退職
段々とマイルズが退職する日が近づいていたが、結婚してからずっと楽しかった。
ミリアは庭が眺められるテラスに座って、家事の合間にお茶を楽しんでいた。
小さな子爵邸を取り仕切るのは、今までになく充実した仕事だった。
マイルズが与えてくれた一週間分の管理費を工夫して使って、残ったお金で台所の鍋や釜を新調することが、こんなに心躍ることだとは思ってもみなかった。
タバサに尊敬と感謝を込めてお礼を言われ、喜んでもらえたことは忘れられない。
ガルムが育てた庭の花を花瓶に生け、マイルズの執務室の机の上に飾っておくと、いつも「ありがとう」と言ってキスしてもらえる。
少し照れくさいけれど、こういうスキンシップが増えてきたということは、夫との仲が深まっているということなのだろう。
それにマイルズは夕食の時に、仕事場で聞いてきたいろんな話をしてくれる。
雨が降って溢れてしまった商店街の下水道の話や、愛妻家の同僚の奥さんが可愛い男の子を出産した話。
学園の友達や実家の公爵家の人たちとは違った視点で聞くこんな社会の出来事は、ミリアの世界を広げてくれた。
そういえばリチャードとこんな風に下々の国民の生活について話したことがなかったわ。
社交はひかえていたが、夏休みで王都を離れるペネロペとアーメンガードが、出かける前に家に寄ってくれた。
アーメンガードはタングステン子爵令嬢なので、貴族の中での子爵家の立場や内情をよくわかってくれていて、交際しやすいお仲間のことを教えてくれた。
ペネロペは相変わらず、ミリアの癒しだ。
「ミリアぁ、領地に行っても手紙をちょうだいね~」と大きな身体で抱きつかれて、おいおい泣かれた時にはよわった。
彼女の家はフォレス領からも近いので、もしかしたら春先にあるペネロペの結婚式には出席できるかもしれない。
世間では、父親が予想していた通り、リチャードとリリアーナの恋物語が話題になっている。お芝居にもなっているようだ。
名前は変えてあるし、ミリア役の設定も「侯爵」令嬢となり、ペンデュラム公爵家を敵に回さないように配慮はされている。
けれどリチャードとの婚約はもう六年になるのだ。王都でミリアのことを知らない人はモグリだろう。
民衆の間では、ミリアはすっかり意地悪な悪役令嬢になってしまった。
そんな悪役令嬢を嫁にもらったことで、マイルズは周りの人たちに同情されているらしい。
そのことをミリアに知られないようにと、タバサたちが隠そうとしていたようだが、屋敷にやってきた御用聞きの人の声は大きかったので、話がミリアの部屋にまで筒抜けだった。
「ここの皆さんも大変だねぇ。あのおとなしい旦那さんだと悪役令嬢は御しきれんだろう。いや、もう令嬢じゃなくて、悪妻になってるんだったか。悪妻なら、そんなに珍しくないやな。ハハハ」
使用人に同調してもらえると思って口を滑らしたことだったのだろうが、対応していたタバサとルタをカンカンに怒らせてしまった。
この店との取引は金輪際やめると二人で息巻いていたが、ミリアはそれを止めさせた。
「そんなことをしたら、かえって噂を肯定するようなものよ。『奥様が先日の話を聞いて面白がって笑って、その人からたくさん品物を買いなさい』とおっしゃったのと言っておきなさい。ああいう、噂好きの人こそ優遇しておくの」
ミリアがそう二人に言ったのだが、ルタは最後まで反対していた。
「それでは泥棒に追い銭を与えるようなものじゃないですか!」
「そう思えるでしょうけど、違うわ。人の感情はその人の身になってみないとわからない。あの御用聞きのおじさんは、こう考えるでしょう。前回はけんもほろろに追い出されたのに、あの噂の張本人であるはずの奥さんがとりなしてくれて、おかしなことに前より優遇してもらった。『あれ?変だな』そんな風に思い始めるわ。もしかして、あの世間の噂は違うんじゃないか? そんな疑問を持った人があちこちに現れてみなさい、流れが変わってくるものよ」
ミリアが言ったことは、その通りになった。
王都に住んでいる貴族の使用人たちが「あれ本当は違うらしいわよ。実はね……」と、もともとの事実を話すようになり、ミリアが悪女だという噂を否定するようになったらしい。
そしてリチャードとリリアーナが北に行く街道沿いで泊まった旅館の従業員が、世紀の恋をしていると言われている恋人たちが実際にやらかしたことを伝えたことで、噂は徐々にトーンダウンしていった。
世紀の恋という言葉に踊らされていた民衆は、その恋の中身を知ったことで、今では白けた空気が漂い始めている。
もしかしたら、高慢ちきで我儘なのは、もう一人の女だったのではないか?
真相は、そんな女に騙された愚かな王子の物語だったのではないか?
マイルズが総務局を退職してきたのは、世間の風向きが変わり始めたそんな頃のことだった。