〜 炎のレース 〜 第三部 第六話
☆第六話
◆姿無き不可視の影
アウラを待つ間、ペグの街に向う準備をしているチッチの傍に通過証明書の手続きをしていた男が近付き話し掛けて来た。
「サインスの街には小僧たちが一番乗りだ。正直驚いたよ。サインスとシュベルクの街の距離は、そんなに遠くない。しかし、あの山のお陰で大きく迂回して東西どちらかの街道を使ってサインスやペグの街には来るんだ。昔はよく山越えをした者もいたと聞くし山道も今よりもっと綺麗に整備されていたと爺さんに聞いた事はあるが、今はあの山道は荒れ放題でまさか山越えをしてくる奴がいるとは思わなかった。小僧! 若いのに大した奴だ」
良く肥えた丸いお腹と身体にあるのかないのか分からない首に据わったまん丸の顔に生えた無精髭を掻き男は、にんまりと大きく口を開いて歯を見せた。
「それもレースが始まって半日過ぎた頃に現れたから街の者たちは皆驚いてたぞ! まぁ、その後、小僧が連れて来た山羊を見て妙な納得の仕方をしている奴もいたがな。魔物の力でも借りたのかなんて言う奴もいたが、ぶっ飛ばしてやった。わはぁはぁはぁ!」
男は豪快な笑い声を辺りに響かせてチッチの力強く肩を叩いた。
「痛い、痛いって、おっちゃんは嫌がらないんだなぁ、俺が山羊飼いだと分かっても」
チッチがそう言うと男はチッチの肩を今度は軟らかく、ぽんぽんと叩いた。
「俺のじいさんは放牧はしてなかったけどな、他から見れば結構な数の山羊を飼っていてな。よく魔物使いだとか悪魔の使いだ! などと罵られたらしいが、俺にはやさしい、ただの爺さんだった。魔物なんて呼べねぇし悪魔でもねぇ天使みたいに、よく皺くちゃの顔に皺を増やして笑う爺さんだった……そうだな? 小僧みたいによく微笑んでいたけ……、といけね! そろそろ休憩が終わっちまう。じゃあな小僧頑張れよ」
男はそうい言うとチッチの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
チッチは大きな丸い身体の男に向かって微笑を返したて言った。
「そんなに酷い雨じゃないけど、早ければ明日の陽が傾き沈み掛ける頃に降り出すから、山の地盤が緩い所には落石除けの柵を作って、備えておいた方がいい」
「はぁはぁはぁ! 面白い事を言う奴だ。分かった皆には伝えよう。収穫祭で浮かれてどうなるか分からんけどな。ありがとよ! 小僧頑張るんだぞ」
男は大きな身体を揺らしながら大声で笑い、そう言ってレース用の通過証明書を発行している建物へと帰って行った。
暫くして黒尽くめの衣装を纏ったアスカが近付いてくると声を掛けて来る。
「言い忘れた事でもあるのかなぁ、それとも俺が伝え忘れてるのか?」
「いいや、どちらでもないが、ところでお前の連れの荷物はどれなんだ?」
「アウラの荷物? そんなの聞いてどうするんだぁ?」
ペシッとチッチの頭がいい音を出した。
「痛い……、 何するんだ? アスカ。 お前は次の任務があるんだろ? こんな所で収穫祭楽しんでていいのかぁ? 俺は困らないけど、ランディーが困るぞぁ」
チッチは頬を膨らませ拗ねた表情を作った。
「いいから、どれだ」
「なんだよ。これだけど、……それよりアウラは? お前まさか!」
ペシッ、アスカの手の平がチッチの頭を再び叩く。
「何も聞くな。それに何もしていない……今はな」
「ならいい。もしアウラに何かあった時には、アスカも姿無き不可視の影の連中を潰してやる。この俺が」
引きしぼられた弓のように反れていたチッチの碧眼を薄く研ぎ澄まし鋭い眼光をアスカに向けた。
ペシッ、アスカの手の平がチッチの頭を三度、急襲し良い音を出した。
「はぁ――、勘違いしない! 今の彼女は我々の保護対象だ、守りこそすれ危害を加える事はしない。……ただこのままの彼女でいてくれればの話だが……、それにチッチ! お前の持つその騎士勲章が何にを意味しているのか、本当に分かってるのか? 我々、姿無き不可視の影の役割を……? もしかしてお前何も知らず、考えずに叙勲したんじゃないだろうな?」
「くれると言ったから貰った。どうせなら食えるものが良かった」
「馬鹿が……大方、ランディーの奴に唆されたんだろう。はぁ――! まったく」
アスカが大きな溜息を吐くと付け加え言葉を継ぐんだ。
「その事は何れ分かるだろう……、それとだ。お前の連れが帰って来ても何も聞くないいな。後、出発は少し遅らせろ。時間はそう掛からない。分かったな」
「分かった。どのみちアウラが来なきゃ出発はしない。アウラの体調次第では、今から仮眠を取って夜中に出発してもいい」
「それで、荷物は?」
「これだけど」
チッチはアウラの肩掛け鞄と山羊の背に載せてある手荷物用の鞄を差し出した。
「それでアウラの体調は良くないのか?」
「それは大丈夫だ。体調に問題はなさそうだが、少々へこんで元気がない。戻って来たらやさしくしてやるんだぞ。いいな」
アスカは少し考えた後、両方の荷物をチッチの手から引き剥がし奪い取ると手荷物と人混みの中へと消えていった。
サインスの街を出たのはアスカが去って暫しの時間が流れてからの事だった。
アウラは何時も放牧に出る時の服に着替えていた。
レース前、チッチに多めに着替えを詰めていた鞄を取り上げられたアウラが持って来た最低限の着替えだ。
肩を落として、とぼとぼ歩くアウラにチッチは声を掛けれずにいた。
アスカから「なにも聞くな」と強く言われている事もあるが、それにしてもアウラの元気がない。
時折「はぁ――」と大きな溜息を吐いては俯いて歩いている。
一度、チッチがアウラの怪我を心配して大きめの山羊に乗るかと聞いたが、アウラは首を横に振るだけで何も喋らず俯いているだけだった。
それどころかチッチが近付くと近付いた分の距離を離れた。
初夏という事もあり陽は長くなっているが、陽は地平線へと消え掛け辺りも大分薄暗くなって来る。
それでも明かりを灯すには、まだ余裕がある。
サインスからペグに向かう街道は普段から人の行き来は少なくも多いが街道程整備は整ってはない、どちらかと言うと山道に近くそんなに酷く荒れた所は見当たらないが、所々に穴が空き平ではなく波打っている。
この辺りの粘土の混じる地質から考え、推測を立てると波打った山道の近い街道の窪地に雨水が溜まり泥濘移動は困難になるだろう。
ただレースの出場者たちは、荷馬車を引いている訳ではない車輪が轍に取られ泥濘にはまり込んで難儀するといった事はないものの、泥濘の道を進むのはやはり困難である事には違い無く、余計な体力と時間を費やされる事は明白だった。
時より山の中から鳥たちの囀る声が聞こえていた山道に近い街道も陽が落ち静まり、辺りには山羊たちの首にぶら下がっているカウベルの小気味良い音色と時折、聞こえる山羊たち鳴き声だけになっていた。
チッチは、鞄から革の袋を取り出すと道沿いに落ちていた拾った木の枝に布を巻き付け松明を数本作り上げた。
枝に巻いた布に獣から油分を絞り出した獣油の入った革の袋から流し布へと掛けた。
獣油独特の獣臭さの残る匂いが辺りに立ち込めた。
サインスでアウラを待っている間に用意しておいた火種を使い集めた木の枝と木の葉で火を熾し松明へと移した。
火の点いた松明をアウラに近付き渡そうとした今度は離れる様子は見られなかった。
辺りが暗くなって来ているせいなのか、考え事をしているのか、チッチが近付いた事に気が付かないようだった。
「アウラ。松明」
チッチが短い言葉をはするとアウラは何か考え事をしていたようで華奢な身体を、びっくと跳ねあがらせ、チッチと距離を取ろうとした。
チッチの手が離れようとするアウラの腕を掴んだ。
「いい匂いがするなぁ――アウラは」
「えっ! ……」
「離れてたけど、甘くていい香りがする。サインスを出た時からずっとしてた」
チッチは、表に出ている碧眼の瞳を弓のように反らしアウラに微笑み掛けた。
何時ものチッチの微笑みが松明の頼りない明りの向こう側に見たアウラは小さく息を吐き胸を撫で下ろした。
「どうかしたのかぁ? 急に」
「なんでもないです。チッチは鼻が利くから、ちょっと気になる事があっただけですよ」
アウラも微笑みでチッチに応えた。
「嫌われたんだと思った。山越えで酷い思いをさせたから……サインスでもアウラの様子に気付いてやれなかったから」
しょんぼりとうな垂れるチッチの姿を見たアウラは申し訳ないという思いに駆られた。
自分の事を気にしてチッチに寂しい思いをさせていたのだとアウラは思った。
サインスの街からここまで山羊の群れを追うのもチッチ一人に任せぱなしでいた。
話す相手がいる喜びを二人は痛い程知っている。
チッチは街を魔物に襲われた際、二人旅を長く続けていたその旅道中で誰よりも話をする事が楽しかった母を亡くし、また自分も幼い時に街を焼かれ、亡くした家族と羊の世話を終えた後の団欒が楽しかった事が今も大切な家族との思い出としてはっきりと残っている。
たまには、家族が団欒中に言い争い黙ってしまい静かな食事をした事もあったが、その時は怒っていても心の何処かに寂しさを覚えたのを思い出す。
「ごめんね……チッチ」
アウラは、うな垂れるチッチをやさしく抱きしめた。
「アウラ? もしかして間に合わなかったのかなぁ?」
チッチが弱々しい声で呟くように言った。
「えっ! そ、そんな事ないですよ。チッチ……、そんな事言わないで……ほら、ペグの街までもう少しだけど、それまで、ううん……これからずっとだね。たくさん話そうね」
アウアは、そう言ってチッチを抱きしめる腕に力を込めた。
「だから、間に合わないとか言わないで」
「でも……間に合わなかったんだろ」
「そんな事ないですよ」
アウラはチッチの身体を細い腕に力を込めて抱きしめ直した。
「……小用」
チッチが、ぽつりと呟いた。
「えぇぇっ! ……チッチのばかぁ――」
からん♪ からん♪ からん♪
揺れる松明の明かりだけが、頼りなく揺れる街道の暗い闇の中に小気味よい鐘の音が鳴り響いた。
To Be Continued
最後まで読んで下さいまして誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回の更新もお楽しみに!