お相手
ペンデュラム公爵は足早に黒檀の机の所まで行くと、何枚も重ねてある書類の一番下から、目当ての書類を探し出した。
「うむ、こいつしかいないか……ミリア、母様を呼んでくるから、そこに座ってこの書類を読んでいなさい」
「わかりました。もしかして、私の婚約者候補の方ですか?」
「そうだ」
まさかとは思ったが、仕事の早い父親はもう婚約者候補のあたりをつけていたようだ。
誰なのかしら?
でも、この書類……
父親が渡してくれた紙にはペンデュラム公爵家の透かし紋は入っておらず、役所で使われているような薄っぺらい事務用箋のように見えた。
『人事異動報告書』 《分類》退職
マイルズ・フォレス 22歳
155年 1月9日 フォレス子爵家 次男として生を受ける
《部署》 総務局 第三科主任補佐
右の者は、先日、病気療養中の兄より子爵位と家督を譲り受けたため、7月末日で総務局を退職することになりました。
177.7.5 総務局長 ダグラス・ハーパー
「これって、ただの報告書なんじゃない?」
ミリアは父親が渡す書類を間違えたのかと思い、机の上にある他の書類も覗いてみた。
そこには北東部に領地がある侯爵の名前や、王都に住んでいる伯爵家の三男の名前などが書いてあった。
こっちの方が、婚約者候補っぽいんだけどなぁ。
ま、いいか。母様が来たらわかるよね。
しばらくして父が母を連れて来たのだが、母親にもこの人物のことがわからなかったようだ。
「それで、この方がどうかされたのかしら?」
ミリアから渡された人事の書類を読み終えた母の声が、低くなったように思えた。
ペンデュラム公爵は、妻の機嫌が悪くなったこと知り、少し目をさまよわせていたが、自分が考えたことを話し始めた。
「まあ、そう怒らずに聞いてくれ。陛下がリチャードを臣下に下したことで、情勢が大きく変わった。今回の婚約破棄騒動の一応の決着を得て、貴族の中では徐々に噂も落ち着いていくだろう。しかし、国民はどうだ? 来年予定されていた王家の結婚祝賀行事が急に取りやめになったことで、リチャードとリリアーナの恋物語がクローズアップされるんじゃないだろうか。民衆はこういう話が大好きだ。特に、王子という身分を捨ててまで貫いた恋というのはインパクトが強い。第二王子夫妻が自分たちに近い存在になったことで、王都に住む人たちはその恋物語を歓迎し、熱狂するかもしれない」
「うわぁ、お父様がおっしゃる通りになりそう」
「確かに……それは、ちょっとまずい状況ね」
「だろう? 吟遊詩人に世紀の恋物語として歌われるようになってみろ、ミリアの立ち位置は恋する二人の仲を裂こうとした、意地の悪い悪役令嬢そのものだ」
「なんてこと! 王族の責務もわきまえないリチャードのために、ミリアがどうしてそこまで苦しまなければならないの?!」
滅多に大きな声を出さない公爵夫人の叫びは、悲痛に満ちていた。
「ゴホン、そこでこいつだ。そんな騒ぎが起きる前に、ミリアを結婚させてしまえばいい。そうすれば『令嬢』なんかじゃなくなるからな」
お父様、言葉遊びじゃないんだから。
「あなた、それにしてもどうして子爵家の次男ですの? とてもじゃないけどミリアにふさわしくないですわ」
「そうは言っても、このフォレス家はお前の実家の遠縁になるんだぞ」
「あら、誰の傍系になるの?」
「兄妹がたくさんいた従姉弟がいたろ。ほれ、赤毛の胸の大きな……」
「もう、どんな覚え方をしてらっしゃるの。ええええ、ラナリアは確かに私よりも発育がよかったですわ」
「そのラナリア嬢の嫁ぎ先だ」
両親は親族の話を始めたが、話に出てきた人たちのことをミリアは誰も知らなかった。
母親の実家になるアンダンテ侯爵家は、マルベラン王国の西部域にある。
王都からは馬車で三か月ほどかかるので、ミリアは小さい頃に一度しか行ったことがない。
アンダンテの祖父母や伯父夫婦には、二年に一度くらい、彼らが王都に来た時に会っていた。けれど他の親戚の人たちには一度も会っていないと思う。
公爵家よりだいぶ格が落ちる子爵家でも、自分と同じ血筋だと受け入れやすかったようで、母の受け止め方が変わってきたように感じた。
「それで、昨日おっしゃっていた他の候補者の方よりも、このマイルズさんを選んだのは、どうしてですの?」
両親はミリアに内緒で、もう候補者選びを始めていたようだ。
「ミリアに歳が一番近い。なにより、婚約者も妾も恋人もいない堅物で、今はまだ王都にいるから、すぐに結婚できる。うちの遠縁になる子爵家だから、親族への根回しで時間を取られることもないしな。それに、真面目で仕事の出来る男だ。ハーパー局長は、惜しい男を地元に返さなければならなくなったと愚痴ってたよ」
へぇ、そんな人なら考えてみてもいいかもしれない。
それに結婚してすぐに王都を離れたら、もう噂を聞かなくて済みそうだ。
フォレス子爵領って、どの辺にあるのかしら?
ミリアの新たな人生が動き始めようとしていた。