ボクササイズ
知子たちは、なかなかの大荷物を抱えて帰宅した。
帰って最初にすることは、当然、ゲームをテレビにつなぐこと。アダプタとHDMIケーブルをつなぎ、対応する入力を低遅延モードにする。
ユーザアカウントを設定し、ゲームを始めた。
マットを買い忘れたので、始めるのは足踏みをしないボクササイズの方だ。建物が良いから、下の階に響く心配は少ないはずだが、念のため。
昌の「着替えないの?」の問いに「軽く触ってみるだけ」と応じてゲームを始める。
まずはチュートリアルらしい。画面のインストラクターに合わせて、ストレッチから。
ストレッチを終えた知子がふと見やると、昌はすでに着替え完了。
知子は画面のインストラクターと昌を見比べる。
画面の女性はデフォルメされているからか、手足が長い。しかし昌もそこまでではないものの手足が長い。こういう体の線が出る服装だと、それが際立つ。
腰から下は、昌さんの方がちょっと細いか。けど、胸が……。
知子の視線は自然と誘導されてしまう。
知子はストレッチを終えて、エクササイズを開始。画面に向かって構え、体を揺する。「せーの」で右ストレート!
「うっ」
「ほら、やっぱり。無理するとクーパー靱帯傷めるよー」
「大丈夫です」
「やせ我慢しない方が良いよ。ワン・ツーとか、返しの左フックとかが混じったら、ボクササイズどころじゃ無いよー」
そう言いながら、昌はワン・ツー、左フックを見せる。ウェアで抑えられているのに、それなりに揺れる様子に、知子はいろいろ予測してしまう。
少し迷った後、知子も着替えることにした。
「おー! かっこいい」
着替えた知子を昌が褒める。
確かに、知子自身もそう思った。鏡に映ったスラリとした体躯は、小柄であることを除けば、グラビアアイドルや、あるいはアスリーテスにも劣らない。
しかし同時に、服で強調された身体の線は、気恥ずかしさを呼び起こす。上半身の揺れを抑える仕掛けと、大きく開いた背中が直接空気に触れる感覚との対比に、自身が身につけているものを意識させられる。
「チュートリアルの前に、正しいフォームを教えるよ。変な癖が付いても良くないし」
まずはジャブとストレートを昌が実演する。その風切り音に知子は驚く。
「まずは構えからね。人によって違うけど、知子ちゃんの体型なら私と同じスタイルだね。画面の構えよりもうちょっと横向きかな? 柔術の構えと左右反対になるけど、こんな感じで」
サウスポースタイルに構えた昌の前で、知子も鏡映しに拳を構える。知子のイメージよりも、かなり横向きになる。この構えだと、むしろ横向きにジャブを打つ印象だ。
「うん。そんな感じ。かかとを浮かせて」
先ほどと同様に体を揺する。
「まずはジャブからね」
昌は、先ほどより二段ほど落ちる速さで拳を突き出す。それを知子も真似る。
「そうそう。いい感じだよ。真っ直ぐ突けてる」
ジャブ、ジャブ……。スピードを上げる。
「打つとき、右拳は顎から離さないで」
「拳はそんなに握り込まなくていいよ」
「むしろ、手を戻すときを速くするつもりで」
昌のアドバイスに従い、ワン・ツーも練習する。やはり意識しないとツーのときに、左拳が顎から離れてしまう。
「この辺は、最初が肝心だからね。正しい姿勢とフォーム」
練習していると、二の腕にも効いてくる。更に腰や肩周り、意外と背中の負荷も大きい。そして、ずっとかかとを浮かせているからふくらはぎも。
軽く、一日目のデイリーを終了。
「おー。初めてで十八歳はなかなか!」
「自分、じゃなくて私、十二歳なんですけど」
「これ、十八歳が一番いい評価だよ。多分、JUSTの割合で見てるだけだと思うけど」
「昌さんは?」
「私は、初めては十九歳になってた。けど、普通にやれば十八歳だよ。
でも、判定が甘いんだよね。結局コントローラにかかる加速度で見てるだけだから、タイミングさえ合わせれば、フォームがダメでも、全部JUSTにはなるだろうし」
ジャブなどが判りやすいが、ゲームでは腕の振りではなく、拳が引手に変わる――加速度が大きくかかる――瞬間を見ているようなので、特にフックやアッパーなどの判定は、現実に即しているとは言えない。
ハンドスピードが十分に速い二人には、大きな問題はないものの、だからこそ正しいフォームでやらないと、効果が十分得られないのも事実だ。
その後、昌もフリーで一曲試す。始めたばかりで、簡単なコンビネーションしか選択できないこともあって、すべてJUSTだ。
知子にも、初日のメニューは軽いと言うより物足りない。フリーでもう一曲。感覚は掴めたのでテンポを速めにするが、やはり昌と同様だ。スイッチするときの、トレーナーからの「ここまで完璧」の言葉に、少し嬉しくなる。
知子がサウスポーでやっている最中に、玄関の方から物音がした。「ただいまー」の声から、美貴だと判る。急には止められず、知子はこの姿を美貴に晒すことに。
「あ、知子、かっこいい!」
知子はすごく恥ずかしい。他人にシャドーボクシングを見られるのは、ある意味罰ゲーム。ましてこの服装だ。
「お帰り、美貴ちゃん。おじゃましてます」
昌の姿に、美貴は目を見開く。その姿は、とても妊婦には見えない。
「まだ、三ヶ月にもなってないからね。
知子ちゃんが運動不足になりそうだから、買ってみた。
実は私も同じのを持ってたんだよ。学校に編入するまでは、どうしても運動不足になりがちだから」
美貴は、もう一方のリングに興味津々だ。でも、階下に響くかもしれないので、マットを買った方が良さそうだ。
「昌さんも知子も、スタイルいいなぁ。竹内さんは別の意味でスタイルいいし。芸能人でもちょっと居ないよね」
「でも、スポーツ選手とか芸能関係は禁止なんだよね。私の友達も普通に大学行ってるし、卒業後は公務員とかが多いよ」
昌は知った顔を思い浮かべる。
そう言えば、無職は比売神子様と自分だけだ。看護師、団体職員、教諭、養護教諭、県職員……。わりとお堅い職業ばかりだ。
昌がふと見ると、知子は居づらそうにしている。美貴にこの姿を見られて、しかし昌がいるから自分だけ着替えるのも、という状況か。
「あ、こんな時間だ! 保育園に迎えに行かなきゃ!」
そう言うと、昌はウェアの上からパンツとブラウスを着ける。
「知子ちゃんも汗で体が冷えるといけないから、着替えた方がいいよ。できればお風呂かシャワーも。
それじゃ、おじゃましましたぁ」
昌は『お暇』と言うには慌ただしく玄関を出た。知子は昌を見送ると、シャワーを浴びて着替える。この格好を母親にまで見せたくはない。
シャワーを浴びながら、知子は家族が居るときにはウェアに着替えないことを決意する。更に、着て見せてと言われないよう、夕方に洗濯のタイミングを合わせることも。
でも久々に体を動かせて楽しかった。明日は筋肉痛かもしれない。