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ひめみこ 第二幕  作者: 転々
第三章 新たな日常
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昨日の名残

 知子は、目覚ましのアラームで目を覚ました。

 昨夜は眠れた気がしない。アラームで目を覚ましたということは、眠ってはいたのだろうが、量も質も足りていない。


 知子は上体を起こした。


「うっ」


 筋肉痛だ。二の腕、腰から背中、昨日のボクササイズだろうか。とりあえずストレッチを。そう思った瞬間、下着に違和感を覚える。


 まさか、漏らしたか?


 布団に手をやるが無事だ。パジャマもお尻が少し湿っているかもという程度で、被害は下着だけらしい。


 とりあえず、シャワーと着替えかな。




 着替えを持ってリビングに向かうと、母親と鉢合わせした。


「あら、知。おはよう」


「……おはよ」


「元気ないわね。どうしたの?」


「なんだか、昨日は寝付けなくて。

 身体は疲れていたし眠たいのに、寝なきゃ寝なきゃって思うほど寝付けなくて……。それに、寝汗も。

 ちょっとシャワー浴びてくる」




 知子は脱衣所に入って鍵をかけた。

 パジャマは、……一応は無事のようだが下着が湿っている。

『知治』の――視聴した媒体によってやや偏った――知識とは違い、糸を引くようなことは無かったが、しかしそういうことだ。

 知子は、自身の身体がその準備をしていた事実に赤面すると同時に、背筋にゾクりとしたものを感じた。

 その感覚ごと洗い流そうと、身体に熱いお湯をかける。そして下着を湿らせてしまった部分も軽く濯ごうとした瞬間、感じたことの無い刺激に何かが決壊した。止められない。


 立っていられず、膝をつく。




「……先に、トイレに行っておくべきだった」


 泣きそうだ。自分の制御を離れて放出なんて、幼児期以来だろう。

 気を取り直して、ボディソープで身体を洗う。浴室の残り香をそれで埋める。ついでに浴槽の掃除もする。

 更に熱い湯とぬるい湯を交互に、特に足の指の間にシャワーを強く当てる。こうすることで、身体が目を覚ますのだ。

 最後に下着を手洗いし――これは女性の嗜みとして、母親からも指導されていた――浴室を出た。




 五分袖シャツに七分丈のパンツという楽な服になり、髪にドライヤーを当てていると、美貴がやってきた。


「知子、朝からシャワー?」


「うん。寝汗がひどくて。

 昨日久々に身体を動かしたからか、身体は疲れてるのに、なかなか寝付けなくてさ」


「んー。ま、そういうこともあるよ」


 それもあるだろうとは思うが、主たる理由は想像するのも恥ずかしい。洗顔を終えた美貴にドライヤーを渡し、知子は脱衣所を出た。




 朝食を終えると、美貴は足早に登校する。母親も就活の身支度だ。最近は、知子が朝食の食器を片付けている。茶碗の汚れを亀の子たわしで軽く落とし、食洗機に並べた。


 母親を見送ると、部屋は静かになる。聞こえるのは、食洗機の中で水がお皿に当たる音だけだ。


 知子は筋肉痛を紛らわせるために、軽く伸びをする。今日は輪っかの方にしようか? でも、足踏みを階下に響かせるのはよくない。マットを買うにしても、その前に自転車を買う必要があるだろう。




 なにしよっかな?


 知子はわざとらしく自問する。昨夜の続きという誘惑はあるが、今朝の決壊を思い出す。あれを風呂場以外でやらかすと大変だ。かといって、日に何度も風呂にこもるのも変だろう。

 誘惑を感じつつもそれは保留とした。




 基本的な勉強道具はそろえてあるが、中学生のそれは物足りない。いずれ高校の学習参考書をそろえた方が良さそうだ。

 母親は昼前には帰って来るはずだから、午後は自転車とマットを買いに行こう。自転車さえあれば、行動範囲は大きく広がる。書店、家電量販店、ホームセンター、徒歩では遠くても自転車なら。

 ゲームやDVDぐらいなら通販でも事足りるが、本などは実店舗で現物を見たい。意外な出会いということもある。




 昼までの暇つぶしに映画を視ようと、オーディオの電源を入れた。電線が邪魔という理由で、フロントスピーカの横に置いてあったリアスピーカを壁側に持って行く。


 ただのアニメ映画だが、大きな画面と音響のおかげで印象が変わる。テレビのスピーカとは違い、音の輪郭がくっきりするし、前後の定位とウーファで強調された低音は、映画を盛り上げる。

 二時間ほどの映画はあっという間に終わった。




 昼食後は母親の運転でホームセンターへ向かう。

 足踏みが階下に響かないためのマットと、自転車を買うためだ。


 マットは、乳幼児の転倒や足音対策の商品だ。ジグソーパズルのようにつなげることができるものをとりあえず九枚。母の車に積み、改めて自転車を選ぶ。




 自転車売り場は、その広さや品数の割に、中高生用のそれは少ない。目立つのが電動アシスト付きの自転車。そしてそれとは対称的なロードバイク。なぜかエアロバイクもある。


「新入学のシーズンは終わったものね」


「あ、そうか」


 中高生向けの自転車は新入学に向けた年度末がメインだ。今並んでいるのは売れ残りばかりなのだろう。

 それでも、知子は陳列された自転車を見る。こういうものはカタログではなく実物を見た方が良い。


「これが無難かな」


 少し格好いいママチャリだ。車輪は二十七インチと大きいが、それでも両つま先が床に届く。


「知、脚長いのね。なら、こっちが良いんじゃないかしら?」


 母親が勧めたのは、形や大きさはほとんど同じだが、チェーンではなくベルト駆動だ。変速はチェーンの六段に対してベルトは三段。

 しかし、値段は一万円以上違い、六万円を軽く超える。


「こんな高いの、いいよ」


「最低でも中・高で六年は使うんだから、良いものを選んだ方が安く上がるものなのよ。ベルトなら油を差さなくても良いし」


 その会話に店員さんもやってきて、商品の説明をする。こちらの方がフレームも軽い上、耐候性という点でも優れているとか。




 結局、母親と店員の勧めに従い、すこし値の張る自転車を買うことになった。よく考えたら知子自身はお金持ちだった。支度金だけでも、姉妹の進学費用には十分だし、月々のお手当ても公務員並みだ。


「じゃぁ、私はこれに乗って帰るから」


「ちょっと遠いわよ」


「せいぜい五キロか六キロほどだよ。

 田舎での通学距離に比べたら大したことないよ」


「気をつけるのよ」


「分かってる」


 知子が自転車を引いて店を出るのを母親は見送った。




 知子は自転車をこぎ出した。

 初めての道を自転車で風を感じながら走るのは気持ちが良い

 サドルからお尻を上げて強くこぐと、自分の脚だけでは絶対に出せない速度で進む。それだけで嬉しくて笑みがこぼれる。


 前方に、大きく『本』と書かれた看板が見えてきた。

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