩の姉がその場に居合わせたらしい。
一頻り話した後、勉強を再開するのを潮に、知子は「勉強の邪魔しては悪いから」と、自室に引き上げた。
背後からは、「知子はあの見た目でしょー。あれでいろいろ苦労してたのよ」といった会話が聞こえる。
『姉』として、世話を焼いているのだ。
知子はベッドに腰掛けてため息をつく。
美貴には悪気はない。むしろ善意からなのだが、それだけに困っても無碍にすることは出来ない。
夏休みに入れば、こういうことも度々あるのだろうか? だとしたら、昌さんとの『格』の訓練はどうしよう?
正直なところ、知子はかなり困っていた。