有能な私の冷静なる推察
あ、これ、お嫁ちゃん関連だわ。
野球部の敏腕マネージャー(自称)は思った。
うちの部のエースで四番な中心人物、小野隆司には、愛してやまない彼女がいる。
高坂絵美というその子は、幼稚園から中学まで一緒に過ごし、見事洗脳されたと思われる可哀想な彼女である。
何せ、うちのエースはその高いスペックの全てをお嫁ちゃんに好かれるために注ぎ込んでいる残念な男だ。
野球をやっているのだって、昔、テレビを見ていた際にお嫁ちゃんが「野球選手って格好いい。そんな素敵な旦那様ほしいなー」と言ったかららしいし。
この男、話す内容は大抵がお嫁ちゃんに帰結する。もう全ての道はローマに通ず、くらいの勢いでお嫁ちゃんになる。
まだ話題のスイーツやレジャー施設の話は分かる。愛しい彼女と行きたいだろう。だけど、連立方程式を教わってるのに締めくくりがお嫁ちゃんの可愛らしさになるのはどうかと思う。おかげで我が部の数学に弱い部員たちが、テスト中に問題解くと共に砂吐きそうになるという事件すら発生した。
そんな我が野球部の部員たちは今では、自身の彼女の有無に関わらず、ちょっとやそっとのリア充程度で試みだされることのない強靭な精神を手に入れた。そして、皮肉なことにきめ細やかな女性への気遣いを覚え、無事彼女をゲットできるものと、そこまで出来ないといけないのかと絶望し、恋をあきらめるものとに分かれた。
でも、自然に女子への気遣いをインストールされているため、野球部の男子は顔に関わらず総じて人気が高い。誰でもいいから付き合ってみたいくらいなら、すぐにでも叶う程度ではあるのだが……。彼女にかまけて部活がおろそかになっても困るので、教える者はいない。知らぬは本人ばかりなりである。
因みに、女性への気遣いを皆に植え付けた本人はその全てを一人に向けているので、お嫁ちゃんがいない時にはそれなりに優しく見えるが、お嫁ちゃんが絡んでいる時には他人なんて道端の石より存在が軽い。何も知らない女子達がうっかり近づかないよう祈るばかりだ。
しかし、そこまで愛しい彼女と、よくまぁ高校別れちゃって追いかけなかったな、と思ったものだけど、お嫁ちゃんが選んだ高校は、野球がとっても弱かったらしい。廃部寸前な勢いだとか。やるからには強豪校でもまれたい、と苦渋の選択で別にしたそうな。社会人になって四六時中一緒にいることは無理になっても我慢するための訓練でもあるらしい。
お嫁ちゃんが嫌がればあっさりとやめそうではあるけれど、一応本人自身も野球を気に入ってはいてくれているらしいこの事実を知った時には感動し、部員一同思わず拍手をしてしまったほどだ。
因みに、成績上位を維持するから、お嫁ちゃんと自分に携帯を買って、使うことを許してほしいと親に交渉したこいつは、現在も学年五位以内をキープし、無事毎晩ラブコールをする権利を維持していて、その会話の一部は毎日部活で垂れ流されるため、私たちは結構なお嫁ちゃんマニアだ。
そんなお嫁ちゃん、殆ど我が部と接触はないのだが、私だけはちょいちょい会う。お嫁ちゃんがちょいちょい差し入れをしてくれるからである。
うちの部活は部外者見学禁止なので、差し入れだけもらったらお帰りいただくしかないのだが、結構な頻度で来てくれる。こちらとしても規則は破るわけにはいかないので心を鬼にしてお帰り願うのだが、せめてもの慈悲で、入ってきた方向とは逆の門を指さしてお帰り願っている。そうすることで、一瞬だけでも帰るという大義名分の元、堂々とお嫁ちゃんに練習を見てもらえるというわけ。
お嫁ちゃんは別にいつ来るかは決まってないし、来る時間も多分あちらの学校の予定で前後するので、練習中の部員達はほとんど気付かない。が、我らがエースだけはどんな一瞬であろうとすぐ気付く。
最初はお嫁ちゃんが「今日行くよ」と宣言しているのだと思ってたんだけど、そういったことは全くなかった。どうやら来るか来ないかは完全にお嫁ちゃんの気分次第で、行こうと思ってたけど、クラスの友人に誘われたから、と取り止めることもあるらしく。
冷静に考えれば、お嫁ちゃんが来ると分かってる日に、あのお嫁ちゃん馬鹿がそわそわもウキウキもせず、通常状態でいられるわけもない。ということは、お嫁ちゃんが来た時を毎回見逃さずに気付いているということか。それでいて、別に練習に身が入ってないとかそういうこともなく、むしろ実態知らなければ惚れ惚れしてしまうほど真面目にやってるのはどうしてなんだ。野球に一生懸命なたーくんが格好いいと言われたからといって、そこまで出来るものなのか……まぁ、やつなら出来るものなのか。。
もう、やつには高精度のお嫁ちゃんレーダーが搭載されているとしか思えない。どうも、自分がそちらを思いっきり気にすることで他の男共にお嫁ちゃんを見られるのが嫌らしく、お嫁ちゃんが歩いていてもちらっと一瞬見るくらいしかしないんだが、反対に言うと、一瞬は絶対に毎回確実に見ている。あんた今ヒット打って打球の行方見る代わりにお嫁ちゃんでれっと見惚れたでしょ、ということすらある。怖い。うちのエースの実力が怖い。
お嫁ちゃんが来た後は絶好調だ。元々エラーとかあまりしたりする方じゃないんだけど、お嫁ちゃんが来た時は多分眼を瞑っていてもファインプレー位やってのける気がする。お嫁ちゃんを見るなり球威上がるとか、お前は前世パブロフの犬だったんだろう、と密かに疑っていたりもする。
そんな前世犬疑惑を持つ我らがエースは、練習終了後、真っ先に駆け付ける。猫まっしぐらだ。前世は猫だったのかもしれない。シュレディンガーの飼い猫かパブロフの犬か。どちらがやつの前世か、大変興味深い。誰か検証してみてくれないだろうか。
閑話休題。
練習を終えた途端、脇目も振らずに戻ってくる我らがエースだが、これはまぁ仕方ない。「皆さんでどうぞ」と言われる差し入れ。これがまた美味しいんだ。思わず私の分を確保してしまうくらい。そして、この部活は弱肉強食。たとえ皆さんというのが建前で、食べてほしいのは一人だったとしても、遠慮するようなことはない。その先に地獄が待っていようと練習後の貴重な栄養源(可愛い女子からの愛付き!)を自ら譲るような軟弱なやつは我が部にはいないのだ。
従って、やつは自分への差し入れを確保するため、野獣になる。差し入れがあると気付いていない他の部員と、あると分かっているやつとでは初動が違う。「皆おいしいと言ってたよ」に嬉しそうにするお嫁ちゃんがいなければ、全て無情に確保しただろうが、そこはお嫁ちゃんの意向が何より優先される男。最低限を確保した後はそれを大事に幸せそうに食す。他のメンバーであれば口に入れるまでが戦いですとばかりに横取りされる危険性もあるが、こればっかりはない。以前やろうとした愚か者が……いや、やめておこう、思い出すだけで寒気が。
ま、そんなわけで、お嫁ちゃんさえいれば全てが順調な男が気もそぞろ、練習でもポカミス連発なんてものは、お嫁ちゃんに関すること以外にあり得ないのである。
以前は、お嫁ちゃんの風邪だった。ちょっと風邪が悪化して五日も寝込み、電話も出来ずに見舞いも感染るからと禁止された。あの時はお嫁ちゃんへの心配と会えない不安でもうぐだぐだだった。いつものお嫁ちゃん情報は口から流れず、代わりに出てくるのはため息ばかり。お嫁ちゃんを苦しめる病原菌を恨み、代わりに自分に移してくれと神に頼む始末。
もう、あまりの辛気臭さに、部活の後、皆で神社に神頼みに行ってしまったくらいだ。現実的に考えれば、良い病院紹介すべきだったと思う。けれど、我がエースの絶望に汚染された我々には、まともな判断は出来なくなっていた。
あの時も結構酷かったが、今回はもっと酷い。しかも何も喋らず、そろそろ死にそうな存在感のなさだ。どうしたエース。
「あれじゃね、思い余ってがばっといこうとして、嫌だ変態、たーくんなんて嫌い! とか言われちゃったんじゃね?」
「それか、月九のドラマに感化されたお嫁ちゃんが、従妹のお兄ちゃんと結婚、いいよねー、とか自分じゃ不可能なこと言い出しちゃったとか」
「昨日は確か『過酷な運命により三日という永遠にも近い歳月を引き裂かれた二人がようやく再会できた日』だろ? やっぱり、会えない時間が長すぎて、会うなり押し倒して、ファーストキッスは結婚式で、と夢見てるお嫁ちゃんの夢をぶち壊しちゃったとかじゃねぇの?」
好き放題言っている外野にも反応せず、簡単な球をエラーする我らがエース。とうとうキャプテンに退場命令をだされ、とぼとぼと去っていった。
「ありゃどうする?」
「とりあえず二日三日様子を見て、ダメなようならマネージャー。ちょっとお嫁ちゃんとこ、偵察行ってきてくれるか? 俺らも行きたいところだが、あの状態で他の男がお嫁ちゃんに接触したとしれれば、どんな状態になるのか想像付かないからな」
「了解。ガッコかおうち、突撃してみるわ」
そんなことを言って迎えた次の日。
……我らがエースは絶好調だった。
昨日は一体何なんだという爽やかな顔。世界中の光を集めたかのような眩しい笑顔に、碌に知らない哀れな女子達が顔を赤らめる。
勿論、野球自体も言うまでもない。打っても良し、投げても良し、走ってすら良しで、正に小野無双状態。
いつもと違うのは、だらだらと垂れ流されるお嫁ちゃん情報の代わりに、締まりのない顔で思い出し笑いを浮かべていたというところか。大変怖かった。大変怖かった。
「おい、あれなんなんだ」
「知るわけないだろ」
「まさか、遂にやっちまったとか!?」
「んな馬鹿な! あのお嫁ちゃんだぞ!?」
「いや分からんぞ? 昨日は貴方に無理矢理唇を奪われて思わず逃げてしまったけど、好きならそれが自然と気付いたの。それに一回してしまったんだからもういいかなって思って、とか言われて最後までオーケーされたという可能性も!」
「なんだと!?」
「い、嫌よ嫌よも好きの内というのは都市伝説ではないというのか!」
「これは、勇者に俺らも続けとおっしゃっているのか!?」
「まて早まるな! それには幼稚園時代からずっと一緒にいるという前提条件が必要だ!」
「しまった! 俺らはその努力を怠っている! 俺らには無理矢理ことを進めるだけの好感度が足りていない!」
「おぉ神よ。我らに更なる祝福を与えたまえー」
「「「「あーめんー」」」」
まぁ、馬鹿どもはほっといて。
確かに我が世の春を全て集めたかのような酷いトランス状態だが、多分周りから見るとそんな大したことはない。多分、昨日の絶望の反動で振り切れてるだけで、恐らく話し始めれば細やかな幸福だと思う……多分。
これは女の勘だ。お嫁ちゃんは、馬鹿が言ってたみたいに雰囲気で吹っ切れちゃうタイプじゃないし、そんなお嫁ちゃんが命より世界より中心にあるあの男が、いくら喜びで色々ぶっ飛んだとしても、それを無視することはない。
あるとしたら、お嫁ちゃんが本気で男から離れようとした時くらいだろう。その状態なら、お嫁ちゃんを拉致監禁して泣くのも構わず……と、ドン引きな振れ幅を見せかねない。そしてその場合、本人は世にも恐ろしいほど壮絶な微笑みをしているに違いない。所謂ヤンデレというやつだ。現実にそうそういてはほしくない人種だが、残念ながら我らがエースには素養があるとみている。大変残念だが。
なので、我らがエースが道を踏み外さず、我が野球部を勝利に導いてくれるためには、お嫁ちゃんの協力は絶対に必須なのである。
お嫁ちゃん、何があったか知らないけれど、貴女のおかげで今日も野球部は平和です。
私は、いつものように何も知らないうちに我が部の平穏を守っているお嫁ちゃんに向かって心の中で語りかけた。
はい、たーくん側の外野視点でした。たーくん側は結構楽しんでます。それに引き換え、絵美側の友人たちの心労ときたら……。というわけで今回不憫になってるのは、主に絵美のクラスメイト達でした。
因みに、敏腕マネージャー(自称)なんて言っちゃってるマネージャーですが、実際には敏腕どころの騒ぎではなく。野球部を陰から……というより結構はっきり表だって支配しているといっても過言ではありません。
何せ、たーくんより先に絵美からの差し入れを問答無用で確保することが許され、優雅に差し入れを食していても、誰にも邪魔されることはないという人物ですから。
マネージャーがこの世界で一番の男前(性別は女)であることも併せて付け加えておきます。