翌朝
知子は目を覚ますと、まず身体を確認する。この半月ほどの出来事は夢ではなかった。今更、確かめる意味も無いのだが、癖になっている。
起きるか。
時計に目をやると六時まであと七分。知治より、寝起きが良い。布団の中で出ようか出まいかを迷う時間は殆ど無くなっている。
知子がそうなのか、若いからそうなのか。
知治が小学生だった頃のことを思い出そうとするが、その辺のことは今ひとつ思い出せない。朝、布団から出るのが億劫になったのは、何歳頃からだっただろう。
布団から出ると、肌寒い。ジャージをパジャマの上から羽織り、リビングダイニングのエアコンを入れた。
そしてトイレに行った後、洗面所で口を濯ぎ、昌から教わったように洗顔する。洗顔後に化粧水を馴染ませるのも、この姿になってからだ。
知子は、ふと、昌の姿を思い出した。
「あれで、子持ちどころか二人目を妊娠中なんだよなぁ」
未だ中高生にも見える姿、優しげな表情……。知治だったら、いや、クラスの男子大半が憧れるに違いない。
習ったとおり、髪も毛先側から順にブラッシングする。別にいきなりてっぺんからやっても櫛は通るが、そういうものらしい。
中学校に上がる頃から坊主頭だったから、ブラッシングの習慣もこの十日ほどだ。
「そりゃ、時間もかかるし、女の朝は忙しいワケだ」
独白しながら、それでも一般的な女性よりは圧倒的に短い時間で、しかし知治の倍以上の時間をかけて、身支度をする。
リビングに戻ると両親が起きていた。
「おはよう」
「おはよう、知」
「おはよう」
母親は、朝食の味噌汁の段取り、お父さんはスマホで――普段なら新聞だが――ニュースの確認をしている。
知子はテレビをつけた。以前の家は居間と食卓が別の部屋で、テレビを視ながら食事というわけにはいかなかったが、新居はダイニングとリビングが繋がっている。
テレビがつくと、父親も気がついたようにそちらに目をやる。が、テレビの前のソファへと移動した。近眼なので、画面が大きくとも三メートルも離れれば文字が見えない。
「知ぉー、お姉ちゃん、起こしてきて」
「はぁい」
返事はしたものの……、『お姉ちゃん』に複雑だ。
ドアをノックするが、返事が無い。ドアを開けると、美貴は布団に包まっている。
「美貴ー、起きろぉー」
「んー、おねぇちゃんって言って」
「つまらんこと言ってないで起きろ! 買い物、行くんだろ?」
ベッドから這い出そうとする美貴を確認すると、知子は部屋を後にし、ため息を一つ。それにしても……、何で当事者である自分より、美貴の方が順応しているのだろう。
「美貴、起きた?」
母親は目玉焼きを皿に盛りながら訊く。
「一応、目は覚ましてる」
再度、布団に捕獲されるかどうかは、五分五分かな。二月は一回で起きてくる方が少なかった。
程なく、美貴が姿を見せる。少し俯いて頭を掻きながらヨロヨロと歩いてくる。
「美貴! さっさと顔を洗ってらっしゃい。もうご飯よ。女の子がそんな格好、だらしない」
あれは女でなくてもだらしない。母親に注意される美貴を見て、知子は、自分はああはなるまいと思う。
久しぶりに四人揃っての朝食だ。美貴は未だ眠そうにしている。
今朝はトーストに目玉焼き、スープはミネストローネ。と言っても、フリーズドライのインスタントだ。未だ台所用品がそろっていない。
この内容だと、以前は五切りを二枚、いや、三枚でも足りなかったが、今は二枚でも持て余すに違いない。食べる量が半分になったのは、体重が七〇キロ越えから四〇キロほどになったからだろう。
「お母さん、買い物って、どこ?」
「病院近くのショッピングモールに行くそうよ。高橋さんが迎えに来てくれるから、準備は急ぎでね」
美貴の問いに母親が応える。
「とりあえず、入り用なのは知子の服ね。着回すにしても全然足りないし、下着ももう少し要るだろうから」
『下着』というキーワードに、知子は気が重くなる。対称的に美貴は楽しそうだ。
何がそんなに楽しいんだか、知子は心の中で毒づいた。
八時には十五分ほどだろうか、父親が立ち上がる。
「じゃ、昼一に用があるから、父さんはそろそろ行くよ。母さん、知、美貴、今度の週末な。
何かあったら、いつでも連絡してくれればいい。あと、要るものとか、送ってほしいものは、メールで頼む。
知、昨日も言ったけど、苦しいときは家族を頼れ。父さんも母さんも知の味方だ」
「うん」
「じゃ、行ってくる」
三人は玄関で父親を見送った。
その後、三人はそれぞれ着替え、身支度を始める。
知子はブラウスにスキニーパンツ。上からカーディガンを羽織る。そのボーイッシュな組合せは、知子のスタイルの良さ、特に脚の長さを強調する。が、童顔なため、背伸びした感がある。
対する美貴は、ロングスカートにゆっくり目のタートルネック、薄手のパーカーという、ありきたりな組合せ。
母親は裾が広いパンツで、トップはブラウスと薄手のセーターにジャケットを羽織ったのみ。着る人を選ぶ組合せだが、身長があるので、少しオシャレな奥さんと言ったところか。
美貴が薄化粧を終えてリビングに来た。母親は未だ洗面所で化粧の最中だ。
「いずれ私も、お化粧するのかな?」
「そりゃね。公的な場での身だしなみよ。男子だったら髭を剃るようなもの」
「まだ、中学生だよ」
「そういうもんなの。学校では禁止だけど、社会では必須。いずれ、お姉ちゃんが優しく教えてあげるよ」
知子はため息をついた。化粧に月一のアレ……。いろいろだ。
それを余所に、美貴はソファに俯せになってタブレットを見ている。沙耶香から「暇つぶしに」と渡されたものだったが、専ら美貴が使っている。と言うより、知子自身が読む気にならなかった小説を、美貴は嬉々として読んでいる。今もソファにうつ伏せのまま、脚をブラブラバタバタさせるから、膝裏が見える。
手持ち無沙汰になった知子は自室に戻り、置いたままになっていたノートパソコンの封を切った。
大手PCメーカーのモバイルノート。いわゆる2in1と呼ばれる中でも高級機だ。3Dのゲームは難しいかも知れないが、一般的な使い方に不足は無い。
電源を入れると、初期設定画面になる。
しかし、知子にはアカウントもメールアドレスも無い。それ無しには『次へ』と進めない。
初期設定を諦めて中断し、改めて手持ち無沙汰な時間を過ごすことになった。
インターフォンが鳴ったのは、約束の九時を十五分あまり過ぎた頃だった。




