三面鏡
明日は急ぎの仕事もないから定時で上がれるはずだし、もし長引いたとしてもせいぜい一時間くらいで、遅くなったとしたって、七時半には間違いなく向かえるよという彼のことばを無邪気に信じて、五時半にあのひとが出られるなら、六時過ぎにはすっかり支度を整えていなくては、と昨日のうちで見当をつけていた彼女は、まだまだ立ち上がりそうにもないクラスメイトにお別れをいって、電車で三駅になるアパートへと歩みだした。
最寄り駅へ到着すると、そのまま1Kの住まいに直行というわけではなくて、入用のものを購入するため、帰りがけでスーパーへ立ち寄ることにしたのも、あらかじめ決めていたことだった。
自動ドアが開き、一番に眼に入ってくるはずのリンゴやミカンには目もくれず、お目当ての品のあるコーナーに順々に立ち寄って品定めを始めたが、安すぎるのは論外としても、高級すぎるのもよくないからと、だいたい中の上といった品々が買い物かごに揃ったあとで、会計へ進む。
え、うそ。
いつもなら鞄に入れていく、お気に入りの紺のマイバッグのことを、今朝に限ってなぜだか気づかなかったようで、それで仕方なしに、有料のレジ袋を買う羽目になったのだけれど、混みあうまえだったからか、パートのおばさんが丁寧に袋詰めしてくれた。
バタバタ時間に追われたものの、なんとか予定通りに彼の大好物を用意し終え、ビールだけでなくチューハイとハイボールも忘れずに、それとこっちは自分用だけれど、食後のプリンだってちゃんと冷やしてあるし、卓上の三面鏡と仲良くしながら入念な修正と彩色を施した顔に、妖精らしくふわふわしたものを身にまとって、年上の彼の訪れを今か今かと待ちわびていたのであったが、すでに七時をとうに過ぎているというのに、好い人からの連絡は入らなくて、大丈夫、何も心配することはないの、ちょうど向かってるとこなの、と強がってみても、ほんの気休めにもならなくて、不安は一向に衰えないし、でも、どうして、だって、だって、といよいよ膨らむばかりであった。
で、その後の展開なんて無視して、とりあえずLINEを送ってみるのが先決だと決めつけパッパッとメッセージを作ってみたところ、ひどく大袈裟な感じになって、これはいらない、こっちもいらない、あ、これは必要、と添削していくうち、えらく無愛想になってしまったけれど、でも待っていたって、願ってみたって、詩の女神が降りてくれるはずもないし、早く送らなきゃという半ば期待を伴った焦りにもやっぱり打ち勝てず、次の瞬間、目をつむってえいっと送信をタップしたのと一緒に、右耳をチャイムがけたたましく襲ってきた。
音のしたほうへ向けたあと、すぐに返した顔に、やり残しはない。ふわっとした横髪の毛先を、左の人差し指でくるくるして、離した。
三面鏡を閉じて、いつもの場所に片づけて、ドアへと向かう。払っても払っても戻ってくる前髪を払いつつ、口元はほころんでいる。
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