初日の終わりに
荷解きは一旦終わった。
やはり荷物が多いのは美貴だ。もうしばらくで学校が始まるから、気軽に往復できない。別の理由で往復できない知子のそれが最も少ないことと対称的だ。
父親が立ち上がり「食事にしようか。実は、予約してもらってるんだ」と言う。
窓の外はまだ薄明るいが、時刻は既に六時を回っている。
知子は、いつの間にか春分の日が過ぎていることに思い当たる。日付けの感覚は、二月の中旬から一気に飛んでいる。
マンションのカードキーは人数分あるが、紛失や破損が心配なので、母親以外は暗証番号を設定することにした。
十五年ほど前のワゴンに家族全員が乗る。父親が新婚時代から大切に乗っている車で、子ども達にしてみれば、家の車と言えばコレである。
雪国にあったためか、塗装はかなりくたびれた印象だ。内装も日にあたる部分は色あせている。新しいのはカーナビのみだ。
既に目的地が登録されていたのか、エンジンをかけるとナビは案内を開始する。それに従って車を走らせた。
独特のエンジン音で十五分ほど、駐車場に着いた。田舎の料亭のような店構えではないが、少し高級感がある。
「高橋さんの、と言うより旦那さんの推薦らしいよ」
「社長令息でしょ? 値段は大丈夫?」
「今回は、高橋さんのご厚意だ。
田舎よりは四割ほど高いらしいけどね」
母親は頭の中でソロバンをはじく。サービス料抜きでも一人五桁は堅いだろう。度々来られる店ではなさそうだ。
店に入り、部屋に通してもらう。これも時代だろうか、畳の部屋だが椅子とテーブルだ。
美貴も知子も、こういう店はほぼ初めてなので落ち着かない。
程なく仲居さんがお茶とおしぼりを持って来た。挨拶を交わし飲み物を注文する。父親はビール、母親は酒精の薄いリンゴワインをハーフボトルで。グラスは二つだ。
程なくして、先付けと飲み物が来た。仲居さんが、グラスにそれぞれ注いでくれる。父親はまずビールなので、ワイン用のグラスは一つ空いている。
仲居さんが部屋を出たところで、母親がソフトドリンク用のグラスにワインを移す。そして空になったグラスと元々空のグラスにリンゴワインを注ぎ、二人の前に。
「知の退院を祝って、そして新たな生活に」
皆で乾杯する。
「そう言えば、知も美貴もこういう店で食べるのは、殆ど初めてだなぁ。七五三のときに行ったことは……、さすがに覚えてないか」
知子はおぼろな記憶をたぐり寄せる。
少し山の方に行ったお店で、トイレの前のカエルの置物を、美貴がひどく怖がったことぐらいしか思い出せない。
「何を食べたか、覚えてない」
「子どもには食べにくかったかも知れないわね。
美貴が七歳のときは洋食屋さんだったかしら」
「こういうのが本来の和食だ。
そうしょっちゅう食べるものでも無いが、コース料理みたいなもんだから覚えておくと良い」
先付けは三品。一品は春らしく山菜が使われている。よく見ると、胡麻豆腐に添えられたものも山菜だ。
父親はそれをつまみにビールを進めるが、子どもの舌にはまだ早かったのかも知れない。少し食べにくそうだ。
料理は、椀、造りと進み、空になったビール瓶は日本酒に代わる。
「推薦の店だけ合って、美味しいな。竹内さんも高橋さんも、全国を飛び回ってるらしい」
「なんか、合宿をあちこちでするらしいよ。
私はもう少し訓練がいるらしいけど」
話していると、仲居さんが再び料理を運んでくる。
蒸し物は蓮蒸しだ。
「へぇ、ここでも食べられるのね」
美貴が感心すると、仲居さんが応えた。
「予約のとき、高橋様から、今回のお客様は金沢近郊の方とお伺いしましたので。
北陸の、特に金沢からお越しの方は、舌が肥えてらっしゃるので、少し緊張しますね」
「実に美味しかったと、お伝え下さい」
「ありがとうございます」
家族は食事を終え、代行でマンションに戻る。
「さ、今日は早めに休みましょ。明日も早いから」
「?」
知子は怪訝な顔だ。
「明日は買い物よ。服はすぐにでも要るでしょ。
言ってなかった?」
「聞いてない」
「じゃぁ、私が言い忘れてたのね。
退院のとき高橋さんから電話をもらって、明日は九時過ぎに迎えに来るそうよ。美貴も来る?」
「行く」
「じゃぁ、明日はそういうことで。
知、貴女が一番疲れてるだろうから、お風呂、先に入っちゃいなさい」
知子は脱衣所で鏡に映った自分の姿を見る。
小学生はこんなもんなのだろうか?
胸は少しある程度だが、くびれは歳の割に大きいように見える。記憶の自分と比べると、肋骨自体が背の割に小さい。
特に肋骨は下の方から既に細くなっている。腰骨と肋骨の間隔も相対的に広くなったから、内側から骨格で支えられていない部分も長い。
くびれの正体は、肉のつき方ではなく、骨格の違いなのだろう。
力こぶを作ってみるが、こぶまで行かない。力を入れているのに、触れると硬さ――と言うより柔らかさ――が違う。
「結構、鍛えたんだけどな……」
石川県でも加賀地方は、北陸としては積雪こそ少ないものの、やはり冬場の天気は悪い。部活も室内でのトレーニングが中心になる。そのため、ウェイトトレーニングの比重がぐっと上がるのだが……、今の身体は見る影も無い。
運動部で鍛え込んだ男子高校生と、昨日まで入院していた十二歳女子を比べること自体がおかしいのではあるが。
知子は先に入らせてもらったものの、最中なので湯船には浸かりづらい。シャワーだけで済ませることに。
それでも新居の風呂は断熱性能が高く、暖房をかけられる上、床には電熱機能もある。かつての浴室はタイル張りだったから、冬場は寒く、お湯の温度もすぐに下がった。それに比べれば、遙かに快適だ。
「これから、いろいろ変わるな」
後がつかえるので、手早く洗って出る。
準備しておいた夜用装備とパジャマを着け、髪を乾かそうとしたところに、美貴が入って来た。知子に構わず脱ぎ始める。
「美貴!」
「『おねえちゃん』だよっ」
「そういうことじゃなくて、人前で脱ぐのは……」
「姉妹なんだから、気にしない、気にしない」
「こっちが、気にするんだよ!」
「免疫がまだまだね。じゃぁお姉ちゃんが、知子に免疫がつくよう、協力してあげましょう」
「そういうのは、要らないから」
知子はドライヤーのプラグを抜き、脱衣所を出た。
リビングで髪を乾かし終え、テレビを視るともなく点けていると、脱衣所から「ドライヤーちょうだーい」の声。
仕方なく持って行くと、下着姿の美貴。
「せめて服ぐらい着ろよ」
「このまま着たら、服が濡れちゃうじゃない」
知子はドライヤーを置くと、無言で脱衣所を出た。
間違いなく、わざとだ。
以前、美貴が髪を乾かしているのに出くわしたときは、きっちりノースリーブのシャツを着ていた。が、そのときですら、しばらくは虫ケラを見るような視線で、しばらくは口もきかなかったのに!
この姿になってから、態度が明らかに違う。無駄にテンションが高いと言うか……、とにかく以前とは別人のようになる瞬間がある。
知子はベッドに横になり、真新しい天井を見上げる。
あるいは、美貴なりに自分に対して気を使ってるのかな……、そう思いながら今後のことに思いを巡らせる。
ちゃんと、やっていければいいのだけど。




