第百話「月のお姫様」〜ウンディーネ視点〜
––––––息を飲んだ。
思考が動いてるのか、止まったままなのか自分でもわからない。
その声はとても無邪気で、子供のようで……以前のようなどこか大人びた様子は、まったく感じられなかった。
「すっごくキラキラしてるんだ……まるで月のお姫様みたい」
私は彼女の顔を見た。
それは苦しんでも親でいる事を諦めなかった人の顔ではない。何も知らず、無邪気に微笑む少女の顔だ。
「月の……お姫様?」
そもそも月とはなんだと思いもしたが、その問いは意味をなさないと直感で察した……。
神は消失した……ここにいるのは純粋無垢な少女だ。
「そう、お月様にいるとっても綺麗なお姫様。ボクのお母さんが読んでくれた絵本で一番のお気に入りなんだ!」
泣いてはいけない……。せめて何も知らないこの子が今ある記憶の残滓すら消えて、言葉すら話せなくなるまでは……私は“知らないお姉さん”でいよう。
「そう……楽しそうな絵本ね」
「ううん……とっても……とっても悲しい絵本だったんだ」
「悲しい絵本?」
夏帆さんが言うにはこういうお話だったらしい。
まず月は、地球という星の外周を周回する星らしい。
その星と地球はいつも一緒にいるが、決して交わらず、決して離れずそこにあるらしい。
そしてその物語の登場人物は月のお姫様と月の勇者様。
二人は愛し合っていて、月のお姫様を守るために勇者は戦い続けてきた。
だけど、当然月は闇に覆われて、二人は地球に避難しようとする。
だけど……地球では戦争というもっと酷い争いが起きていて、それに巻き込まれてお姫様は死んでしまった。
せめてお姫様の亡骸だけでも月へ返そうと勇者様はロケットを打ち上げて、お姫様の体を月のお墓に埋葬した。
そんな……悲しいお話だった。
私はいつのまにか彼女の頭を撫でていた。
くすぐったくて、クスクスと笑う夏帆さんにとって唯一の救いは彼女が苦しまず、こんな素晴らしい光景を見れたことか……。
内心“ふざけるな”と嘆いた。
怒り狂い、運命を呪いたかった。
でも……それだけは許されない。だから私は……ただ笑った。
「変なおねえさん。笑ってるのに泣いてるよ?」
「っ……そうね……お姉さん。変だね…………」
「そうだ。お姉さんが元気でるように、ボクお歌を歌ってあげる。これでもね、すっごく上手だって先生に言われたんだから」
「えっ……」
あまり騒ぐのはマズイ。早紀にはせめてこの式の間だけは夏帆さんから記憶が消えた事を知られたくない。
「い、いいけど。小さな声でね」
「? わかった? シーッねっ」
きらきらひかる おそらのほしよ––––––。
まばたきしては みんなをみてる––––––。
きらきらひかる おそらのほしよ––––––。
「綺麗な曲ね……なんていうお歌?」
「ん……キラキラ星だよ」
すると、彼女の影がさらに薄くなるのが見えた。
神の力の残滓すら消えて姿が保てなくなっている。
すると、夏帆さんがその手を伸ばした。
まるで、子供が手を伸ばせば星に手が届くと思い込んでいるように……。
「届くよ」
私は、その小さな体を持ち上げて、膝に座らせた。もう……彼女は言葉を話す知能を失った。
「––––––ほら、手を伸ばして……星はいつでもそこにあるもの」
手を伸ばしたその手が、次第に光の泡となって消え……
小さな本物の手があらわになった……。
「あーうー……」
もう……会話はできない。
ただ純粋に星に手を伸ばす一歳の女の子……見た目も何もかもの偽証が溶けて、ただの赤ちゃんになってしまった。
私は感情がどんどん溢れだし、涙をこらえる事が出来なかった。
「……ディー殿。もういい。裏で休んでなさい」
コジロウさんが夏帆さんを渡すように促してくる。私も……もう限界だった。
私は言葉に甘えてコジロウさんに夏帆さんの体を預け、涙を必死に両手で抑えつけながら式場を後にする。
その時、後ろから聞こえたコジロウさんの言葉が……妙に耳に残った。
「そうか……お主はちゃんと子供の花嫁姿を見れたのか……。ワシの息子も……あんな感じじゃったのかのぅ…………」
式場から出たあとは、ただひたすらに泣きじゃくった。異変に気付いて駆けつけたファレーナさんの胸を借りて、声が枯れるほど叫んで––––––。
気がついたら式が終わっていた。
もう、早紀もタクミくんもいつもの格好だ。
ただ一つだけ違うのが……涙を流しながら赤ちゃんをあやしている早紀の姿だけだった。
「ディー……ごめんなさい。辛い役を押し付けてしまって……」
「何度も言ったでしょ。私がやりたかったの。……悲しかったけど、後悔はない……。あるとすれば、またブーケ取れなかったなぁって事だけかな?」
「……なんだか不思議な気分。今抱きかかえてるのは間違いなくお母さんなのに、私の子供みたい」
「早紀……」
私はその言葉に危険性を感じて一言告げようかと迷うが、先に早紀が言葉を続ける。
「わかってるよ……この子にはもう寿命が一年しかないこと……それまでは私が……私達が守らなきゃいけないこと……」
その言葉に満足して私は笑みを浮かべた。
「この子を最期の時まで育てることが……きっと今できるお母さんへの親孝行なんだ」
早紀が頭を撫でると夏帆さんは「きゃっきゃ」と嬉しそうな声を上げる。
「俺からも礼を言うよ。ありがとう。そしてすまない。ディー」
タクミから声が聞こえて、私は手を振って否定した。
「このくらいいいって……それより、どうするの? これから」
「俺達はエストに戻ろうと思う。……実はもう家も手に入れてあるんだ」
私はやっぱりかと思いつつも当然の疑問を投げかけた。
「あなたなら王都にでも住めるんじゃない? それどころか、空席の連王の座を狙うのも夢じゃないわ」
「俺は王ってガラじゃねーよ……王ならもっとふさわしい奴がいる。このバットエンドに一番ふさわしい奴がな」
「バットエンドにふさわしい? ……まさかとは思うけどタクミくん」
その時、背後から堂々とした子供の声が聞こえた。
「無論、妾のことじゃの」
「ま、魔王様!?」
予想通りだが、まさか魔王サタンが世界を統治するなんて……。
「アトゥムの二回目のループ時に、一時的にだが、彼女は連王になっている。その時は、しばらくはかなり平和だったそうだぞ?」
「はぁ……なるほど、これがタクミくんの思い描いてるバットエンドってわけね」
確かにバットエンドだ。悪役である魔王の統治する世界なんて本来バットエンド以外の何者でもない。
ただ……その魔王様はとんでもなく平和主義だ。それはすでに証明されている。
「じゃが、妾の悪役としての呪いがある。タクミの運命の破壊者によって多少緩和できるがそれまでじゃ。次世代からは普通に人間の統治に任せ、魔族は王の兼任を約束しない。これでよいのじゃろう?」
「ああ、問題ない」
なるほど。あとは次の勇者が選挙という形で魔王の支配から人間を助ける。そして次の国王になる。
その時にはペルちゃんが世界のシステムを改良するわけね。
「じゃが……そうと決まった以上ゼクスは早急に倒さねばならぬ……奴が今何を考えてるのかは知らぬが、あやつがおる限りは安心とは言えんじゃろう」
「ああ……しかし、自衛隊基地か……」
「……そんなに危ないところなの? そこは」
「この世界を滅ぼさんとしたラスボスと同レベル……下手すりゃそれ以上と考えていいだろう。核は保有してないが、兵器数や訓練量については、文字通り桁が違う。ディザイアを占拠した戦車なんて腐るほど持ってる」
私は、背筋が凍るほどの恐怖を感じて身がすくんだ。
「……あ……あんなものがたくさん…………そんなことって…………」
「本来……自衛隊は自国を守るために存在している。だが、奴は心理操作のプロフェッショナルと言っていい。ならば……自衛隊組織が奴の計画を隠ぺいするために動いている可能性もある」
なんせ相手は神……いくらお話の世界と違ってできることが少ないと言っても、経験については世界創生にまで至る。それならば、私達にはない知識なんていくらでも持っている…………。
「––––––もしかしたら、それこそが…………奴の最強のスキルなのかもしれない」
「––––––え?」
私が、つぶやいた言葉でタクミは小さく言葉を漏らした。
「人なんかでは到底たどり着けないあまりにも長い年月積み重ねた知識……もしかすると、それはもはや私達には手に負えない力にまで発展しているのかもしれない…………」
「積み重ねた知識…………もしかして、最初の神はすでに…………」
タクミの顔がみるみる青ざめていく。何かに気づいたように目を泳がせる。
「……いや、そんなことはない。だが、もしかしたら…………」
様々な思考がめぐらされているようだ。そして、一言早紀には聞こえないように……私に対して、確かにこうつぶやいた。
––––––俺が死ぬしかないのかもしれない。




