血の発現
意識が未だ回復しない少女を残し、病室を後にしたのは二人。
一人は栗色の髪の大柄な女性。もう一人は銀色の髪の細身の少女。二人とも白衣を羽織っているが、どちらも女優と言っても通用する外見だ。何も知らない人にこれを映像として見せたなら、海外ドラマの一シーンに見えるかも知れない。
一見して二人とも日本人には見えないが、一人は竹内 沙耶香、もう一人は高橋 昌という。
いずれも純粋日本人だ。
二人は比売神子という立場にある。
二人がこの病室を出入りするのは三日前に遡る。
「『緊急』って、こういうことだったんですね」
「今回ばかりは、昌ちゃんの助言が必要ね」
「難しいです。人それぞれですから」
「北川 知治十六歳。高校一年生」
「普通の神子なら、この春から中一ですけど……。現実的には無理ですね」
「若い方が、柔軟じゃないかしら?」
「それは……、あまり関係無いと思います。どっちにしても若返っているわけですから。
まず『彼』の心が生きることを諦めないようなケアが必要です。
ただ、『私』よりも難しいかも知れません」
「どういうこと?」
「心を、生きることにつなぎ止めるものの有無です」
昌にとっては、自分よりも家族、子どもたちが優先だった。
その生活や将来のためには、自身が生存している必要があったことが、昌の心を生きることにつなぎ止めていた。
「あの日、私は家族のためなら『世界最古の職業』をすら覚悟したんですよ」
これまでと違う年齢、性別の人間として生きなくてはいけないということは、友だちと、あるいは恋人がいても別れることになる。
それは却って『彼』の絶望を深くするかも知れない。
「まずは、調べられるところから調べましょうか。交友関係の部分は協力者に任せるとして……。
とりあえず、MRIのデータ、見せてもらえますか?」
「それは高瀬先生ね。
でも、結論から言うと貴女の場合と同じよ。変容は脳の構造にも及んでいる」
「分かりました。
データは後で確認するとして、今後の方針ですね。とりあえずは一年。なんとか乗り切らせないと」
「一年?」
「私が女性としての自分を受け容れるのに、およそそれだけの期間が必要でした」
「もっと、早かったと思ったけど」
「いわゆる、自己同一性って意味でならもっと早かったかも知れませんけど、自分の心の在り方という部分では、それぐらいは。
そして性向という点だと……、もっと時間がかかったように思います」
それでも尚、男性として生きた記憶に紐付いた負い目や罪悪感は消えてはいない。それが昌を『男性から見た理想的な妻』に近づけている部分もあるから、一概に悪いことばかりではないものの、昌の心を縛り、あるいは制約しているのも確かだった。
「まずは交友関係と家族関係を調べましょう。家族と一緒の方が良いかどうかも」
「本当はね、この『少年』のこと、昌ちゃんに言うかどうかも迷ったのよね」
「どうしてです?」
「知れば、貴女は指導に関わることになる」
昌の性格上、間違いなく『彼』を可能な限り助けようとするだろう。それは同時に『元男性』の神子と関わりを持つということでもある。
その存在は昌にとって、自身の立場や夫との関係において、大きなリスクとなるに違いない。
沙耶香が最も危惧していたのはこの点だった。
「確かにそうですけど、でも後から聞かされたら怒りますよ。一応、次席の立場にあるんですから」
「そうね。ごめんなさい」
昌は『昌幸』の高校時代を思い出す。
高校一年生。他人だけでなく自分をも批判的に見られるようになり始めた頃。だからこそ、理想と現実の自分との違いに、ぶつけようの無い苛立ちを覚えていた頃。
家族との関係は、中学生の頃よりはマシになっていただろうか?
「難しいな……」
思わず『昌幸』の口調を出してしまう。『彼』の両親とどこまで突っ込んだ話を出来るだろう。
昌は沙耶香から受け取った資料にも目を通す。
北川 知治 十六歳 高一。
中学校での成績は上位。高校は進学校とあって、そこではぱっとしない。逆に野球部では、ベンチを温めていただけの中学時代とは異なり、夏からレギュラー。
つまり、夏休み前に三年生が引退するレベルで、スタメンを埋めるためには一年生も必要なレベルのチームということ。
進学校だけに学校の歴史は百年を超えるものの、甲子園は最近でも十年以上前に遡る。県大会では、良くて三回戦。いや、二回勝てるってことは上位四分の一。学力だけでなく、野球偏差値も六十近いなら立派なものだ。
がっつり体育会系というわけではなさそうだけど、スポーツをやっていて、その集団の中ではそれなりに自信がある少年が、それを閉ざされ、あるいは失ったら……。
家族構成は、司法書士事務所に勤め、自身も司法書士、土地家屋調査士である父、調剤薬局に勤める薬剤師の母、中学二年生の妹。割と裕福な家庭で、家族仲については特に問題は無さそうだ。
が、外から見えることだけでは判断できない。いずれにしても面談が必要だ。
そこまで考えたところで、MRIのデータも参照させてもらう。沙耶香の言うとおり、既に肉体は十二歳の少女のそれで、意識を戻すのがいつになるかという状況。
今回は変容前――変容初期――のデータもある。
その前後で明らかに脳の容積と脳梁の形状が違っている。
脳細胞は心筋細胞と同じく、分裂や増殖をしないんじゃなかったかな? ここまで大きさや形状が変わったのに、記憶を引き継げるのはどういうメカニズムなのだろう?
疑問を覚えるが、昌のその辺の知識は雑学の域を超えない。
思考を『彼』のメンタルケアに戻した。
二人は今後の方針を定める。
初日に知らせることは、若返って人生をやり直すこと。
当然、別人として生きなくてはならないこと。
それに係る事務手続き――戸籍とか――は、我々が行うこと。
とりあえず、当座の費用と生活費の支給について。
では、性別すら変わってしまったこと、容姿を見せるのはどのタイミングにするか、その順序も……。
「意識が戻ったら、一旦鎮静剤で落ち着かせ、筋弛緩剤かなんかで動けないようにした上で、状況説明。本人の回復を待って性別を告知、ってとこでしょうか」
「あら、らしくない強硬な発想ね。でも『回復』って、何を以て回復と見なすの?」
「回復と言うより、別人として生きなくてはならないことを理解したら、でしょうか。場当たり的ですけど」
「それは、保留としましょう。
でも貴女の言うとおり、いきなり全て告知するのは、酷かも知れないわね。
明日の午前に、親御さんと話す時間を押さえたわ。まずは一緒に暮らせるかどうか、そっちの判断が先ね」
「いつでも動く準備は出来ています」
翌朝、昌を待っていたのはバンだった。
「沙耶香さん。もしかして、またあの衣装ですか?」
「そうよ」
「筆頭は沙耶香さんですよ」
「じゃぁ、私が比売神子として対応してもいいけど、病院関係者としての対応は誰がするの?」
「降参。私が比売神子で」
「適材適所よ。
それに、まだしも昌ちゃんの方が、顔立ちは日本人だもの」
沙耶香の運転で、バンはゆっくり走り出した。