〜 炎のレース 〜 第三部 第十六話
☆第十六話
◆不思議のチッチくん
チッチとアウラ、二十頭の山羊を乗せ振り出した雨の中をグローリー号は履帯から泥水の飛沫を巻き上げ走っている。
ジールの街と次のイマルク街で多少の混雑はあったものの、ノイルの案内で失う時間は最小限に留める事が出来た。
他のレース出場者に船を見つかると何かと厄介な事が増えると考え、万が一の為に離れた場所に船を隠した。
人気のない見付かり難い場所を勘の良いチッチは、あっさりと見付け出してしまう。
山羊たちを追って街に入ると二日目の昼を過ぎた頃には、流石に他の出場者も多く到着していて、チッチと手続きの順番を待っている間、他者からの妨害を防ぐ為に山羊たちはアウラが見る事になった。
アウラは、人除けの魔法陣を地面に描き、魔術を行使すると人はアウラと山羊たちのいる一角を避けるように通り縋っていった。
チッチが頼んだとは言え、ノイルの案内のお陰で下水やら匂いの酷い裏通りやらを駆けずり回る羽目に遭ったが、丸一日掛らずに周る事が出来た。
ノイルとはイマルクの街で別れた可哀そうな事にノイルは再度、密かにアウラにアプローチを試みたのだが、桃色が髪のアウラ天使は微笑みを浮かべ、やんわりと断った。
それともう一つ、可哀そうな事に仕入れの為にベールングの街に乗って来ていた自分の漁船をそのままに残して来てしまったのである。
ノイルはベールングの街まで漁師仲間の船に乗せて貰い戻るか、街道沿いにある駅馬車を使って戻らなければならないのだ。
西方面全ての通過証明の手続きを終え、南方面の通過所に選ばれた街ナーンに向かう途中、船に設けられた狭い船室で一夜の休憩と仮眠を取った二人は一路、ナーンの街を目指していた。
次に向かう街はシュベルクからは然程遠くない。ジールの街より広野の中に位置している。
一度ベールング川に入水し再び広野に上がった頃、雨脚は強くなり風も強まった。
広野には所々に泥濘も出来ている。
――昨夜。
時間に余裕が出来た事もありアウラの悲願によって街の公衆大浴槽に入り、さっぱりすっきりとした二人は、チャートルームを兼ねた狭い船室に備え付けられたいる一つだけある板張り狭いベッドとハンモックを吊るしの寝床に入った。
すると、アウラが口を開いた。
「ねぇ……チッチ? 聞いてもいい?」
アウラは遠慮がちに尋ねた。
「なにをなのかなぁ? 別にいいけど」
何時ものチッチの口調が返ってくる。
「この船の事……これ、何時か話していた元船乗りのお爺さんか、お母様に教えて貰ったの? それともエリシャかな? 『さいど……』何とかとか『りたい』とか言う、からくりの事とか」
やわらかい口調の言葉でアウラは聞いた。
「どれも違うかなぁ。母さんは沢山の事を教えてくれた。遠い昔の出来事や人が極北に追いやった蛮族、魔物と呼んでる異種族なんかの事、毒のある食べ物の見分け方や天候の事……いろいろ教えてくれた。爺さんは船の扱いを教えてくれたけど、普通の船の操船とか、原理とかを教えてくれた……それと天測のやり方や夜空に輝く星の中でどの星を基準に航海や旅をすればいいのか、砂漠を旅した時も役立ったかなぁ」
チッチも間の抜けた締まらない何時もの口調で答え言葉を続けた。
「……記憶に残ってるんだ……からくりの原理とか、いろいろな知識が……現状で可能な技術も未知の技術も……たぶん、生まれた時から……現在で作れない物はエリシャが工夫したんだ」
チッチは淡々と話した。
チッチの言っている事の大半を理解する事が出来なかったアウラは取り合えず、一番気になっている事を聞いてみた。
「私がシュベルクに戻る前から、このからくりを錬金技術科のエリシャと作っていたのですよね?」
エリシャの事が絡むとアウラは、つい口調を尖らせた言葉になってしまう。
「怒ってるのかなぁ――、それとも妬いてるのかなぁ」
すっとボケた様子の中に、からかいの混じる口調でチッチが返して来た。
チッチの言葉にアウラは何だか無性に、むかむかする気持ちが湧き上がって来る。
「べ、別に妬いてません! チッチの方こそベールングの街で出会ったノイルさんと私が路地で話してた内容が聞こえて妬きもち、妬いてたんじゃないのですか? 随分、出航前から御機嫌麗しくないようでしたからぁ! 誰かさんは耳も良いですし」
「なんのことかなぁ? 出航前は忙しくてピリピリしてたし、複雑なからくりを上手く操船出来るか不安だった上に操作にも疲れていたからなぁ――、……アウラとノイルの話なんて聞こえなかった……知らないなぁ」
また、とぼけた声でチッチが返して来る。
「ノイルさんが言ってましたよ。騒ぎになりそうになった人混みから手を取って裏路地に逃げた時『僕がきみを守るよ。危険な場所に平気で送り出すような奴が、きみを守れるとは思えない』って……、イマルクで別れ際にもプロポーズされちゃった……ど、どうしようか迷いましたけど、チッチの面倒は私にしか――」
アウラの言葉を遮りチッチは声を荒げた。
「そう! 良かったなぁ……前から思ってたんだ……、俺はアウラを苦しめてるんじゃないかって……これまでも、これからも俺はアウラの仇でグリンベルの悪魔と呼ばれる存在を、この身に宿している。……だからあの時、ランディーたちから逃げ回り学園に行く事を避けていた……、でも、あの時、約束したから……アウラと約束したから逃げないて」
チッチの荒かった声は次第に勢いを無くして行き、最後は悲しさを表すかのように語尾に向かい小さな声になっていった。
「かも、でしょ? ……」
アウラは、突然吐き出したチッチが抱えていた苦しみの吐露と心の迷いに驚き言葉を失った。
暫くの沈黙が続き、会話の無い静かな時間が流れる狭い船室には強くなった雨が船体を叩く音と風がマストに張られたロープを通り過ぎる音はまるで口笛のようでもあり、ロープを切りそうな音が、外の様子を伝えてくる。
――同じ気持ちだった。
その事は良く知っているつもりだった。
自分もそうなのだから……。
何時もは、へらへらして締まりのない間の抜けた様子で本心を見せる事のないチッチだから、本当の意味で気付いて上げる事が出来なかった。
――思い上がりかも知れない。でも……。
チッチは、きっと自分を好いていてくれる。
だから、余計に苦しんでいたのだろう。
仇である人を好きになる……自分もその苦しみに気付き始め良く知っているはずだった。
チッチは何時も危険を冒し自分を助けてくれた。
風狼に出会った時、北の神殿で禁術書を狙う騎士と魔術師の一団の時、北の神殿からシュベルクに帰る途中、何者かにさらわれた時、レース前に羊たちを追って訓練に出掛け傭兵たちに捕まってしまった時も……、時にはチッチ自身の身体に大きな代償を残す循鱗の封印を解いてまで自分を守ってくれたのは、王国の騎士団でも憧れのランディーでもない。
分かっていたからノイルにもそう言ったはず……。
――ここにいる一人の山羊飼いの少年。
アウラは、ハンモックから起き上がっりお尻を支点に、くるりと身体を回して床に足を着いた。
静かに立ち上がりチッチが横になっているベッドの傍に来るとチッチを押し退け、天井を見ながら仰向けになっているチッチに背を向ける形で身体を横にし床に潜り込んだ。
「このからくりは、エリシャが一人で試作したんだ。実験用の小型船に合わせて作ってあった……俺がレースに出るとランディーの部下から聞いて用意してくれたんだ……」
チッチが、ぼそりと震える声で呟いた。
「なぜ、何日も学園休んでいて、突然シュベルクに来たの?」
チッチがアウラと背中を合わせる形で横向きに寝返った。
「……それは言えない」
「この期に及んで私に隠し事?」
「……言えない事もある……言えばきっとアウラが悲しむから」
「私が悲しむような事してるんだ」
「……」
「何処かの女の子と仲良くしてるのかなぁ――?」
「違う……だけど言えない」
「じゃあ、許してあげる」
「言えなくて、ごめんなぁ……」
アウラがチッチの方に寝返りを打とうとした時、一瞬早くチッチの寝返りを打つ床擦れの音が聞こえた。
アウラは、そのまま背を向けていた。
きっと、今寝返りを打てば熟れた桃のように桃色に染まっているだろう、顔を見られてしまう事が恥ずかしくて堪らなかった。
暫くそのままでいるとチッチの腕が腰の上を撫でるように通り過ぎ、お腹を通り越してシーツの中と外側からアウラの腰へと回った。
「チッチ……くすぐったい」
「アウラ……寝床から落ちる」
チッチがそう言うてアウラの身体を引き寄せた。
二人の身体の温もりが伝わり合う。
何時の間にか、チッチは静かに寝息を立てている。
アウラは、チッチの腕枕の中で寝返りを打った。
チッチの顔が、ランプの薄暗い明りの中で近くに見える。
「ごめんね……チッチ」
アウラは、自分の唇を薄い寝息の漏れているチッチの唇に近づけ軽く触れさせた。
その後、強く押し付けその感覚を惜しむようにゆっくりと唇を離した。
「おやすみ……チッチ」
アウラは、そっと紫水晶の瞳を瞼で覆い被せた。
「おやすみ。アウラ」
チッチが起きていた事を知って驚き、今さっき自分のしでかした事に顔から火が噴き出すかと思う程、頬が熱くなった。
「朝……刺さってたらごめんなぁ。アウラ」
チッチが、寝言でも言っているように呟いた。
「なっ! なにが?」
「なんでもない……けど、ごめん」
「うん」
アウラは、混乱していてチッチの言っている事の意味も理解せず「うん」と答えた。
何時しか風雨は収まり掛けているのか、外の様子は先程より静かになっていた。
To Be Continued
最後まで御読み下さいまして誠にありがとうございます。<(_ _)>
次回もお楽しみに!