剣の四つん這い徒競走(再)
「ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ!」
俺は狭い穴の中を必死で駆けていた、四つん這いで。俺の一張羅であるボロ布はとっくに膝が擦り切れていたが、泣き言を言う暇もなく俺は自分を叱咤しながら走り続けていた。
どうして……?なぜ……?そんな疑問が何度も頭の中を行き交う、そしてぶつかりこぼれ落ちる。疑問がその形を成さない。恐怖で鼓動が跳ね上がっていく。
俺は穴の中で再び奴に追われていた。獣のような存在に、復讐と悲しみに燃える戦士に。尻穴を貫かれた哀愁の変態に……。
「ひぃぃっ!助けてっ!?」
奴が穴の中へ入って来た気配がする。というか音が聞こえた、地面をかきむしるような音だ。奴の復讐はまだ終わってはいなかったのだ。
だが落ち着け、俺は頭の中を整理する。なぜヨージョさまが奴を連れて来たのか、問題はそこだ。そんな必要性があったのだろうか、奴に同情して?せめて復讐を果たしてやろうと連れて来た?ならその相手は俺ではない。人違いだ、八つ当たりも甚だしい。それなら連れて来た男どもの尻を存分に責めれば良かったのだ。
もしかしたらかなりの時間を無駄にした俺たちに、ヨージョさまはお怒りなのかもしれない。いつまでもピクニック気分でいるんじゃねぇよ!と。そうならば口でもメモでも伝言でも、一言貰えれば今後の行いを正そうと前向きに検討していく所存なのだが。方法が余りに酷い、しかもなぜ俺一人に……。
理不尽さとやるせなさに怒りを覚える、だがその怒りは奴も同じだ。首だけ横に向けて背後を見やるがまだその姿は見えない、だがそれも時間の問題。奴の屈強な筋肉なら直ぐにでも俺の背後へ迫って来るだろう。背筋と尻に冷たいものが走る、……もう嫌ですあんな物入りません、勘弁して下さい。
臆病風に吹かれた俺の顔は背後を見る為に横を向き固定される、前と同じで片手に持ったランプが既に邪魔で動きづらい。これのせいで重心が膝にかかり、既に皮がずる剥け程度では済んでいない。置いていこうかと思ったが姉妹に怒られそうだからやめておく。
だって、今回は前の反省を生かして背後に剣を回してあるのだ。賢いぞ俺、今度は簡単に尻穴をやらせたりはしない!
俺は勝利の予感に口元を歪ませる、すると俺の目が光が捕らえた。奴だ……!
「たっ……助けてキョウシちゃん!ジョーシさーん!!」
思わず悲鳴の様な声を上げる。呼んでどうとなるものでも無いのだが、獣がまた前のように立ち止まってくれるかもしれない。そうでなければ三人で袋叩きだ。
一つある直角な曲がり角を抜けるとゴールが見える。前ほど明るくはないが、神々しい光を放った波打つ水が見える。人魚が居るあの空洞だ。ようやく戻って来た……!しかし二人の気配がない。俺の声に反応して穴を覗いてくれてもいいはずだ。何かあったのだろうか……?
「ああああ”-!!」
「ひぃっ!?」
他人の心配をしていられる場合ではなかった。俺の叫びに反応したのか、獣も叫び声を発したのだ。その声は以前の声ではない、怒りよりも悲しみに満ちたものに感じられた。それはオッサンの尻の状況を表しているのだろうか?思わず切なさが込み上げるが、他人に同情していられる場合でもない。
怯えた顔を横に向けると、背後に光る両目が見える。しかしその位置が前とは違っていた、前回は地を這うような位置に眼球があったが、今度は高い。いや、それが通常の位置なのだろう、普通に這って歩く場所にある。もう尻を押さえる必要はないのだろうか、それが悲しみの理由なのだろうか。
そしてそれが意味する事は……、奴は今四本足で俺に迫って来ているという事。両手と両足を使って俺を追ってきている。三本対四本、俺の頭に浮かんだのはそんな恐怖の方程式だった。
「キョウシちゃーん!ジョーシさーん!どうしたの、返事してよ!?」
再度、声を上げるが反応はない。二人に何があったのか……?このままでは運良く穴を抜け出せたとしても奴と一騎打ちになってしまう、勝てる気がしない!ならこの場で背後の神の剣に任せてケリをつけてしまおうか。
だが、俺の怯えきった体はこの競争と止められそうになかった。立ち止まってなどいられるか、逃げるだけ逃げよう、戦うのはそれからでも遅くない。
手足を必死で前後に動かす、出来るだけ滑らかに、前へ進む事に集中する。余計な力を加えない、無駄のないフォームで前へ前へ──。
「ああああ”-!!」
「ひぃぃ……!」
無理です、怖いです。
恐怖のままに体を動かすが、膝が痛くて堪らない。どうして俺がこんな目に……。徐々に怒りが込み上げて来る。
もしヨージョさまが奴を連れてこなければ、もし姉妹がもっと早く穴を抜けていれば、もし俺たちが早くこの場所を離れていれば、もしキョウシちゃんの剣が奴の尻をさっさと離していれば、もし俺が奴と目を合わせていなければ、もし剣が奴の尻に刺さっていなければ──。
考えても無駄な事が頭の中でこだまする、何かが違えば俺はこんな目に会ってはいなかった。そんな後悔のような望みのような、どうしようもなく無意味なものが俺の頭の中を支配していく。
「ちっくしょおおおおおお!!」
「ああああ”-!!」
腹立ち紛れに声を上げる、それに応えるように獣も叫ぶ。声の位置から確実に距離が詰められているのが分かる。
走れ、走れ。怒りと恐怖が交互に湧き上がる、眩暈がするような感覚だ。切れ出した息が喉元で絡まる、だが休んでなどいられない。増加する興奮と絶望感の中でただひたすらに手足を動かす。
怒りは痛みを吹き飛ばし、血でぬかるんだ膝に力を込める。恐怖は疲れを忘れさせ、全身に更なる運動をうながす。走れ、走れ。怒りと恐怖が全身を駆け巡る、それですらエネルギーになる。使えるものは全て使ってひた走れ!
鼓動で耳が塞がる、目は波打つ水に向かって見開かれている。口は開いたままで呼吸をしているのかも分からない。俺は何かを破壊したくて、そして何かを心底恐れている。それが一体何なのか、混乱した頭では既に分からない。
感覚がマヒしていく、俺の手足が地を這う為だけの構造と化していく。膝が滑り、フと体が軽くなるのを感じる。宙に浮いたような浮遊感、そしてそのまま腹を打ちつける。
「げふっ……!?」
何があった……?視界は地面を捉えている、手足を動かすがそれらは土を掻くだけだ。無自覚に押さえた膝がぬめっていた、波打つような痛みが走る。もしやこれが原因なのだろうか?膝の出血でスリップした、ただそれだけの事。よし、と体を起こすが膝が痛む、手足の感覚と疲労感が戻ってくる。痛みが体を縛り出す。
待て、まだ休んでなどいられない。思わず背後を見ると、二つの光る目が視界に入る。再度恐怖が沸き起こって来る、だがそれは膝の痛みを消し去るほどではなかった。緊張感と同じように恐怖心も途切れてしまうものなのだろうか。このままでは捕まる、そして……。
少しでも手足を動かす、それはさっき程の勢いは無くなっている。だが、前を見ると出口は直ぐそこにあった。助けを乞うように体を動かす、前へ、前へ……。
背後を見やるが奴はそれほど近づいては来ていなかった。なぜか拍子抜けした俺はまたしても膝を滑らせ倒れこむ、膝がもう体重を支え切れない。そのまま這いつくばって進んでいく。
「ぐすっ、ぐすっ、うう……」
それは最初、俺の泣き声だと思った。自分が情けなくて泣いているのだと思った。だが俺の目は乾いたままだ。背後から聞こえてくるその声、これは奴のものなのだろう。随分可愛げのある声になったものだ、俺まで悲しくなってくる。
俺は何かを受け入れつつあった、膝の痛みや全身の疲労感と共に、どうにもならない悲しみを。それは奴の中にあるのと同じものなのだろう。ゴールを目の前にしてそこまで辿り着けない自分と、奴の受け入れざるを得なかった苦しみが重なって、俺は何かを、奴の存在を受け入れようとしていた。
「ぐずずっ……、うう、ぐすぐす……」
泣いていたのは奴の方だが、その涙は俺の中にも流れていた。もういい、一人で苦しむな。なぜか穏やかな気持ちになっていた、このまま眠りにでも落ちるように。
あの集落を出てからどれぐらい時間が経ったのだろう、何度も激しい感情に流されて体が疲れ切っていた。もういいんだ、もう。一人で苦しむな。その言葉に体中の何かが流れ出すかのように感じた──。
少しずつ泣き声が近づいて来る、這い寄る音が迫って来る。それは想像以上にゆったりしたものだ、奴にも限界が来ていたのだろう。もういい、好きにすればいい。好きに……あれ?何をするんだっけ?
ハッと目覚めるように顔を起こす、眠りに落ちかけていた俺の意識は急に覚醒する。奴の狙いは、あれだ、そうだ、尻だ。尻穴をその指でえぐって崩壊させる事だ。崩壊?何を。男の中の何かを、しかも強引に有無を言わさず。
待て、待て待て待て待て待て!それはいかんぞ、俺は困る。良く考えろ、百歩譲って奴の悲しみは受け入れよう、だがその後で俺の尻はどうなる。ジョーシさんの指ですら痛くて痛くて、その後の排便に支障をきたしたというのに。奴の太い指が二本も三本も入ってみろ、それがどんな恐ろしい事になるのか──。
「神の剣!奴をぶった斬ってくれ!」
遠くなる意識を何とか引き戻して俺は叫んでいた、もはや他に手段はない。
俺の声に反応して剣が鋭い音を発して飛んでいく。俺はランプを掲げて首を伸ばし、何とか背後を覗き込む。剣は光る二つの目の真ん中を分断するように飛んでいき、そして……、そのまま静かに戻って来た。
やはりダメだったか……。この剣は奴を攻撃できない、キョウシちゃんの言い付けを破れない、期待した俺がバカだった。そう思うと手足が再び動いていた。這う、言葉通りに這いつくばってでも逃げてやる。ゴールは直ぐそこだ、立ち上がれれば勝機はある。ちょろっとでもある。
俺は折れてしまった心を無理やり奮い立たせ、立たない心にせめて当て木をして、立ってる感だけは持って。奴との因縁を終わらせる為に再び地面をかきむしっていた。




