プロローグ
「私との婚約を破棄してほしい、ミリア」
騒めいていた会場に、第二王子の声が響いた途端、何かを期待するような静けさが波紋のように広がっていった。
「殿下、ここでは……」
側にいた側近候補の生徒が慌ててリチャードの言葉を遮ったが、覆水盆に返らず、王族の口から出た言葉というものは重いのである。
「このような場所で言うべき話ではなかったのかな。悪かった、ミリア。けれど、君があんな酷いことを言う人だとは思わなかったよ。可愛いリリアーナが嘆いているのを、私はこれ以上見てはいられなかったんだ」
王子は芝居がかった口調で、眉間に手を当て、憂いをおびた美しい顔をわずかに横にふった。
「はぁ」
あんな酷いことって……いったい自分がどんなことを言ったというのだろう?
いつものことながら、何を言いたいのかさっぱりわからないわ。
ペンデュラム公爵令嬢であるミリアは、目の前で大げさに嘆き悲しんでいる婚約者のリチャード王子を冷めた目で見ていた。
何だか知らないけど、またささいなことを大げさに考えているんでしょうね。
学園でリリアーナと知り合ってから、殿下の自己陶酔感がより酷くなった気がしていたけれど、どうやら気のせいじゃなかったみたい。
リチャード王子は、王太子のザカリーとは違い、責任感の薄い呑気な次男坊性格をしている。
王太子のザカリーは、無口でクソ真面目といったら不敬になるかもしれないが、堅実で面白みのない性格をしている。
政治の世界では、こういう人柄が信頼がおけると歓迎されているのだが、愛嬌がないので、貴族の女性や芸術家といった華やかな人たちには、あまり人気がない。
そんな兄を見て育ったリチャードは、王宮内で自分の居場所を確立するために、知らず知らず兄とは正反対の快楽的な生活を求めていったのかもしれない。
小さい頃は、好奇心が強く面白いことが大好きなリチャードのことを、ミリアも楽しくていい人だと思っていた。そのため、お互い年頃になり、リチャードとの婚約を親に勧められた時にも、さして抵抗はなかった。
知らない人と結婚するよりはマシかもと、すんなりと婚約を受け入れたのだ。
けれど、婚約者になると今までより長い時間を共に過ごすようになる。
たまにお茶会で話すだけだった頃とは違い、彼の大げさな自分本位の喋り方が、だんだんと鼻につくようになっていった。
リチャードって自分が大好きというか、自分が真ん中にいる世界の中で酔っているのが好きなのよね。
つまり究極のナルシスト、ナルちゃんだ。
ミリアは「あ、またナルちゃんになってる~」と、心の中でよくため息をついていた。
ナルちゃんになっている時のリチャードは、周りのことが全然見えていない。自分の世界の中ですべてが完結しているといってもいい。
そんなリチャードがここ最近付き合っているのが、男爵令嬢のリリアーナ・バランだ。
リリアーナは、リチャードに輪をかけたナルちゃんである。リチャードよりちょっとマイナス思考よりのナルちゃんかもしれない。
バラン男爵が女中に手を付けて生まれたのがリリアーナらしいが、こういう話はよくあることだ。
男爵の正妻はごく普通の貴族としての感覚を持っている人なので、リリアーナをすぐに養女にして、自分の子どもと分け隔てなく育ててきたらしい。
しかしリリアーナは悲劇の主人公を演じるのが好きなタイプだったようで、自分を不遇のヒロインだと信じ込んでいるふしがある。
彼女と付き合い始めてから、陽気なナルシストだったリチャードが、陰気な発言をすることが多くなっていた。
周りの者たちは、これも若気の至りというか、青春時代の黒歴史の一つになるたぐいのものと、ゆるい目で見守っていた。ミリアにしても、婚約者がリリアーナとちょっと怪しい友達付き合いをしていても、一過性の熱が覚めたら、王族の務めを思い出すだろうと考えて放置していたのだ。
でも、違ったみたいね。
婚約破棄、か。
学園の卒業パーティーの最中に響き渡った蔑みを含んだリチャードの声。
隣で勝ち誇った顔をして、こちらを見下ろしているリリアーナ・バラン。
第二王子の側近候補の面々は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたけれど、ミリアはどこかホッとしていた。
あら、私。
もしかしたらこの婚約のことをずっと重荷に思っていたのかしら?