知子の変化
今日は昌と伴にビーフシチューの下ごしらえだ。これは、知子の父親が帰ってきた日に作るステーキの練習を兼ねている。
レアでも食べられる牛肉を、フリーザーバッグで丁寧に包む。水に沈めて空気を追い出し、真空パック状にする。もちろん、万一のためにパッチンで袋を閉じる。湯煎の中でフリーザーバッグが開いたら、目も当てられない。
ビーフシチュー自体は、出来合いのルーに牛コマを少々とタマネギを使い、ほぼ箱のレシピ通りに作る。
肉は夕方になってから湯煎にかけ、六十度ほどで一時間程度加熱すれば、食べる直前にニンニクバターで焼き色を付けるだけで十分だ。サイコロ状に切ってシチューをかければ完成。
最悪、生煮えだったとしても、もう一度シチューで煮込めばいい。
湯煎の工程から先は、昌が帰った後、知子が一人でする。今までで一番難しい料理かも知れない。
下ごしらえした食材には手を付けず、例によって二人は外で食事だ。最近は、オーガニックを売りにした店へ行くことが多い。
こういう店は有閑マダムが集うことが多く、昌と知子の外見は場違いだが、だからこそ知子の訓練になる。
昼食後、本屋とビデオ屋さんに寄った。ここは店舗に軽食もできるカフェが併設されている。
知子は、大学受験用の参考書を数冊と、外国語のテキスト、そして美貴の勉強を見るのだろう。高校受験用のも買った。かなりの買い物だ。
一旦、買った本を昌の車に置き、今度はビデオ屋さんへ。やはり、学校へ行かない生活は、特に昌が姿を見せない日はヒマなのだ。
社会人経験があれば、こういうヒマを上手く使えるようになるものだが、知子は高校一年生までの人生しか経験していない。
知子は深夜アニメから数本と、日本を代表するアニメ映画監督の作品を二本。
一本は、空に浮かぶ古代文明の遺産を巡る冒険活劇。もう一本は、土着の民とカミが、外からやってきた民族に追いやられつつある世界を舞台にしたもの。
そのまま帰るのももったいないので、カフェでお茶をすることに。
昌は、自分の推しを紹介する。
スターウォーズシリーズより前の時代からあるSF作品で、放送当初から人種や民族、文化、価値観の多様性を積極的に取り入れていた。
現在の価値観に照らしても先進的な哲学のもとに創られており、世界三大テレビSFシリーズを挙げたなら、誰が選んでもコレは外せないだろう。
ところが、知子はあまり興味を示さない。これが世代差なのだろうか?
「最近、趣味というか、見る番組も変わった気がします。前は深夜アニメなんてバカにしてたけど、今はそうでもないし……」
知子の言に、昌は「おや?」と思う。ものの感じ方が、だんだん知子寄りに変化しているのだろうか?
昌は少し試してみることにした。
「ところでさ、その映画って、観たこと無いの?」
「ありますよ。夏休みが近づくと、テレビでやることも多かったですし。でも、たまに観たくなるんです」
「そうだよね。けどこれ、どっちも、ちょっとエロいよね」
「え?」
知子は虚を突かれたように固まる。
一方は、子どもから大人まで楽しめる冒険活劇だ。
もう一方にしても、確かに、主人公とヒロインがそんな雰囲気という含みはあったが……。
「どこがエロいんですか?」
「じゃぁ、分かりやすい方から」
昌は冒険活劇の方を示す。
この作品は、ヒロインの胸のサイズに注目すると解りやすい。
主人公の少年と初めて出会ったときは、明らかに知子より小さい。と言うより、最大に見積もってもAだ。
しかし、空に浮かぶ都市にたどり着いたときには、知子を超えるサイズになっている。推定C。
「この変化には、意味があるんだよ」
「成長したとか?」
「数日で?」
「人間として。
逃げるだけの女の子じゃなくて、戦うべきときは戦える女性に成長したことの暗喩」
「惜しい!
この映画の冒頭を思い出してよ。海賊の襲撃の間隙を狙って、成人男性を鈍器でKO。獲られたものを懐から取り戻して、飛行船の窓の外に身を隠す。
初めから、戦う少女だよ」
知子は黙って考える。
「ヒントその一。
凧に乗って出たとき。二人はこんな感じだよ」
昌は知子の背後に回り、抱きついた。知子の背中にはその柔らかい感触が伝わる。
「ぅあ!」
胸の感触でここまで慌てるということは、まだまだ男性としての意識が残っているということか。
慌てる知子とは対照的に、昌は冷静に分析する。
「このシチュ、知子ちゃんの借りてきた深夜アニメだったら……、
あ、あたってるよ! いろいろ、あたってる!
ウフフ。あててるのよ。
みたいなやりとりがあるはずだよね」
昌は知子を解放し、席に戻った。
十代の少年がこんな状況になれば、平静では居られないはず。にもかかわらず、彼は全く動じていない。
「つまり、既にこれぐらいでは動じなくなるような経験が、二人の間にはあったということ。
どんな経験かは、貴女の想像に任せますけど」
昌の説明に、知子は頬を染める。その反応に、昌はニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「うん。その想像で正解だよっ! あのサイズの変化は、ヒロインがオンナになったってことを表しているんだよ!」
「ちょ、ちょっと昌さん、声が大きいです。
周囲りに聞かれてますよぉ」
いつの間にか、周囲りには高校生――大半が女子――が増えている。試験の時期だからだろう、勉強道具らしきものがテーブルに並んでいるが、こちらの会話に聞き耳を立てていたのは明らかだ。
それが分かるのか、知子の顔が更に染まる。
「多分、要塞から助け出した後、船に乗るまでの間だと思うよ。
海賊のママが気をきかせて、二人きりになる時間をあげたんじゃないかな。
死地に向かう前に、思い残すことが無いように、ってね」
知子は顔の赤さは最高潮だ。
『昌幸』が高校時代にこの話を友達から聞いたとき、ここまで照れることは無かった。
その話を、さも自分が分析したかのようにしたが、知子の反応は予想以上だ。少なくとも、感性は高校時代の『昌幸』とは違う。
きっと、心の在り方が高校生男子とは異なるものになりつつある。
「ごめんごめん。でも、恥ずかしがる知子ちゃんは可愛いね」
「昌さんが、こんなこと、普通に言う人だと思いませんでした」
「まー、私は成人してるし。結婚して子持ちだし。
知子ちゃんが想像するだけで赤くなったことをイタした結果、二人目がお腹にいるし」
お腹をなでる姿に、むしろ周囲の高校生たちがザワつく。ウエイトレスのお姉さんも驚いた表情だ。
座っていれば、昌は中高生にしか見えない。その外見からは、想像できなかったのだろう。
「さ、いい時間だし、そろそろ帰ろうか。
お望みなら、もう一方の映画についても、見どころとか、エッチなポイントとか、その暗喩とか、いろいろ解説してあげるよ。
……周囲りにも、聞きたい人は居そうだし」
「いい、いいですっ。帰りましょう!」
知子は小刻みに首を振って帰ることを進言する。
店を出るときも、周囲りからの視線が痛い。
車に向かう道すがらも、あの高校生たち、しばらくは試験勉強に集中できないだろうなと、知子は済まない気持ちになる。そして、明日はその話題が拡散するであろうことも。
家に着く頃、ウエイトレスの表情を思い出した。表情から、間違いなく会話を聞いていたに違いない。
あの店、今後はちょっと入りづらいかも。