DAISHIJI -あなたがやろうとしてること‐
〈一〉
あなたがやろうとしていることは、どれをとっても、宇宙からの慈しみもたらされるすべてのことになっているの。
ダイシジは、おのれにある悩みの中のいっとう大切で核心的な部分に気づこうとして、いつも同じことを思い巡らしていた。
それが、次の日にどんな結果になろうとしても、それが、彼の中にあるどんな部分とつながろうとも、まったく彼が理解することはなかった。
なぜなら、彼が悩んでいることは、一朝一夕ではわかるはずもないことと、悩むべくものでもなく答えの出ないそれをいま抱えたとしても、浪費と体力のうばわれていくようなものだったからだ。
どうして、「そうならねばならないのか」、など、いってしまえば、神でも天でもない、彼が出そうとできるような答えはそこにはなく、それを願ったり、考えたり、悩んだとしても、彼の人生や生活が一変するようなことではなかった。
では、なぜ悩むのか。
それは、彼が人でありながら、何かしらの天界や宇宙の原理のようなものの一員であるはずだと想うことを、身をもって明かしたいというようなところからきているのかもしれない。
彼のそういった人生での、人としてまっすぐに歩めないところや、どうしても人でないものに対して興味が沸いてしまうようなところは、集団の中にいて、居心地の悪いものであり、彼に対しての周りの気遣いや、優しさをなかなか受け入れられなかった。
それほど、彼が抱えてきた幾何学的な悩みは、周りには理解しがたく、それならばいっそ哲学者や研究者にでもなればいいということもあったが、彼はその境遇になかったし、またその勇気すらなかった。
彼が今頭をかかえているのは、自分のいかなる思いや悩みが人にはわからず伝わらないことで、そんな自分を責めてしまうよりいっそ、変人にでもなろうかということだった。
そういった人でないものになることで、幾分か彼の心は軽さを帯びるのだ。けれど、人と会うことがだんだんに苦手になっていく自分や、人に自分のすべてを出せないことは、今の彼を最大に苦しめていた。自分らしくあろうとすることに、どれだけの労力がかかるのかを、他の人は知らない。それを難なくやってみせようと演じる自分にも疲れてしまうのだった。彼は、いま人を一切しりぞけ、自分だけの世界を築こうとしていた。けれど、それは、彼の孤独を大きくすることでもあり、また同じ苦しみを生み出すという予感を抱かせていた。
人が、人の世界で生きるときに、この悩みが尽きることがあるのだろうか。
今やっている自分のいかなるものが、重苦しく、耐え難く思われたときでも、これをまた明日に繰り返すことを想像しうるだに、むなしいことはなかった。彼によりそいし魂の本質も、彼のこういった悩みには、触れるそぶりもなく、どんどんもの悲しく侘しくなっていく自分のことも、苦手になっていくのだった。彼は、それほどになるまでに、自分の人生を深く考えていた。
けれど、これを人が理解できるようなことはなかったのだ。悩みはどこからくるのだろう。何もない、その平らな地においても、悩めしものはあとをたたないのではないだろうか。
それが、彼のいう無常の原理であったとして、夕べにいずるものは、それ相応の魂をもってして、いかなる暁となるだろうか。
彼が心の葛藤を繰り返し行きつく先の大きな智慧とやらは、彼を救うのだろうか。
彼の心が、人をうらやむことを忘れれば、行きつけるのだろうか。
彼はいつも、そうやってたくさんのことを考え悩みぬき、どうにもならなくなったところで、すっぱりと切り替える。
その跳ねっかえりのしなやかさは、年々弾みをますばかりだったが、彼の悩みや心の状態は、傍から見えればよくわからないことだった。
周りの人が彼が苦しそうだと感じたとしても、彼自身がどれほど宇宙につながろうと努力も悩みもしているかということを、他のものが察することはできなかった。
そして、そんな周りの者の目を彼は、凡人だと思って責めていた。
何故この苦しさがわからないんだろうと。
彼は周りの人が当たり前にやっているあらゆることをできない代わりに、自分は何かひとつを秀でてやるべきだということをわかっていなかった。
他と同じになろうとして、できない自分を責めることを続け、そんな自分を宇宙に祈るのだった。
彼が気付くとすれば、ただひとつ、彼自身が他とは違うことを認め、あらたに自分を癒し見出せる場所を見つけるしかないのだった。
彼の想う仕事や生き方も、他の何かになろうとするのではなく、自分をそこまで追い込まなければならないほどの、彼の気性や個性やかかわりや生きづらさをすべてカバーするくらいの、彼だけの門を開かねば成らないということだった。彼が他であろうとすることをやめなければ、あらゆる対人の悩みは尽きることがないだろう。けれど、その意識が自分ではなく人に目が向いているうちは、なかなか自分の本来の姿には気付けないものだ。
それがわかるとすれば、何か大きなきっかけが起こるしかないのではないのだろうか。
彼に生かせるものがあるとすれば、そのあらゆることを考える頭と、本質を見ようとする目、そして、そこから生み出される巧みで繊細な表現方法ではないだろうか。
それをどこで、どう使うかは、本人にもまだわからない。いや、本人に何かをすることは勇気がないのかもしれないが、それに気づいているものがいるとすれば、彼の妻のリディだろう。
彼女は、誰かであろうとする彼を、自分自身であり続けてほしいと、願わずにはいられなかった。苦しむ姿をみるたびに、彼が誰かであることをやめて、ありのままの自分を出せる場所をみつけてほしいと願わずにはいられないのだ。
人との関係も、仕事も彼には難しく、手に余るというより、彼にそれを円滑にしてゆく術と居場所がなかった。彼がいつも自分らしくいられる所じゃない場所にいられたのは、いままでありとあらゆることを本人が耐えてきたおかげだったといえよう。自分から遠ざかり自分以外の誰かになろうとし行き詰まり、彼は、いや彼の本質は大きく道の変換を余儀なくしたのだ。
彼を支えたあらゆる悩みや、対人で得る苦しみすら、そのすべてが代価となって、いま彼に報いろうとしている。彼はこのことに気付いていない。
誰か他人であろうとする、いままでの自分の意識で居続けるほど、代価となる道は険しく遠ざかるのかもしれない。
彼の精神はすでに、この世のすべてに限界をかんじていた。
彼を破綻させるものが、目にうつるあらゆるものであったとすれば、そこで彼の魂は生きていないことになる。
と、すれば、彼の生きづらさや悩みとは、答えそのものをだすことが大切なのではなく、彼の生きる道の変換を指し示すためのツールとして存在していたということになる。
彼が悩んでいる間も、他人には託せないものが、天から与えられている。
このことの意味を彼には、いまは理解できない。
〈二〉
彼は、日々の暮らしの中で、自然の中にいるときが、なんともいいがたい清涼な気持ちにさせた。
大工仕事や、その辺で行われる男がやることのいろんな仕事を彼は、意味のないものに感じられていた。暮らす上でかかせないものであるけれど、やっていることに喜びや意義を感じることはできなかった。決して傲慢だったわけではない。だが、彼は幼いころから自分の気持ちに正直だった。大人になって、無邪気さのはけ口がなくなると、子供でいることもできなくなり、無理に社会の通例にあわせようとして、いつも不機嫌になってしまうのだった。彼には自分のやりたいことはこれ以外にある、という不明確でも確固たる想いがあった。それがいまは、何か?と聞かれると、彼にもわからなかったが、毎日の仕事に対する喜びや、家についてからの晩酌の一杯も、彼の気持ちを潤すことはなかった。彼は、ときどき、家で、木工や縄などで、小さな細工をつくることがあった。それが、小さな戸棚だったり、かごになったりするのだが、そのマメな仕事をしているときの彼は一途に打ち込む少年のようだった。彼をみていて、リディは、その時間をほほえましく思うのだった。けれど、いいものができた後でも、すぐに彼はその形相を変えて、
「こんなものが、何の役に立つんだ。あ~明日の仕込みもしなきゃならん」
といって、また眉間にしわをよせて、不機嫌そうに、部屋をでていくのだった。リディは彼が満足していないことをわかっていたが、それを見るたびに、どうしようもできないことや、彼のいらだちにそっと手をあわせることしかできなかった。
彼のいる街には、鍛冶屋が3軒、鉄鋼が2軒、大工が3軒、板金屋が1軒あった。街の男は、それぞれ、そのどこかで仕事をするのが、定例となっており、小さいうちから父の姿をみて、ダイシジもまた、その中のどこかで働くのだと言い聞かされてきた。けれど、彼は、子供のときも、大人になってから鍛冶屋で働くようになってからも、仕事が楽しいと思ったことは一度もなく、そんなことで日々に満足するような簡単な脳みそももっていなかった。
いつもどこか、うらめしそうに、相手の出方をみたり、自分の言いたいことを飲み込む癖があった。それでもって、彼らに交わろうとはしなかった。人当たりもよく、丁寧で、話をきいたりもするが、いつも彼の心はここにいないような、満足していない姿があらわれていた。彼がここにいる、というときで言えば、小細工をつくったり、それに漆をぬったり、鍍金をつけて、一つ一つこまめにつくっているときくらいだったのだろう。彼もそれを作っているときは、集中していたりしたが、それだけでは食べていけないことや、この土方や大工職人の多い街で、実用的でない小細工を売っても、何になろうかという悲観が、彼に笑顔をもたらさなかった。そして、その悲観は、彼の創作意欲もうばってしまうときがあった。この街をでて、もっと暮らしやすいところに出て行けないだろうか、リディともそう話したが、実行できぬまま、何も積まれぬまま、日々がすぎてゆくのだった。きっと自分の生きづらさや、悩みは、街を出てもついてくるのではないだろうか。とそういったことも、彼をしばり付ける要因となっていた。彼がいかに自分を卑下してどう思おうが、天の采配というものは動いているということを、気づくことは出来なかった。
彼のつくる戸棚や、かごや、本入れなどは家に飾っているか、物置の隅にやられていることが多かった。彼が自分のつくったものを見たくなくなるときがあったからだ。どうせ、こんなものを作っても何にもならないという悲しい気持ちになるためだった。
きっと、もっと実用的で、大きな肘掛け椅子や、クローゼット、電話台とか作っていたら、買う人や人に見せることもできただろうに、自分のつくっているものは、何になるんだろうか。そんな気持ちがダイシジを小さくしていた。もっと人に喜ばれるものを作れたら、と思うだびに、リディは
「あなたの作るものは、実用的ではないかもしれないけれど、部屋に可愛さをもたらすわよ。飾っているだけで、この戸棚の中に、妖精が何かを入れにやってきそうな気がしてくるもの」
そんな風に彼を励ました。彼が何を作っても、それを彼女は受け入れてくれた。そして、信頼していたのだった。彼の作るものが、どんなものでも、ときに、本当は俺はこんなものをつくりたいのか?と彼自身が自問して嫌になるときも、創作は続けられていた。毎日ではないけれど、彼が気が向くとそれは続けられ、何もないときは、ただ物置のすみでぼんやりと過ごすこともあった。
夕暮れ時に、仕事帰りの男たちが立ち寄っていく酒場にも顔を出さず、街の人との付き合いもそこそこに、彼は自分の中にこもって創作を続けていた。
何をしたら、どうしたら、幸せはやってくるんだろう。俺は何をしているんだろう。
毎日のように、同じ問いかけがされていた。彼の心は寂しく、孤独で、明日も今日と同じ日を過ごすことや、また同じ想いを繰り返すことへのむなしさと悲しさでいっぱいだった。自分が幸せになるには?生きやすくなるためには?彼の悩みはいつも同じところをさまよった。
家族のことを考えると、さらに苦しさが増した。どうして、自分はこうなんだろう。他の男たちと同じように働いて汗水たらしていれば、そこそこの暮らしをリディにあげられる。けれど、俺の心はもうこの世界に限界を感じているんだ。世の中で生きることが辛くてたまらない。同じようなことをして、みんなと肩をならべて同じような日々をすごして、次の日もまた次の日も同じことをして生きるなんて、できない。こんなことをするために生きているんじゃない。俺にはもっと何か、あるはずなんだ。そんな想いが、彼をますます孤独にしていった。しかし彼はそれが、もう孤独かどうかすらもよくわかっていなかった。当り前になっていた。いつもと同じ思考がめぐるだけ。
そんなときに、彼は、夜の窓辺で、ウトウトしはじめていた。リディは街の会合のために、夜遅く帰ってくることになっていたから、家にはダイシジ一人で過ごしていた。
晩酌に飲んだ葡萄酒が聞いたのか、窓辺に座ってぼんやりとしていたら、ウトウトと寝入ってしまった。
〈三〉
すると、不思議なことが起こった。
窓一面に、白くまばゆい光がたちこめたかと思うと、そこから、真っ白いロープのような布に身を包んだきれいな女の人があらわれた。彼はその光の明るさに目をそばめながら、じっと見た。その人は、ふわふわと浮きながら、窓から入ってきたかと思うと、ダイシジの肩に、もっていたステッキのようなものをおき、こう告げた。
「ダイシジ、お前の持っている力を発揮させてほしいのです。わたしはそのためにやってきました。あなたが、どんなに迷うときにも、わたしは助けます。けれど、あなたも、それに報いなければ成りません。そのために、自分を偽らずに全うするのです。あなたはそのために、遣わされたのです。」
彼は口がきけずにいた。
「あなたの、つくる棚を妖精の国に進呈するのです。その数は、1000個。同じものを作りなさい。そして、本当に彼らが中に入ることを想定してつくりなさい。あなたがつくるものを、彼らにも送るのです。そして、いま、これが目覚めてから、すぐに取り掛かりなさい。」
そういうと、いつのまにか、女の人を包んでいた真っ白い光は消えうせて、あたりはもとの月明かりに戻されていた。
ダイシジは、目を開けると、なんだか、よくわからないけれど、言うとおりにしなきゃいけないような気がして、すぐに、納戸に材料を取りにいった。1000個ほどの戸棚を作れる材料はなかった。せいぜい2.3個しか作れない。蝶つがいや、鍍金もぜんぜん足りない。これを1000個も用意すると、すごい金と時間がかかってしまう。けれど、あの女の人が夢だなどとは思えなかったのだ。彼はどうにか、やらなければ、と決意した。まず、いま家にあるもので、つくってみることにした。
夜分遅くに、リディが帰ってくると、まだ納戸の電気がついていて、ダイシジが何かしていることがわかった。覗いてみると一心不乱に、何かを作っている。こういうときは、声をかけないのが一番だと想い、そのままベッドに入った。
翌朝、起きてみると、彼がベッドにいない。びっくりして納戸を見てみると、まだ彼が作っている。リディは、彼に声をかけると、彼はビクッとしたように振り向き、うん、とか曖昧な返事をして、また作業に戻った。彼は、その日、板金屋にでかけていき、大量の蝶つがいや、釘などを買ってもってきた。
リディは、どうしたのかと、聞くと、
「とにかく、やらなきゃいけないんだ。」
としか言わない。どう見ても、100個くらいある材料をみて、いくつ作るのかを聞くと、1000と答えた。ここには、まだ100個しかない。木の材料もぜんぜん足りない。なんとかしなければ、と。しかし、それらの材料を1000個も買うとなると、この街では、限られているし、そんなに大量においているところなんてない。そして、お金もかかってしまう。ダイシジは、懇意にしてもらっている大工職人に、余り木をわけてもらったりしていたが、同じものをつくるとなるとそうもいかないので、お金を払うから、なんとか1000個つくれるだけのパーツを集めてくれないだろうかとお願いした。その人もびっくりしていたが、訳はとくに聞かずに、なんとかできるか手配してみるよ、と言った。しかし、お金は、500ブール、かもしくは1000ブールそれ以上になるかもしれないとだけ言った。ダイシジは、予想はしていたけれど、そんなに高いとは、びっくりし、困り果てて、リディに相談することにした。
お金の相談など、したことがない。彼女はどう思うだろうか。続いて、板金屋などを回り、蝶つがいなどの他のパーツなども、お願いした。1000個買うととなると、向こうも驚くが、そのお金も相当なものだった。とても、給料のあまった部分や、小遣いで買えるようなものではなかった。そして、それは、ゆうに、一月の給料の3倍にも上った。そして、これらを多量に注文した、ダイシジの話は、すぐに、街中に広まったのだった。何より人の中にいることや、集まりや、会話の端にでも自分の名前が上ることを嫌うダイシジだったが、無力にも、街中に名を広めてしまうことになってしまった。それまで、彼を知らなかった人も、興味の対象として注目するようになってしまった。仕事場にいっても、鍛冶屋の息子のテディが、嫌みったらしく、そんなに買って何をするんだ?などと聞いてきた。彼にとっては、人に干渉されたり、自分のしていることを他人に知られたりすることが大嫌いだったが、他の人は知りたくてたまらなかった。いつもおとなしい彼が話題に上ることが珍しかったのだ。
帰ると、リディは神妙な面持ちで出迎えた。すでに、リディの耳にもうわさが入ってきていたのだ。彼が直接彼女に話をする前に、他人を通して知ることになった。彼女はそのふがいなさや、悔しさで、表情が沈んでいた。何故、一番にわたしに相談してくれなかったんだろう。
彼は、そんな彼女をみてすぐに、謝った。
「リディ、きみも、何か聞いたかもしれないけれど、あらためて、話があるんだ。聞いてほしい」
リディは、ツンとしていた。情けない、他の人が話していたことをすでに聞いているのに、それに上塗りにして、また同じ話を聞かされたところで、なんになるんだろう。腹立ちはおさまらない。
「リディ、きみも知ってのとおり、俺は、木工や、パーツを1000個、街で購入したいと思っているんだ。今日、注文してきたが、すごいお金がかかってしまう。それをきみに相談したくて。たぶん、いまもらっているお給料の3ヵ月はなくなってしまうだろう。たくわえを持っても、厳しい生活になると思う、きみは、承知してくれるだろうか」
リディは、大きなため息をついて、情けなく思った。彼女の悔しさは、お金がなくなるからではなく、彼がやろうとしていることの一番の応援者だと思っていたのに、彼はそんな彼女のことをちっともわかっていなかったことだ。お金の心配なら、自分も働きながら、なんとか助けることができるだろう。けれど、何をやろうとしているのかも、その訳も知らされないで、応援などできなかった。
彼にそのことを言うと、
「人に、どう話していいのか、わからないんだ。どうしたって、信じてもらえないと思うから。けど、いままでも、自分のことを話して、そうかといって、わかってもらえたことがあるだろうか、と怖くなる。もしきみにまで、拒絶されたらと怖くなるんだよ。何も言わずに、信じてくれるかい?」
そういうと、彼は夜に女神のような女の人に会ったことを話した。そして、なぜ1000個つくらなきゃならないかなど、理由はわからないが、どうしてもやらなきゃと言った。リディは、黙って、いなくなると、しばらくして帰ってきて、手を握った。
「あなた一人じゃ、難しいでしょ。わたしにも、手伝わせて」
そういうと、黙って彼の持ってきた、パーツやらを組み立て始めた。
〈四〉
それから、二人は、毎日一緒に戸棚を作り始めた。
材料もそろい、組み立てができていき、一つ一つ完成するのをみて、喜びを分かち合った。初めて、二人で作業する喜びだった。
同じものを作っていくことの嬉しさ、そして、なぜだかダイシジに孤独感はなくなっていた。
街の人たちはダイシジやリディに会えば、必ず1000個のわけを聞いてきた。何をつくるの?と家にまで来ようとした人もいるけれど、リディも彼もそれをはねのけ、黙々と作り始めた。
しかし、ひとつを作るのに、4.5日くらいかかるものを1000個となると、程遠い歳月が必要だった。街の人たちは、彼らが何を作っているのかが知りたくて仕方なかった。
ダイシジに、はじめは冗談をいって聞きだそうとしていた、鍛冶屋の息子のテディや先輩職人たちも、彼が口を割らずに毎日定時であがり、家に帰って黙々と何かをしている姿を黙って見守るようになった。彼は、懇意にしてくれた大工職人だけには、戸棚をつくっているとだけ話した。そして、そのサイズにあったような、木をみつけてくれるようにと頼んでいた。
そして、歳月はめぐり、戸棚を作っているらしいということが、どこかからか、もれ、街中に広まると、またもや、いわれのない人たちからのやっかみや、なんになるんだという言葉も聞かれ、鍛冶屋の人たちも、ここぞとばかりに、今度もってこいよ、飾ってやるよなんていうようになった。
そして、彼の一番嫌いなそういった注目や人の干渉も、だんだん彼を居心地の悪いものにしていったが、それでも、仕事を辞めるわけにも行かなかった。
なんとか、1000個、という想いだけでつくっていたけれど、半分を超えたあたりになったときに、彼の張り詰めていた糸がふと、乱れた。
「本当に、これがなんになるんだろう。妖精の国なんて、俺は夢でみただけで、そんなものありもしない、幻覚のようなものに踊らされて、おれは1000個なんて作っているんじゃないんだろうか。みんなが街中でうわさしている。そして、これができあがったときに、おれはどうしたらいいんだろう。あの女神が現れなかったら、この戸棚は使いものにならないだけじゃなく、いい笑いものになってしまう。そしたら、この街にももういられないな。俺は、結局自分をまた苦しめて、こうしてこれだと思えるものがみつかったとしても、また振られてしまうんじゃないんだろうか。」
彼の手は止まっていた。ずっと、休みなく、工具をもち、やすりをかけてきた彼の手がいま止まってしまっていたのだ。
リディは、彼の気持ちがよくわかった。
やっとの思いで、街で仕事している彼の生きづらい不器用な性格に加えて、毎晩休みなく作業していた疲労もたまっていたのだ。これが、本当に彼の夢だったのなら、自分も、彼をどうなぐさめていいかわからない。そして、彼がこれをどうしていいかわからないというのも、自分にもわからなかった。自分も彼と同じように、笑いものになってしまうだろうし、いまですら街に行くと、話の種のために浮いた存在になっている。
「そのときは、街をでましょう。もし、これがなんにも、ならないものになったとしても。そのときは、どこか住みやすい土地をみつけて、またそこで暮らしましょう。きっと、これを買ってくれる人がいる土地があるわよ。」
ダイシジは、うなづいて見せたが、表情は晴れなかった。いまここで、投げ出すわけにもいかないけれど、疑問や疑心もぬぐえない。そして、こういうとき、また自分まで疑うことを覚えてしまうのだった。どうして俺は。何をしているんだろう。
そして、674個目をつくり終えたときに、あることは起きた。
ふいにドアにノックの音がして、扉がひらいた。
納屋で作業している二人には、家にやってきた、鍛冶屋の息子が呼ぶ声が聞こえなかったのだ。
テディは、彼の勤務の予定表と頼まれていた部品を持ってくる口実で、何を作っているか覗いてやろうという安易な気持ちでやってきたのだった。けれど、呼んでも誰もでてこないので、おかしいと想い、納戸に明かりがついているのを見て、半信半疑で、ドアを開けた。
二人は一心不乱に作業をしていたため、ノックの音を聞き漏らしたが、ドアを開ける音で気付いた。
ダイシジは、そこに、あのやっかみのテディがいたので、一番見てもらいたくないやつに見つかったような気持ちがして、身体がこわばった。
自分の縄張りに勝手に入られたような気持ちの悪さと、土足で踏み込まれたような悔しさとが、混ざって両者だまったまま見据えてた。
テディは、小さな戸棚が敷き詰める中に呆然としている二人を驚愕の顔で見据えると、勤務表と部品を入り口の小さなテーブルに置き黙って出て行った。
テディの足音が去ると、窓から彼の姿が遠ざかるところまで見る気にもなれなかった。
〈五〉
もう、終わりだ。何もかも。
俺はきっと、街中の笑いものになる。
そして、誰もがやってきて、家に入りあれこれ言ってくるんだ。
そう思うと、暗い気持ちになった。リディもそんな彼を見て、声をかけられなかった。
なんて、声をかけていいんだか。同じ心境だった。もう街に隠し通せない。孤城の中にいるような不安な気持ちになった。ダイシジは、明日仕事場で会うテディのことを考えて、気が滅入った。
もう終わりだ、明日、鍛冶屋に辞表を出そう。
仕事をやめよう。
そして、ここで、1000個作ったら、この街を離れよう。そう自分に言い聞かせて、ベッドに入った。
よく朝、気が重いまま朝ご飯もとらずに、鍛冶屋へ出かけると、不思議なことが起こっていた。ダイシジを見て、こそこそと笑っていたものたちが、自然と彼に優しく話しかけたりしてきた。
テディも、嫌味のひとつでも言うかと思ったら、彼に、そんなそぶりを見せずに、優しく接した。
そして、戸棚のことは誰もふれなかった。
不思議な一日をすごした後に、帰るときになって、テディが、
「もし、休みを変わってもらいたい日があれば、いつでもいってくれ」
とだけ言ってきた。
ダイシジは、辞めると言い出せないまま、そのまま家路についた。
その頃、リディも、街で不思議なことが起こっていた。絹物屋のおかみが、リディを見ると呼び止め、
「お前さんの亭主のこと、聞いたよ。何か手助けできるようなことがあったら、いつでも言っておくれね」
といって、オレンジをくれた。リディはよくわからないまま、いつもと様子が違う街をみて、気持ち悪さを隠せなかった。
みんなどうして、そんな風にしてくれるんだろう。
家につくと、ダイシジとリディは、その日あったことを話すと、そのまま戸棚作りに取り掛かった。
そんなことを言っても、街がどうだったとしても、自分たちがやることは、これしかないのだ。
扉にガラスをはめ込み、金具でとめ、それをやすりですって、形や向きを整えていった。そして、終ると、ニスを塗る。そんな風につくる戸棚は、好きで作っていたころとは、すでに違っていた。
以前は、暇さえあれば、いじってみたりしていたものだったが、いまや、好きや出し惜しみするようには、作られていなかった。まったく同じになるように、1000個作らねばならない。
それは、好きとは違っていた。初めて、何かをやらなければいけないと、自分からやっていることだった。
リディも、なぜ自分までこんなことをしているかなどわからなかった。
なぜ、彼の仕事を手伝っているのだろう。仕事じゃない、これは、できたところで、買い手さえいない作品なのだ。
お金など入ってこない、そして、これが終ったところで、何がどうなるかもわからないものなのだった。
900個目に取り掛かっていた頃、街の人たちが、会えば声をかけてくれたり、食べ物をくれたりと何かと気にかけてくれるようになっていた。
鍛冶屋では、先輩の職人がダイシジの代わりにと、その日残業になりそうなものを変わるがわるやってくれたり、たまに何かと、食べ物を分けてくれたりした。
もはや、ダイシジを見て、バカにしたり皮肉を言うようなものは一人もいなくなっていた。
ダイシジは思っていた。
なぜ、こんな不思議なことが起こるのだろう。
今までなら、こんな風に周りが声をかけてくれることもなかった。ましてや、誰ともかかわりたくない俺は、誰とも話したくなかったし、自分のことを知られることも恐れていた。今は、俺のやってることのために、みんなが助けてくれているように思う。
リディだって、そうだ。あいつは、いつだって、俺のことを応援してくれたけれど、俺はそんなリディの気持ちをずっと無視してきた。俺がやりたいことが、みんなに理解されるはずがないと、誰にも心を閉ざしていた。俺は、ずっと、孤独だった。誰かが手を差し伸べていたとしても、俺にはそれが見えなかった。
リディがずっと側にいるのに、俺にはそれすらも見えていなかったのかもしれない。今、食べ物をくれたり、声をかけてくれる人たちも、前からいたのだろうか。俺を応援して、力をくれている人が、もしかしてずっといたのだろうか。
ダイシジは、涙がこみ上げてきた。
俺はそれに気づかないだけだったのだろうか。気づけば、リディにこの訳のわからないだろう依頼の手伝いをさせてしまっている。これができたところで、何になるかわからないこともわかっていて、もしかしたら、街を離れていかなきゃいけないかもしれないのに、リディは何もいわずに手伝ってくれている。
街の人たちだって、鍛冶屋の連中だってそうさ。これが何になるかなんて、本当のところ誰にもわからないのさ。それなのに、なぜか俺を応援しようとしてくれている。俺にだって、わからないものを。
俺がやろうとしていることは、俺にだってわからないんだ。
ダイシジは、周りの人たちの温かさに応えようとする代わりに、この戸棚の1000個をつくるために、自分だけじゃなく何か一つの大きなレールの上にみんなでいるような気がしてきていた。
けれど
「まさかな、そんなはずない。」
そうつぶやいた。
しかし、930個目を終えたあたりから、だんだんと1000個できあがった後のことを思うようになった。今までは、何があっても、どんなことを誰に言われたとしても、どんなときでも、俺はこれをやらなきゃならないんだ、と打ち込んでいればそれだけでがんばれた。
1000個の道のりはそれだけ遠く、すぐには来るはずがないゴールのようなものだったから。
大きな何かに必死につかまっていれば、不安定になってしまう自分の気持ちを見失わないですんだ。
けれど、いざ1000個に近づくにつれて、違った恐怖が出てきた。
これを作り終えてしまったとき、どうなるのだろう。
それは、あの女の人が戸棚を受け取りに現れるか現れないかということじゃなく、俺がこの先、つかまっておくものがなくなってしまうという恐れだった。
苦手な人付き合いや、街での暮らしや、自分の中にある悩みのことも、この戸棚を作っているときは、忘れられたのだ。
そして、これを1000個作り始めてから、周りのいろんなことが変わっていき、全部作り終えたとしても、いままでの俺じゃいられなくなるだろう。
戸棚を作る前の俺は、人に合わせて、自分のことを何も出せなくて、苦しかったあの頃にもどってしまうのだろうかという、不安が出てきた。
そんな様子を、リディがそっと横から眺めていた。二人で、こうして作業をしていると、ときどきダイシジが苦しそうに顔をしかめることを、リディは見ていた。
その内容はわからなかったとしても、リディにも、また不安が生まれていた。
これを作り終えてしまったときのことだ。
いままでは、二人でなんとかいろいろ切り抜けて、これをつくるために一心にやってきた。ダイシジも、このために多くの時間を費やしてきた。
これが、なくなってしまったら、1000個作り終えてしまったら、彼は抜け殻のようになってしまうのではないか。これを作っても作らなくても、ダイシジは、街での暮らしや仕事が自分に合っていないと感じていたはずだった。
鍛冶屋の人たちも、彼をいまでは好意にしてくれているといっても、彼の方が、もう街での暮らしや自分を偽って人の中で暮らすことに、苦しさを感じているのだ。
これは、1000個つくるという一種のイベントだ。
お祭りのように、にぎわっているうちは、どんなことでも耐えられるけれど、これが終わってしまったら、どうなるのだろう。また、もとの生活に戻ることを、彼は自分に許さないだろう。
もし女神が来なかったら、どこかの街へ引っ越そうと、言ったけれど女神がきても来なくても、わたしたちは、街を出たほうがいいのではないだろうか。彼が生きられる場所を探すほうがいいのではないだろうか。
リディも不安な面持ちで、戸棚を作っていた。
ダイシジは、リディのそんな姿を見ながらも、何もいってやれなかった。もし、この戸棚が何もならない屑になってしまったら、とヤケクソな気持ちになったりもした。
945個目、二人の不安はだんだんと膨れだしていた。それぞれが、思うことを口に出さなかったが、なんとなくダイシジもリディもわかるものだった。
「ちくしょう、ここにきて、だんだんとむかついてきたぜ。なんで俺はこんなことしなきゃなんないんだ。」
ダイシジは見えないものに対してのイライラが出始めてきた。今までは、1000個の戸棚を妖精のためにと、半ばおとぎの国の出来事のように感じていた。
けれど、ここにきて、ゴールが見え出すと、だんだん現実が彼に迫ってきていた。
俺は、なんのためにこんなことしているんだろう。
「これを作ったところで、何になるんだろう。
俺は、誰にも認められていない、人の中で生きていけやしない、ちっぽけなやつなんだ。なのに、ちょっとみんなによくされたからって、調子に乗っていた自分に腹が立ってくる。俺は、所詮、こんなところで、街の連中の何かになって生きることができないんだ。」
誰にだって、今までだって、自分のことが理解されて、認められる場所なんてなかったじゃないか。
それなのに、これが、全部できちまったら俺はどうなる?
みんなに妖精の話でもするか?
それは、気違い沙汰だな。また、いや今度こそ笑いものになっちまう。リディだって、こんなに黙って手伝ってくれているけれど、俺のことをどう思っているかわからないもんだ。
1000個作り終えたら、旅にでもでるか。俺のことを誰も知らない場所に旅にでも出てみるか。
ダイシジは、だんだんと、戸棚を作ることにやる気をなくしていった。
そして、950個目を過ぎたあたりから、だんだん手が止まりだして、966個目を作りかけながら、完全に手が止まってしまった。
ダイシジは、自分がもう何かの限界に来ていると感じていた。
戸棚作りは、一人でやっていたころは楽しかった。けれど、この戸棚は違う。
自分が戸棚を作る意味を見失ってしまったのだ。
女神が現れて、1000個作るようにといったから、今まで作っていたけれど、今のダイシジには、それすらももう吐き気がするように思えた。
もう、人が言ったことで自分がやるのは、嫌だった。
今のダイシジなら、女の人が現れて、1000個戸棚作るようにと言ったとしても、
即座に、嫌だと言っただろう。
誰かがやれと言った事で、自分がやるのはもう嫌なのだ。
自分の意思ではない。
俺が妖精のために1000個作ろうと思い立ったのなら、できる。
けれど、今の俺は、もう自分と他者の間で自分を出せないままバランスよく過ごそうとすることに限界を感じている。
自分はいつも人の中で余分に感じてしまうため集団が居づらかったり、そのことを人に言えないで、黙々と下を向いて生きて来た。
もう人の中で、自分を何も感じない鈍感な奴のふりをしたり、別の何かにならないと人とうまくやっていけないと思っていたこと、それに思い悩むことすべてが限界だ。
〈六〉
「1000個作るのは、無理だ」
口から声が出た。
リディは、手が止まったダイシジを見て、黙っていた。
ダイシジも、リディを見た。
結い上げている髪が、ちらほら垂れ下がり、疲れた顔をしている。ほとんど、ゆっくり食事したり休んだりする間もなく、作業していたのだ。
よく見ると、口の端に、しわができていた。いつも側にいたけれど、リディの顔をちゃんとみるのは初めてのような気がした。
口元にあるしわを見て、初めてリディを見た。
リディは、フッと笑うとまた手元の作業をはじめた。リディは、悲しさとあきらめと、怒りと、苦しさが入り混じった不思議な気持ちだった。
けれど、心は張り詰めていたものが、なくなったように静かだった。
ダイシジはやりきれなくなった。
「もうやめよう。」
ダイシジは、ふらふら立ち上がると、納戸を出て行った。
外には、星空が広がっていた。
ダイシジの悩みは、誰かの悩みだった。
「俺は生きている意味があるのだろうか。
俺には何の価値があるのだろう。」
いつも、そんなことを思いながら、生きてきた。
戸棚を作り始めた頃、たとえ実用的でなくても、人にお金をもらえるようなものじゃなくても、自分の心を満たしてくれればいいと思った。
けれど、作っていくうちに、俺の作るものにどんな価値があるのだろうと思うようになった。
それは、人に認められるかどうかということでもあった。
人の中にいるという苦手なことをやめる代償として、自分の中にこもって作り続けるものに、いったいどんな価値があるのだろう。人知れず、黙って息をしている自分が作るものに何かしらの価値があるはずだ、という気持ちでもあった。
俺は、口が達者じゃない分、きっとこういう小さな手先の力を与えられたんだ。苦手なことをしても自分は認められないのだから、こういうことでも認められなくては自分にどんな価値があるのかわからなくなってしまう。
ダイシジは、誰かに認められたかった。
自分の作るものたちが、誰かに認められれば自分が認められるのと同じことだと思った。
どうして、こういうもの細かいものを作る才が与えられているかはわからなかったし、本当はもっと実用的なものを作る力なら、すぐにでもお金も名声も手に入るように思えて、恨めしくも思ったりした。
そうやってダイシジの中でどんなに葛藤しようとも、創作を続けることは終われなかった。
世に出ることのない作品と思いつつも、ずっと作り続けてきた。
だから、女の人が現れたとき、自分の細工作りの力が必要とされたことが嬉しかった。
誰かに認められた、と思えた。
俺の力が必要なら、とすぐにとりかかった。妖精なんて、バカげているかもしれないが、俺には救いの手だったのだ。
自分で作っていたときも、そうだったが、これが何のためになるのだろうという気持ちがいつもしていた。
お金をもらえることでもない、誰かが買いにくるものでもない。ましてや、誰にも頼まれていないものを、せっせと作り続けている。いわば、自分が自分で眺めるためのものばかりだった。むなしくなるときも、たくさんあった。
そして、そんなときは自分を疑って、自分が持っていて人が知りえない力を否定してみたりした。
誰も、ダイシジが、小さな戸棚を作れるよな器用で、繊細な感性をしていることを知らないのだ。
だから、一人で納戸にいるときは、急に怖くなったりしたものだ。
けれど、自分がやりつづけていることや、やろうとしていることの正体をその時点ではっきりとわかる者は、どれほどいるのだろうか。
自分に与えられた人にはない力を、拒絶しつつも付き合っていく上で、その力を用いてやっていることの本当の意味は、本人にもわからないのではないだろうか。
ダイシジは、自分がなぜこういう戸棚を作っているかの意味を知りたかった。
自分は、なんのために生まれてこの街でこうして、生きづらさを抱えながら生きているのだろう。自分の持って生まれた繊細な感性の意味よりも、生きづらくても人の世に身を置いている自分自身の魂の、それの本当の意味を知りたかった。
きっとどこの街にいっても、俺の抱える問題は変わらないだろう。
人の中でうまくやることにいつも悩みながら、それが自分の持つ繊細な感性ゆえに起こる悩みだということも、ダイシジはだんだんにわかってきた。
けれど、そこまでわかっていても、人とは違う個性を出して堂々と生きられるほど強くもなく、勇気もなかった。そこには、いつも、自分の作るものに対する自信のなさと、みなと同じようにありたいという劣等感があった。社交的なふりも、付き合いや、誰かになろうとして、自分でないもののふりをして生きてきたけれど、それももう疲れてしまった。
俺は、俺でありたい。
そして、何になるかわからなくても、作り続けたい、と思った。
俺の本当の力を、自分が一番わかってやろう。
なぜなら、俺がいま何をしようとしているかは、俺にもわからないことなのだから。
そう思えてきた。
空には、満天の星空が広がっていた。どれも、輝いて光っている。
自分を疑うことは、きりがないけれど、この世にたった一人の自分として生きている意味があるはずだ。
誰かになるよりも、周りに合わせて自分を抑えた生き方をするより、たった一人の自分としてありたい。
真摯に向き合えばこそ、応えてくれるものがあるはずだ。それは、人でも、作品でも、自分の心でも。
ダイシジは、戸棚を1000個つくることが怖くなくなった。
何かのために作るのではなく、今は、自分が自分を生きるために必要な道の上に、この1000個の戸棚があるように思えてきた。
そして、これを作っても、作らなくても、俺は俺なんだ。
納戸に戻ると、リディが顔をあげて出迎えた。リディの笑顔に励まされるような気がした。
しかし、そのあとリディは顔が少し曇ったかと思うと、急に倒れこんでしまった。
驚いて、近寄るとリディは苦しそうにしながら、
「あなた、ごめんなさいね」
と言ったきり、意識を失ってしまった。
家のベッドへ連れて行ったが、リディの様子は変わらなかった。
そのまま、意識が戻らないまま、リディは眠り続けた。ずっと休んでいなかったし、そんなリディを気づかってやれなかった自分をダイシジは責めた。
作業をそのまま休み、リディの側についていた。
呼んだ医者は、黙って首をふり、
「あとは、奥さんの生きる力にかかっている。」
といった。
ダイシジは、はじめて、リディを失うかもしれないことに気づいた。
そして、それが、どんな恐ろしいことかも、はじめてわかった。自分の足元から、地面が崩れてゆくような恐ろしさだった。
俺を残していかないでくれ。
〈七〉
「リディ」
側のこしかけに座りながら、リディの名を呼び続けた。
自分も決して、大丈夫な身体ではなかった。睡眠不足と、十分休んでおらず、ちゃんと食事もしていない身体だったので、フラフラだった。けれど、いまはリディのことが一番心配だった。
このまま目を覚まさなかったら、俺はどうしたらいいんだろう。作業の手をとめたまま、戸棚を作る気になれなかった。ずっとリディの側についていたいと思っていた。
そして、リディが倒れてから4日が経ったころ、リディの顔を見ながら、自分もウトウトしはじめた。
腰掛けに座りながら、ベッドの上で寝てしまった。
すると、不思議な夢を見た。
リディが、とても綺麗な景色の場所に、立っていた。まるで、月明かりに照らされた草原のような場所だった。大きな月を背にして、リディが花を摘んでいた。
そして、ダイシジに気づくと、こちらに手をふってよこした。
ダイシジは、リディがもう大丈夫そうだということに、嬉しくなって、かけよった。リディは、真っ白でかわいらしい雛菊の花をたくさん摘んでいた。
そしてその花を見ながら、ふふふと笑った。
ダイシジは、その笑顔を見てもっと嬉しくなった。
元気そうな、リディ。
それから、この場所は、どこだろうと思った。来たことがない場所だった。
草原と思っていたけれど、月がとても大きくて、大地と思っていたけれど、足元は何かでこぼこの岩のような気がした。
ここは、どこだろう。
ダイシジは、あたりを見回したが、月明かりに照らされた場所が広がるだけで、よくわからなかった。
リディは、嬉しそうに花を摘んでいる。
そして、つみ終えた花をこちらに手渡した。ダイシジが、喜んで受け取ると、リディは、月の方を向いた。
広い岩山が並んで、月の明かりに照らされている。
リディは、言った。
「あなた、こんなところにいる暇はないのよ。」
ダイシジは、言った。
「きみを向かえに来たんだよ。きみがずっと眠ったままだったから、俺はずっと君を待ってたんだよ」
リディは、笑ったが、目は真剣な顔になった。
「あなたには、やることがあるでしょう。」
ダイシジは、やることの、意味をわかっていたが、いまはリディが大事だと言った。
すると、無邪気そうに笑っていたリディは、少し悲しい顔をした。
「あなたがやろうとしていることは、あなただけのことではないのよ。」
「どういう意味だい?」
リディは、背に大きな月の光をうけたまま、続けた。
「あなたには、とても大きな力があるのよ。それにあなた自身が気づかなくて、自分を押さえ込んでいただけなのよ」
ダイシジは、驚いた。
「それは、わかったんだよ。ついこの間、そのことを考えてたんだよ。自分の生き方をしよう、自分の力を使って、戸棚をつくろうって」
リディは、それには応えずに、続けた。
「あなたには、自分がやることの一部しか見えていないのよ。
そこにあるものが、すべてを映し出すことがないように、あなたにも、あなたの全貌が見えていないだけなの。今、1000個の戸棚を作っていることが自分の大事な仕事と思うかもしれないけれど、あなたの本当の仕事は1000個の戸棚を作ることではないの。あなたは、その戸棚の中に入れる妖精を思い浮かべながら作っていたでしょ・。そんなあなたの作っているものは尊いものなの。
それが、できあがったときに、どうなるかわかるでしょう。
あなたの感性が映し出すものを、あなたは知らないだけなのです。
いま、まずあなたに与えられていることをしてください。それが、どんなときであっても、自分の何をも疑うことのないようにしてください。あなたが、鍛冶屋で働くときも、食事をするときも、あなたは自分の感じるすべてのすることを受け入れてください。
それをもし、忘れるようなときは、見失っているだけなのですから。どんなときも、あなたは、自分の何もかもを、信じていてください。今なぜそうするのかは、今のあなたに、わからないだけなのですから。」
ダイシジは、言った。
「では、なぜ自分にもわからないことの中に、自分の生きづらさや、苦しさ、悩みというものの答えがあるのだろう。
自分がやろうとしたり、やっていることが、自分を悩ませ、生きづらくさせているのは、なぜなんだ。この悩みの答えを天か誰かがわかっているなら、苦しいときや、どんなときでも、自分は大丈夫だと、安心できる証をなぜ、残してくれないのだろう」
ダイシジは、すでにいつものリディと話しているのではないと思ったが、かまわずに、
それを受け入れた。
リディは、言った
「あなたの中の焦りが、いまある自分を追い詰めることをしているのです。
それは、すなわち、自分を信頼できず、疑うことから起こるのです。
ダイシジ、自分を疑う限り、永遠にあなたは悩みから逃れられず、自分を知ることもできませんよ。あなたが、作るもののすべてを知ることはできないのです。」
「では、どうして、疑ってしまうほど自分のことがわからないのだろう。わかるなら、誰も自分を疑わないのに」
「疑わないために、自分を知るのではないのです。
あなたであるために、あなたを知るのです。」
リディは、背にした月の光に浮かび上がった。
ダイシジは、
「では、わたしの作るものが偉大だとか、やることが大きなことだとしたら、そう信じられる証拠をみせてほしい。
いま、わたしの作るものが誰かに認めれていたり、誰かのためになるようなものか、わからない。
わたしが、本当に何か人のために力をもったものだというのなら、誰にでもわかるようにその証をみせてください。」
リディは、さらに空へと浮かび上がった。
「ダイシジ、あなたはすでにたくさんのことをやっています。
そしてそのどれを持ってしても、偉大なことなのですよ。」
「わたしには、偉大なことをした記憶がありません。黙って一人で作っていたときも何もやっていないようにすら思えます」
「では、あなたにとって、偉大とはどういうことですか」
彼女が聞いた。
「偉大な人というのは、歴史に名を残したり、誰かをたくさん助けていたり、誰かのためになるような人で、世界を救うような人のことだと思う。」
ダイシジは、想うまま話した。
リディは、少し考えているようだった。
それから、
「ダイシジ、あなたの言っているのは、ただの人です。
すべての人がそうある必要はないのです。あなたの持っている偉大さは、もっと別のものなのです。
あなたは常に、人ではないものへ感謝していませんか。それが、目に見えて、人へ伝えられることでなかったとしても、あなたが行っている偉大なことに比べれば人が行うことの何かは、特別に思わなくてもいいのです。」
ダイシジは、大声で言った。
「だから、わたしはその偉大さがわからないのです。自分の力がどんなものなのかを知りたいのです。なぜ自分がここで生きているかをしりたいのです。教えてほしい!」
すると、リディは、また少しだまった。
「あなたが、今すばらしいのは、この瞬間を生きているということです。あなたが、やろうとしていることは、わたしたちにもわからない。
それだけ今が、偉大だということなのです。
あなたは、その今、を生きているのです。」
ダイシジはわからなかった。リディのいっていることは、難しく思えた。
「では、今わたしがやるべきことはなんでしょうか。」
リディは、少し微笑んで、
「あなたが、本来の自分を生きることですよ。」
「それは、どうしたらいいのでしょうか。」
ダイシジは聞いた。
リディは、ゆっくりと優しく、
「あなたが喜ぶことをするのです。」
〈八〉
リディは、ふっと笑ったかとおもうと、やがて大きな青い月にとけこむようと身体がふわっと浮いていった。
ダイシジは、大きな月とその青白い景色の山々に映る月の光をみながら、リディの姿をしたものを黙って見上げていた。そのまま、景色に溶け込むように、リディの体が薄くなっていくのをみながら、ダイシジもしだいに目が覚めていった。
目を覚ますと、大きな月はなく、リディのベッドにもたれながら眠っていたことに気づいた。ダイシジは、黙って起き上がると、何か大きなものに憑かれたかのように、窓の外を見た。
夜の青白い光の中に、月が浮かび上がっている。さっきまで、とりみだしていた気持ちは、うそのようになくなっていた。リディなるものと話したせいかもしれない。
自分が、他の何者でもないということ、自分にしかできない何かをやるために今があること、それらを考えや思考でなんとなくわかってはいても、大きな何かが欠けていた。
それを今、大きな手で後押しされたかのようだった。
「自分にやること、自分が喜ぶことをすること」
ダイシジは、作品作りをしてから、はじめてふっと息をついて、夜風を眺めていたかもしれない。いままで、リディと二人で何かに追い立てられるように戸棚を作っていたため、こうしてリディの眠っている側で、一人で夜の空気を味わう時間などなかった。
リディは、黙って眠っている。
顔は、倒れたころに比べたら、少し血色がいいように思えた。ダイシジは、そんなリディを見ながら、夢であったリディとの話や、自分のことをぼんやりと振り返っていた。
久しぶりに、キセルに火をつけた。どのくらいぶりだろう。自分の時間をもったこと。それが、一人になるということなら、いままで何度もあったけれど、こうして何も心にひっかかることのない曇りない今晩の夜空のような気持ちで、時間を味わうということ。
おおよその大体の時間を自分は、人のために使ってきた。一人でいるのに、いつも人のことを気になって、落ち着かなかった。自分はなんてちっぽけで、役立たずで、何にもできない臆病な者なのだろうと。そしてその気持ちが、人へのねたみや、嫉妬になっていた。
誰からも認められないと思えばこそ、自分を嫌い、せきたてて過ごしていたかもしれない。
空虚な時間をすごしていた。
周りと自分との調和が保てずに、自分が一番やりたくないことに目をむけて、それ以外のことには目をつむっていたのかもしれない。
リディは、いつもそんな自分と共にいてくれた。夢であったリディが、何者であったかはわからないけれど、リディの姿をして自分に言い聞かせてくれたことは、信じることができる。
ダイシジは、キセルの煙が、のびやかに少し冷たい夜の空気にとけていくのを、黙ってみているうちに、だんだんに何か自分にまとわりついていた黒い煙のようなものも解き放たれてゆく気持ちがしてきた。
ダイシジは、煙をみつめながら、その向こうで光る星たちに目をむけた。自分の中の静かな波のようなさざめきを聞くことにも似ていた。
やがて、そのあとに何かはっきりその静けさから浮かびあがろうとしているものを感じながら、煙をながめていた。
心に温かいものが、わいていた。それは、はじめ、小さなまるいものだったけれど、ダイシジの心をだんだんと包んでいく何かに変わってゆくようだった。
静かな夜に、ダイシジの中に灯るたしかな温かさだった。
「おれの喜びをつくりあげよう」
何かにせきたてられるように作っていた気持ちとはちがっていた。
そして、それが、人や何かに認められるために作るものとも違っていた。プライドや、何か心をかけて作ることとも違う。ただ純粋に、ダイシジが作りたいという、自分から沸いてくる喜びだけで発動している確かな衝動だった。
あの女神のような人が、戸棚をとりに現れなくても、ダイシジの心が曲がるようなことはない確かさだった。
ダイシジは、自分の喜びを選ぶことを知ったのだった。
納戸で続けられる作業を街の人たちも、夜な夜な光っているダイシジの家の明かりで気づいていた。ダイシジの姿を街で見かけるものもそのころには、あまりいなくなっていた。
彼が、ほとんど夜通し作業をし、その傍ら倒れたリディの側に付き添っているのだと誰もが、彼を気にかけていたのだった。
けれども、街にも姿をみせないダイシジに誰もが、彼の家をおとづれることははばかれた。テディもその一人だった。
以前は、ダイシジのことが気に食わないやつだとおもっていた。いつも神妙な顔つきで、自分が世界の何か大きなことでも背負っているかのように、暗い顔でいつも何かに忙しく、その哲学すら聞くまでもなく、自分とは肌の色が違う世界の人間だと思っていた。
難しい顔つきで、職場の誰もが、ダイシジのことを違う世界の人間だと思っていた。そして、テディは、そんなダイシジのことが気に入らなかったのだった。
けれども、戸棚を作っていることを知ったとき、ダイシジの足元をすくってやりたいような気持ちになった。あいつのやってることを一つ笑ってやろう。そんな気持ちだったが、あの日、納戸を開けたとき、奴の妻リディと一緒に天井にまでかかるくらいの小さな戸棚の群れの中に二人で、一心不乱に作り続けている姿をみたとき、この世のなにものでもないような形容しがたい感情がうかんだ。
それは、奴がやっていることが、自分が思うよりも大きくて、誰もがやることの域を超える、日常でみかけることのない世界で作業しているように感じられたのだった。
それを見てから、奴のやっていることの意味はまったくわからないものの、奴が何かのためにやっていることだけは、感じ取れた。
そんなことを感じてから、奴への気持ちが変わってきたのだった。言葉や頭でわかることではなかった。何かが直接、俺の中に息をふきかけてきたような気持ちだった。見方が変わったとかいうよりも、奴のやっていることが俺なんぞが何か言えることを超えた、言わば神に遣わされた仕事のように感じたのだ。
人間の俺が、何か言えることはないのだとハッキリ判らされたというべきかもしれない。
テディは、ダイシジのことが気になっていた。
リディが倒れたと聞いてから、鍛冶屋を辞めたいということを、ダイシジに頼まれたという伝言者によって聞かされていた。奥方が倒れたともなれば、さぞ気落ちしているのではないだろうかと、テディらしからぬことも思ったが、それを行動に移すことはできなかった。
ダイシジのことを思っているのは、テディだけではなかった。
職場の皆が、なぜかダイシジを気にかけていたし、材木屋もそうだった。リディのことだけではなく、ダイシジがやろうとしていることの何かを、見守らずにはいられないものたちが、すでに多くいたのだった。
小さな戸棚を作っている、それだけが興味の対象ではなく、ダイシジのやろうとしていることがなぜか彼らを惹きつけていた。興味本位で、彼を噂するものは、もう街にはいなくなっていた。
〈九〉
ダイシジは、戸棚作りを始めていた。
リディの様子は気になったものの、いま自分にできることのすべてをやろうと思ったのだった。それが、何かのためでなく、自分の喜びのためであることは明白だった。
作りたいから、作り、作りたいものを作っている。それに寄り添うと、心が自由でいられた。もう何かを、誰かを気にする必要はないのだった。
992個を作り終えたとき、ダイシジは、その日できた戸棚をみて満足感でため息がもれた。
俺の喜びに寄り添えるというのは、なんと幸せなことなんだろう。
ダイシジにとって、もはや、食事することも娯楽することも忘れるほど、納戸の古い橙色の電球の明かりの下で作っている戸棚が、何にもまさる喜びと生きる栄養になっていた。
ダイシジは、追い立てられることを感じなければ、自由な気持ちのまま作り続ける喜びを知り、そこには、誰かや何かへのプライドや意地もなければ、ただおだやかな時間の中にいた。
神が、一つ一つダイシジに戸棚を手渡しているようだった。
今までは、自分が作り続けているという気持ちが、ダイシジの中でせきたてられるような気がしていたのだが、一つ一つが、いまはどれも同じものはなく、今日できた戸棚は、神がわたしに与え、手渡してくれたもののような温かい気持ちがするのだった。
髪を振り乱して、作業することもないし、一つ一つ確かめるように、神から手渡されるものをこの世に送り出す身体であるように、自分自身のことも、労わりながらありがたく思えるのだった。
ダイシジは、リディが起きたら、自分の作った戸棚を見せようと思っていた。
一緒に作り続けていたころと違う、何か輝くものが戸棚の一つ一つに入っているように思えて、それが、納戸の明かりの下でも光っているように見えたのだった。
戸棚を作り続けていると、リディのことを心配することもなかった。きっと、リディも輝く時間を過ごしているのではないかと感じたし、自分が感じているこのすばらしい神からの贈り物と、なにもかもいいことに続いているように思えたからだった。
リディもきっと、神から手渡されたものなのだ。ダイシジは、眠っているリディに語りかけるとき、神聖なものと話すような気持ちになっていた。
リディは応えてくれはしなかったが、ダイシジの言っていることがわかっているようだった。
999個目を作っているときは、窓の外は雨が降っていた。ダイシジは、空から落ちる雨粒をみながら、そのどれもが、かたときも同じものはなく、自由な思いに彩られた神が受け渡した自然の恵みのような気持ちになった。
灰色の雨雲の曇り空でさえ、すべてに調和された大いなる恵みの中にあるように感じられたのだった。
木も、川も、鳥も葉のざわめきも、ダイシジの中にあるキラキラ光るものを、より濃くさせていった。
ダイシジは、自分がやろうとしていることはわからないが、いまこうして、一つ一つ喜びを感じていられると、はっきりと神から渡された聖なる仕事をしているということは、わかった。
一つ一つの戸棚や周りの何もかも、ダイシジを明るく包み込んでいるように思えた。
ダイシジは、どれだけの時間がたったのかも、気にすることがなくなった。作り続けることに、喜びを感じていられると、それ以外のすべてが、何もかも調和したものに感じられたからだ。
それは、神から与えられた時間であったからだ。
創造は、作り続けることと違う。
自分ではなく、大いなるものから託されてはじめて、創造することができる。そこに、人の意識によって、理解されるようなことはないのかもしれない。ダイシジが作っているものは、もはや戸棚ではないのだった。戸棚を作り続けていたのではなく、ダイシジという一人の人間を織り成すすべての創造がそこにあったのだった。
ダイシジ自身の、神との対話だったのだった。
初めから、ダイシジが見つめるものは、人間ではなかったのだった。
彼がいままで感じていた悩みの応えは、人間との対話によってではなく、生きる上ですべからく誰よりも自己の神聖に目を向け、神と対話し与えられるべくして与えられた自分の生き方をすることだったのだった。
ダイシジが、やろうとしていることは、神に与えられた喜びだった。
ダイシジは、夜が明けて、今日取り掛かる、1000個目の戸棚のことを想った。
リディに短く、語りかけると窓から見える空を仰いだ。
今日も昨日と同じように美しくすべてが調和して見える。
納戸に行き、そのまま作業にはいった。リディは眠ったまま、まだ起きる様子はなかった。
ダイシジを想う街の人たちの中に、新しい一日がはじまりをつげていた。
テディにとっても、その朝は何か特別な気がした。今日はどんな日になるのだろうかと、はじめて、起きて仕事以外のことを考えた。
ダイシジは、丁寧に木を削るところからはじめた。
いつもと同じ作業なのに、どれをひとつとっても光輝いて見えた。ダイシジの目には木の表面にある模様や、それに取り付ける蝶つがいや部品にいたるまで眩しく思えたのだった。
一つずつ組み立てていきながら、心の中にあった温かいものがどんどん光り輝いてゆくように感じていた。
これで1000個目、終わるというのに、その温かいものが、新しく始まるものを予感させていた。
その予感で、さらに心がはじけて温まってゆくのだった。
丁寧にいとおしむように、ゆったりした気持ちで作り続けた。
やがて、夜がやってきて、あたりが暗くなってくると、ダイシジは、明かりをともしながら、
さらなる夜明けを感じていた。
そして、18時をすぎたころ、ようやく1000個目の戸棚が完成したのだった。
涼しげな風が一陣吹いたように感じた。
やりきったという想いよりも、さわやかな気持ちがうずまき、こめかみの汗に風をふきかけるようだった。
ダイシジは、納戸の腰掛椅子に座りながら、キセルに火をつけた。
目をつむって、穏やかな気持ちのままホッと、息をはくと、煙が、夜空に舞い上がっていった。窓から差し込む光が、月のある夜を教えてくれていた。
〈十〉
しばらく、ダイシジは動こうとせず、黙っていた。
すべてが調和に満たされ、足らぬものがないことを、穏やかに感じられた。充実した満足感の中に浸っていると、ダイシジの胸から光が沸いてきた。明るく真っ白でまばゆい光が、胸から沸いてきて、一筋となって、空へ上っていった。
光はやがて、大きな光となって、窓の外を照らした。そこに、あのときの女神がたっていたのだった。
ダイシジは、女神をみて、微笑んだ。
ダイシジの中に一陣の風が通ったとき、街のものたちの心にもおだやかな風が通っていった。
何の理由もないけれど、何か安心するような、ほっとした気持ちになっていったのだった。
ダイシジは、キセルをおくと、女神にむきなおった。彼女は、微笑みながらダイシジをみた。
彼女は、いった。
「ダイシジ、あなたの戸棚ができましたね。あなたが1000個作り終えるのをみていましたよ」
ダイシジは、申し分ないような気持ちになった。
「おれには、わからないことが一つある。この戸棚は何だったんだろうかということだ。」
女神は、くすっと笑うと、窓をむいた。ダイシジもまた、窓辺によっていった。
大きな月が、窓から見える。蒼い、紺碧の空が大きく広がり、丘から見下ろす街全体を包み込んでいた。
ダイシジは、ふうと息をついた。女神は、黙ったまま、ダイシジを振り返りこういった。
「あなたがやろうとしていることのすべては、いまのあなたに見えていないだけ。
あなたが作った戸棚は、あなた自身を作っていくパーツでしかありません。」
ダイシジは、わからなかった。
「では、この戸棚は、本当に妖精の国へ進呈されるのですか?」
女神は、微笑みながら、ダイシジの肩に手をおいた。
「これからあなたに起こる奇跡をみていなさい」
そういうと、跡形もなく消えてしまった。納戸に残されていたのは、1000個の小さな戸棚と、ダイシジの吸っていたキセルの煙だけだった。
ダイシジは、後にのこったものをみて、やりきれないような、不思議な気持ちになった。結局、女神は、この戸棚を持っていきはしなかったからだ。
その日、リディの側で、自分のベッドに入りながらも、眠れない夜をすごした。リディは、いつもと変わらない姿のまま、眠っている。ダイシジは、やり終えた後の充足とは、違う、何か不思議な気持ちがしていた。ベッドに横になりながら、真っ暗な中で、天井を見上げていた。満たされて、もうすべきことはないのに、自分にとって大切な何かを待っているかのような夜だった。
考えられることも何もなかった。そして明日がどんな日になるかということも、何もかもがダイシジにはわからなかった。
とにかく、ダイシジにとって、その晩は、長い夜となった。
朝の光が、寝室の窓からやってきた。ダイシジの中にも、新しい夜明けのように感じた。眠ったのか、眠らなかったのか、自分にもわからなかったが、朝の光はまぶしかった。
「リディ」
ダイシジは、いつもと同じように、妻に声をかけた。
なんということもないけれど、彼女が倒れてからの毎朝の日課になっていた。
「おれは、今日どんな一日になるかわからないけれど、なぜか少しワクワクしているんだ」
リディが少し笑ったように見えた。ダイシジもそれを見て、微笑んだ。
庭に出ると、やわらかい日差しがやってきて、辺りをつつんでいた。鳥も、風も、鳴き声も、ダイシジはすべてをひとつひとつきいていた。
花が歌うのも、小鳥がこだまするのも。
ダイシジにとって、ゆったりした気持ちで迎えるはじめての朝だった。
そのとき、郵便屋がやってきた。ダイシジは、手紙を受け取ると、その差出人をみてびっくりした。
鍛冶屋のテディだった。ダイシジは、ためらったが封書をあけてみることにした。
中には、丁寧にタイプされた字でこう標してあった。
「ダイシジへ、あなたへこんなお願いするのは、どうだろうと思ったんだが、いまは、そんなこともいっていられないので、手紙を送ります。
おれの親父が、先日から具合がよくない。医者にもみせたが、手のほどこしようがないそうだ。あとは、本人の力か、奇跡が起こらないと、と先生様はおっしゃった。おれには、納得できなかったが、そのとき、なぜかお前のことが頭にうかんだ。
いま、お前の奥方様も大変なときだということは、重々承知している。
だが、どうか親父に一目あってやってもらえないだろうか。
こんな気違いじみた頼みごとをするなんて、どうかしてると思うだろうが、おれの勘というのも、たまには信じてみようとおもう。」
短い文の中に、テディの焦りや、粗忽な性格や、不器用さが表れていて、ダイシジを困らせた。テディに会いたくない気持ちが消えたわけではなかったが、行ってみようかという気持ちになった。
ダイシジは、リディへ、短く言葉をかけると、洗面所へ行き無精ひげをそった。何ができるとか、テディを励ましに行くとか、そんな気持ちでもなかったが、とにかく行ってみようと思ったのだった。
ダイシジは、納戸の鍵をかけようと、ドアに手をかけたとき、戸棚のことを思った。1000個つくった、この戸棚は、女神も持っていきはしなかったものなのだ。言わば、この戸棚は、ダイシジが好きにしてもいいということだと思い、その中の一つを籠に入れて、家を出た。
テディの家に着くと、彼はダイシジを見て、少し驚いてから黙って、感謝を述べた。ダイシジは、通されるままに、父親の寝室に入っていった。
彼の父親は、静かに眠っていた。
「揺り動かしても、何をしても、いまは目を覚まさない。医者は、たまに点滴を変えにやってくるが、見放している」
ダイシジは、隣にある椅子にこしかけて、黙って父親の手をとった。温かさがつたわり、まだしっかり生きていることを告げている。
ダイシジは、何を話していいか、言葉がみつからないまま、テディと父親と黙ったまま、時間は過ぎていった。
ふと、あることに気づいた。
『時計がない。』
この部屋には時計がないのか、そう思ったとき、枕元にある古びた腕時計を見つけた。テディは、それは、親父のよくつけていたもので、親父が倒れてからその時計も止まってしまったのだと言った。
ダイシジは、その時計を手に取り、黙っていたが、やがて一つ思い出したように、籠から戸棚を取りだした。
テディは、その戸棚を見て、例のずっと作っていたものだということがすぐにわかり、ダイシジを見た。
ダイシジは、その戸棚を丁寧に開くと、ちょうど妖精が入りそうな小さな空間があらわれた。
その中に、父親の腕時計をいれ、ベッドの枕元に置いた。
小さな戸棚は、何もない彼の父親のベッドを彩った。そこにあるだけで、戸棚の木も呼吸しているように感じられた。
おいてからしばらくすると、二人とも、はっとした。
「チッチッチッ」
音が聞こえる。
戸棚の中に入れた、時計が動き出している音が聞こえてきた。
テディとダイシジは、二人とも顔を見合わせて、驚いた。
そして、さらに驚くことが起こった。
その時計が鳴り出してから、しばらくして、ベッドが大きくゆれた。眠っていた父親が、一息イビキをかいたかと思うと、大きな足をゆらした。驚くテディの前で、父親は、目をあけてダイシジを見て、こういった。
「おお!ダイシジ、久しぶりだなあ。お前のもってきたもんが、気持ちよくて。何もかも順調だわい」
そういうと、大きな身体をゆらしながら、起き上がった。ダイシジの手を握ると、戸棚をゆびさしながら「ありがとう」といった。
ダイシジは、ただただ驚くばかりで、何も応えられなかった。見ると、側では、テディが、嗚咽をこらえながら、さめざめと泣いている。
ダイシジは、この不思議な出来事の前で、ただ呆然としていたのだった。
〈十一〉
家の戸口で、別れ際、テディは、泣きながら、ダイシジに頭を下げると、またすぐに寝室に戻っていった。ダイシジは、何が起こったのかわからなかったが、何かが始まったような不思議な気持ちがしていた。
そして、その予感は的中した。
テディの父親のうわさは、すぐに街中にひろまった。彼が、起き上がったということよりも、ダイシジの戸棚のことで、話が持ちきりだった。
幸せを運んでくれる戸棚なのではないだろうか。街中の人がうわさをききつけて、ダイシジの家に押しかけてきた。
ダイシジは、あまりにみんながいろんなことをいうので、困ってしまった。ただでさえ、人としゃべることが苦手なのに、大勢の人がやってくることに、対処ができない。こんなとき、リディがいてくれたらと、思った。
ダイシジは、やってきた人、ひとりひとりに、この戸棚は、ただの戸棚で、魔法も何もないし、テディの父親のことはたまたまだったのだと、つかえながら説明をした。
みんなが帰ると、ほっとして、ゆり椅子に腰掛けた。何が起こってるんだ。あれは、ただの戸棚だ。なぜなら、おれが作ったものなのだから。おれには、あの戸棚に奇跡なんて細工する智慧も力もないのに。
ダイシジは、困り果てていたが、夜になって、気持ちも落ち着くと、一人の夕飯をすませて、寝室にやってきた。眠っているリディに話かけようと思ったとき、ふとテディの父親のことを思い出した。
もし、この戸棚が本当に奇跡を起こす力があるなら、リディのことも。そう思って、納戸から一つとってきて、リディの枕元においた。何も入れていない戸棚だったが、
「リディ」
と声をかけて、手をにぎった。
「おれには、奇跡なんて起こせる力も何もない。
あるのは、この戸棚だけだ。そして、これは、女神も持っていかなかったもので、ここにそのまま残されてしまったものだ。
本当に、テディの親父さんのような奇跡を、この戸棚が起こせるとしたら、おれは、お前で見てみたいんだ」
そういいながら、ダイシジは、涙を拭いた。
リディが眠りについてから十日以上たっていた。今なら、リディのありがたさもよくわかる。側にいてくれたことへ、感謝をいっぱい告げられる。けれど、そんなとき、リディは、眠ったままだった。
ダイシジは、手を握りながら、うとうとし始めていた。温かなリディの手を握りながら、ダイシジは、ゆっくりと眠りに落ちていった。
温かなぬくもりで、目をさました。
ダイシジは、起き上がると自分が見たこともないところにきているかのような気持ちになった。
ベッドのあたり一面、暖かな光に包まれていて、その中に女神のような美しい笑顔で笑っている人がいる。
リディだった。
リディは、ダイシジをみながらも、楽しそうにして笑い、そんなリディを光を包み込んでいた。
やっと、ダイシジは、寝室にいることがわかった。
リディが、ベッドの上で笑っている。
「リディ!」
目を覚ましたんだな、夢じゃなかったんだな。嬉しさのあまり、涙が止まらなかった。リディが俺を見て笑っている、それだけでこんなことがこれほど嬉しいなんて。
リディは、笑顔で細めた目をダイシジにむけながら、嬉しそうに笑った。
「あなた、どうしてそんなに嬉しそうなの」
ダイシジは笑った。お前を見ているからだよ。言葉にできないまま、ダイシジは泣いた。
「あなたが、光っているわよ」
ダイシジの周りを指差して、リディがいった。ダイシジは、笑って、リディお前の方こそ、光っているぞ、と告げた。
ダイシジは、穏やかさの中にいた。
辺り一面に包んでいた光が、だんだんとなくなってくると、穏やかな気持ちの中で、リディのベッドの側にいることに気づいた。
そして、リディを見ると、ダイシジを見て笑っていたリディは、眠っていた。
まさか、夢だったのだろうか。
そんなことが、ダイシジの中にわいてきたが、手を握ると、リディはまだ眠ったままだということがわかった。
ダイシジは、笑いながら、感謝を伝えた。
「リディ、おれのリディ、どうか、いままでたくさんありがとう」
ダイシジは、流れている涙が、悲しみだけでないことを感じていた。リディの笑顔が見れてよかった。おれのために見せてくれたものかもしれない。
ダイシジは、そっと、リディの髪をなでながら、ほほに口を寄せた。
戸棚は、リディに奇跡を起こしてはくれなかった。
〈十二〉
ダイシジは、それからしばらくの間、家にこもるようになった。
そんな様子をみて、街中の人が彼を心配していた。彼の様子を見ようにも、どんな言葉をかけていいかわからず、戸口の前にりんごや、梨を置いていく人もいれば、だまって帰る人もいた。
彼は、家にこもりながら、悲しみの中だけにいたわけではなかった。眠っているリディの、枕元においた戸棚が気になっていた。この戸棚は、リディにとってなんだったんだろうか。
そっと、戸棚に触れてみた。
何も変わらない、俺のつくったものだ。
けれど、その扉をあけたときのことである。
中からまばゆい光がほとばしったかと思うと、真ん中にちょこんと何かがすわっているのが見えた。
あ!!
リディ!
小さなリディが、中に座りながら、こちらに微笑んでいる。ダイシジは、扉にしがみつき、リディ!と叫んだ。
彼女は、笑いながら、ダイシジをみて、
「あなた、わたしを見て、妖精になったのよ。小さな戸棚に入ってしまうくらいに小さな精霊になれたんだわ」
といった。ダイシジは、
「あんまり嬉しくないよ、おれはお前に戻ってきてほしい」
そういうと、精霊のリディは、笑った。
「あなた、わたしがこんな姿になっちゃったから、驚いてるんでしょう。
この戸棚が、魔法の戸棚じゃなかったって、思ってるんでしょう。どうしてわたしを救ってくれなかったのかって。けれど、大事なことを忘れているわ。
生も死も一対で、すべて同じだってことなのよ。あなたたちの目からみれば、どっちがいいかと思うでしょうけど、わたしたち精霊の世界では同じことなのよ。」
ダイシジは、不満そうにいった。
「けれど、おれたちの世界では、もう死んだものには、会えない。みんなそれを悲しんでいるんだ。おれだって、お前に会えないことがどれだけ苦しいか。」
そういうと、リディは、真剣な顔をして
「あなた、あたしのことが見えるでしょう。そしたら、この戸棚は精霊のための戸棚なのよ。わたしはいつでもここにやってきて、あなたと一緒にいられるわよ!」
ダイシジは、リディの言っていることが夢ではないかと思った。
「この戸棚に精霊が入るだって?テディの親父は生き返ったのに、どうして、リディには何もしてはくれなかったんだ。おれはそのことを思うと、この戸棚は何の役にも立たないと思っている」
ダイシジは、そのことがずっとひっかかっていた。
テディの親父さんは息を吹き返したのに、リディはどうして?と。その思いが戸棚が何か神がかったものだということへの信頼ができないのだった。
「リディ、どうしてなんだ」
ダイシジは、うなだれると、リディは、困ったようにいった。
「あなた、じゃあ、あの戸棚を街中に配ってみなさいな。」
「街中に?街のやつらに、配ったら、どうなるんだ」
「街の人たちの家一軒一軒に、この戸棚を置いてもらうのよ。そうしたら、何が起こるかわかるかもしれないじゃない。」
ダイシジはいぶかった。けれど、精霊となったリディはそれを聞こうともせずに、強引に推し進めた。
「きっと何か起こるかもしれないじゃない。この戸棚のことも、いま考えてもわからないものよ」
以前のリディとは、ちがった強さを精霊のリディに感じた。元気で生き生きしているリディだった。
「街のやつらに、なんていって、配ったらいいんだ。」
リディは、そんなこと!とでもいうように、
「ただ手渡せばいいのよ。」
と言って、笑った。
ダイシジは、次の日から、戸棚を大きな籠にいれて、街にでかけた。街で会う人会う人に、その戸棚のことを聞かれると、そのまま、彼は、戸棚を彼らに手渡した。もらったものは、その小さなまるで、妖精の世界にでも入ったかのような、精巧な作りに
「ほほ~」
と関心しつつ、もらうことを断る人はいなかった。
ダイシジは、あまったものは、街のはずれから一軒一軒たずねて周り、その戸棚を置いてもらうように、配った。
もらうことを拒むものがいなかったように、ダイシジの顔をみて安堵しないものもいなかった。
街中のみなが、ダイシジのことを気にかけていた。戸棚のことも、リディのことも、もはやこの街では、知らないものはいなかったからである。久しぶりに街に顔をだした、ダイシジのことを誰もが快く受け入れ、そして戸棚もありがたくもらってくれたのだ。そんな雰囲気に、ダイシジ自身も癒されていった。
すべて配り終えたとき、不思議と一つだけあまった。それ以外は、すべて街に配り終えていたのだった。
ダイシジは、リディの戸棚を開けて彼女を呼んだ。
リディは、にこにこしながらやってきて、ダイシジのひざの上にちょこんとすわった。
「リディ、すべて配り終わったよ。
一つだけあまったものは、ここにおいておくよ。これは、おれ自身の戸棚にしようと思ってる」
リディは、ニコニコしながらうなずいた。
ちょうど、夕暮れ時だった。
丘から見下ろす街並みに、オレンジ色の夕焼けが家々の屋根を紅く染め上げてゆくころだった。
風が丘の上に舞い上がり、草の香りと夕暮れの湿った夜風が窓から入ってきた。
精霊のリディと、ダイシジは、黙って、夕暮れの街と空を眺めていた。
〈十三〉
以前は、この時間になると、仕事からぐったり疲れて帰ってきたダイシジが、ドアから入ってきて、
リディは、食事の支度をしながらそんなダイシジの帰りを待っていたものだった。
二人は、いつも二人でいた。
そして、今日もダイシジとリディは、あのころと変わらずに二人でいた。
今は、リディの姿が小さな精霊になってしまったとしても、あのころを懐かしく思い、過ぎ去ったことを愛おしむことがあっても、ダイシジとリディの心は、橙色に染まってゆく街並みのように、温かく満たされているのだった。
ダイシジは、ぼんやりと星が瞬きはじめた空をみながら、つぶやいた。
「俺のしたことは、なんだったんだろう。リディ。お前をこんなふうにしてしまったのも、俺なのかもしれないが、それなのに、こんなことを言うのは、どうかしてると思うだろうが。
リディ、俺は、お前といられたことや、こうして側にいることの他に得がたいものはなかったと、いまは思えている。
お前には、こんなおれで、苦労をかけていたと思うけれど」
ダイシジは、つかえながらゆっくりと話した。
「お前の魂が、俺を蘇らせてくれた。
俺は、人の中や社会やいろんなことでぶつかってしまう自分の醜さを許せなかった。
俺自身でありたいと思うあまりに、リディ、側にいるお前にはいつも苦労をさせてしまっていたと思う。
けど、俺を信じて戸棚作りをしてくれたお前の心が、俺の中にいつまでも巣食っている氷をゆっくり溶かしていってくれたと思っている。
リディ、俺はお前に何かしてやれたんだろうか。もう今から何かしたくても、できないのだろうか。
俺といたことを、後悔していたんじゃないかと、それだけが、いまの俺の中にある、いつまでも消せない本心なんだ」
ダイシジは、涙が流れてきた。
リディを見ると、リディはまっすぐにダイシジを見ながら、いままで見たことがないような慈愛を超えた純粋なまなざしをしていた。
そして、彼女は、ゆっくり口を開いた。
「あなたのことを、一度でも疑ったことなどないのよ。
わたしの中にあったのは、ただ、あなたの笑顔だったのだから。
わたしは、あなたが、いつも何かに悩まされていたときも、その中から抜け出すための手助けを自分ができるのならと、それにまさる喜びはなかったのよ。
わたしにとって、あなたは、生活のすべてだったわ。
側にいることで、わたしがあなたにできないことがあることの方が、苦しかった。
わたしにとって、あなたの側にいられたこと、そして、一緒にあの戸棚を作れたことは、神様に感謝してもしきれないくらいの大きな贈り物だったの。
あなたと一緒にやってきたことは、わたしにとって、かけがえのない時間と、これ以上ないご褒美だったわ。」
ダイシジは、嗚咽をあげた。
涙はあとからやってきて、止まらなかった。
小さなリディは、ダイシジにそっと寄り添いながら、その涙をすべて受け入れるように黙って目をつむっていた。
ダイシジは、温かな愛を感じていた。どこから沸いてくるのだろう。
いままでの、自分の中にあった恐れが、その温かさで溶かされてゆくようだった。
リディから受け取った愛と、そして、自分が想うリディへの愛を感じて、ダイシジの心の片隅から、愛を疑う影が黒いキセルの煙のように空へ舞い上がって散った。
〈十四〉
ダイシジは、やがて星ぼしがちりばめる夜空になる前の、温かな濃い夕暮れの色合いのような、心を染める愛につつまれた時間を感じていた。
時を忘れるほどの、甘美さを、リディの心と寄り添いながらすごした。
「あっ!」
リディが突然、外を指差して声をあげた。
ダイシジは、リディを見て、「どうした?」と聞くと、
ダイシジを振り返ったリディが、顔をくしゃくしゃにしながら、泣いている。そして、泣きながら大きな笑顔の向こうで、こういった。
「あなた、あれを見て!」
ダイシジは、言われるままに、外を眺めると、目を疑った。
夕暮れが閉じられ、漆黒の星空に変わる、藍色と橙色の雲が流れている空の下で、すべての家の明かりは消え、街中の家々の一つ一つに、小さなキャンドルのようなものがともされていた。
それは、よく見ると、ダイシジの贈った戸棚だった。小さな戸棚に、ろうそくを灯してあったのだった。
どの家からも、その明かりは見えた。軒先や、窓辺に置かれた998個の戸棚でできたキャンドルが、街を照らしていた。
「どうして!こんなことが」
ダイシジは、驚きのあまり言葉もでてこない。リディは、ダイシジに寄り添いながら、大粒の涙を流し続けた。
ダイシジは、わからずに、ただ呆然とその光景を見ていた。
この灯りは、テディの呼びかけで、戸棚をもらった街中の人たちが、ダイシジの贈り物に応えた気持ちだったのだ。
リディは、泣きながらダイシジに何度もつぶやいた。
「あなた、よかったわね。よかったわね」
ダイシジの手からわたったものが、こうして皆の心へ届いたという証だった。はじめて、ダイシジは、自分のやっていたことが、誰かに届いたことを味わった。
そして、それは、不器用で繊細な彼のこともすべて、取り去ることなく明け渡して、ダイシジの中のいっとう大事なところからやってきたものが、彼を見守ってきたすべてのものに、受け入れられた瞬間でもあった。
ダイシジは、心の中に何もない風が吹いているのを感じていた。
もう、何もわだかまりもなかった。
ダイシジは、彼のままを自分が受け入れるだけだった。心の中には、澄み切った星空とおなじように、瞬く戸棚の灯りがちりばめられていた。
そして、彼の心に、また灯りが灯った。
自分の分と、リディの分の戸棚にろうそくをいれ、灯りを灯すと、丘から見える窓辺においた。
その灯りを街中のものたちが、見た。
丘の上の小さな、二つの灯り。
それが、誰のものであるか、街中のものたちが、言い知れぬ想いに、涙を流すものもいた。
その晩、誰もが、家の明かりをともそうとせずに、戸棚の灯りをともし続けた。
夜空の明かりが映し出された夜の街は、水辺に映った星ぼしのようにその灯りを照らし続けた。
ダイシジは、「リディ」と名を呼んだ。
小さな精霊の彼女は、そっとダイシジの手から離れて、ベッドにわたった。ベッドに横たわるリディの胸の上に立つと、言った。
「ダイシジ、まだ終わらないのよ」
そう、ニッコリ笑うと胸の中にすっと消えた。ダイシジは、横たわるリディが、目を覚ますところを見た。
「リディ」
目をあげた彼女が、こちらを見てほほえんだ。
「あなた、また逢えたわ」
ダイシジは、リディを抱き寄せて、ただじっと涙を流し続けた。
星の明かりが見えなくなるまで、彼はリディを抱き寄せ続けた。
ダイシジとリディは、それからも一緒だった。
街の人たちが、彼らに起こった奇跡を誰もが受け入れた。あのキャンドルの晩から、街の人たちとダイシジの間に、特別な絆が生まれていた。街中の人たちは、彼を受け入れ、そして、彼も心を開いていった。
テディは、ダイシジに対して表立って好意的なそぶりもしなかったが、本当は、彼がダイシジのことを案じ、また感謝している気持ちを誰もが気づいていた。不器用で粗忽なテディらしい、振る舞いだった。
ダイシジは、あのあと、戸棚をつくる手先の器用さが買われ、家具の飾り棚や、綺麗で繊細なゆり椅子の飾り、小物入れなどを作って、実用品に彩りを添えていった。
彼の作るものは、本当に妖精や何かが入っているようだと、それを置いているだけで、家が幸福になるという噂が、まことしやかに流れ始め、作られたもので、街に彩りを添えていった。
けれど、その噂が、彼の耳に入ることはなかった。
彼は、彼の作品を作ることに熱中し、そして側で支えるリディのことを大切にした。
彼の仕事は、ただ、それだけだったからだ。それ以外のことは、彼の中に入ってこなかった。
以前より明るく穏やかになった、ダイシジと街の人たちとの交流は、末永く続いた。
そんな彼を街の人たちは、こう呼んだ。
『精霊と神の世界をつなぐ手技の人』
このたびは、ダイシジの本を手にとってくださってありがとうございます。
『ダイシジ』は、祈りです。
『ダイシジ』に、筆を下ろしたとき、何もない地平線のようなところにいました。
何もなくて、自分のようなものが、どうしてこんなことをしているのかと、そればかり疑う日々に、毎日の少しの喜びすら曇ってしまうような、そんな晴れ間も一瞬で色を変えてしまう葛藤の中にいたのでした。
筆の走るに任せて書いていくと、ダイシジの話す言葉や、考えていることが、まさしく浮かばれない自分自身のことであるようで、そんなダイシジを見守るリディの存在すら、わたしには、うっとうしく感謝など到底できなかったのでした。
そんな日々が続いているとき、『ダイシジ』の物語が、進みだします。
自分の弱さや、おろかさや、すべてをカバーして、人の中で暮らすこと、そしてそれらを円滑にしてゆくには、自問自答が繰り返される中、ダイシジも自問自答を繰り返す日々をすごします。
『ダイシジ』を書きすすめてゆく中に、自分自身の中にあるものを、さらけ出してゆくことが求められました。けれど、それが吐き出すようなことではなく、自然と流れるリズムの中で、わたし自身が知らされてゆくようなことでした。自分というものが持っているものについて、ダイシジの中に映し出されてゆくような不思議な魅力ある時間でした。
そして、それはダイシジのように祈りであり、自分を、作品を愛することでもありました。
ダイシジを書きはじめたころ、雪が降っていました。そして、三年の年月とともに、ダイシジは、温かい南の国で筆がおかれることになりました。
環境や場所がどれだけ自分に影響するように思えても、自分自身がおかれていることや、その根本やルーツは変わらないということを、ダイシジは提示してきます。
なぜなら、天によって彼は愛され、リディに守られ、街の人に受け入れられて、その中で作品をつくり続けることが、彼の願いであり、祈り求めたものだったからです。
そして、彼は、リディを愛しつづけ、天に手渡される喜びを作りつづけることだけが、自分の仕事であり、それは、どこにいても周りがどんなでも、変わらないことであったからです。
『ダイシジ』の祈りは、確かな愛をもってめぐってくる本当のこたえです。
最後に感謝とともに。
いつも側で変わらずに、愛してくれた家族
遠くから信じ続けてくれた真友、
風をはこんでくれた偉人たち、
そして、ゆるがない山王の森の自然たちへの感謝と、
その大いなる愛に抱きしめられる魂とともに。