剣の日傘
ぶら下がった大きな傘の中で途方に暮れていた。
手足を外に出せば熱くてたまらない、つかむ物が傘の柄しかないこの場所では登るのも不可能だ。剣が一本で俺を持ち上げる事は出来ないし、下へ降りるのは自殺行為だ。これは正に八方ふさがりという奴だった、どうしてこうなった……。
どうして、俺はただ全力で天井へ向けて這い這いをして上がっていただけなのに。どうして、天井へと続く道である二本の白い雲は消えてしまったのか。どうして俺は急に吹き飛ばされてしまったのか。どうして俺は今この傘の中で身動きもままならなくなっているのか。どうして俺は生まれてきたのか。どうして俺は俺なのか。どうして俺は、俺は、俺は……。
カラ元気が懐かしい、無理に自分を褒めようかと思ったが気力が萎えた。どうして、どうして、どうして……。
正直なところを言うと、悩んだフリをして少し眠りたかったのだ。綺麗に現実逃避して夢の世界でまどろみたかったのだ、だが下のおぞましい風景を見たせいで眠気が飛んでしまったらしい。あれは一体なんなんだ……?
「うん……?」
傘の柄を見上げていると横から細い棒が伸びて来た。光を反射してギラつくその棒は傘の柄と交差すると、そのまま通過せずに柄に巻き付いたようだ。俺が吸い込まれるように見つめていると、急に地面が傾いた。いや、傾いたのは傘だ。緩やかに揺れていた傘がそれ以上の力によって傾いて行く、もしかしてあの棒に引っ張られてる?
「あっつ、あつつつつ!」
なんだか分からないが堪ったものではない、傘の影に隠れていたのに急に日差しに晒されてしまった。ローブに手足や頭を引っ込めるがローブの上からでも熱いものは熱い、日差しというレベルではない、どれだけ熱視線!?
それでも更に傘は傾き引っ張られて行く、もはやローブで手足を隠している場合ではない。俺は傘の柄に抱きつくとこの状況が落ち着くのを祈るように待った。
「あつつつつ、熱い!あっつい!」
傘の柄に巻きついて日差しに焼かれている姿は串焼きのようだ、我が事ながらピッタリな表現に笑えて来る。いや、泣けて来る……。ジリジリと体を焼かれながら傾いて行く柄に体を預けると、後は焼け上がるのを待って美味しく食べられるだけだ。でも、誰に……?
視線を横に向けると真っ黒な大陸や泥のような塊が渦巻いている。それは光を受けているにも関わらず余り反射せずに、光を吸収するかのように黒々と波打っていた。黒いだけなのに不思議と濃淡があって、それが不気味さをいや増しにしていた。
天国はどこへ行ってしまったのだろう、浮かんでいる雲は全て黒い塊に呑まれてしまったようだ。黒い地平の上に黒い大陸が浮かんでいる、しかし太陽だけは妙に明るい。
風景がおかしい、狂っている。
キョウシちゃんに斬られた大陸は今もズルズルと半分だけズレ落ちている最中のようだ。その断面にだけ白い雲の姿があった、天上人たちも全て呑まれてしまったのだろうか……?
熱い……、ジリジリと肌が焼かれる。薄っすら焦げたような匂いまでする。もし黒い塊が大きく口を開けて俺をかじりに来たら、笑顔でこう言ってやろう。
「上手に焦げました~♪」
「……さーん!」
と、……まぁただの負け惜しみだが。
しかし熱い、そして痛い。このままでは炭になってしまう、もしくはいい具合の燻製になってしまう。考えるだけで腹が減ってしまうではないか。
ところでさっき何か聞こえたか……?
「救世主さーん!」
「遅いよ!!」
思わず怒鳴り返してしまう。知ってた、分かっていたのだ。伸びて来たのは剣で、それが傘と俺を引っ張っていた事は。そしてそんな事が出来るのは姉妹しか居ないだろう。だからジッと耐えていたのだ。セミの脱皮のように、串焼きの豚や魚のように……。早く助けて、消し炭になっちゃう。
「どうですかー、無事ですかー?」
「無事じゃないよ!熱いよ、焦げるよ!……熟成燻製だよ!」
「案外、元気そうですね」
人の悲鳴を聞いて元気そうというその感性には疑問があったが、とりあえず助けて貰うのだから文句は言わない。声の主を探して水平近くなった傘の柄にぶら下がりながら、自分の股間を覗き込むように天井に視線を這わせる。──居た、ジョーシさんだ。メガネが光を反射している、熱くないの?
それは天井に出来た穴だった。俺たちが落ちて来た場所であり、そこへ戻ろうと何度も見上げた届かない場所。その場所からジョーシさんが顔を出してこちらを覗いていた。
気のせいか穴が少し大きく見える。……成長した?
とにかくこれで助かった、ようやくまた二人と合流できたのだ。……二人?
「キョウシちゃんはー?」
「ああ、姉さんなら引っ張ってますよー」
引っ張っているらしい。……何を?主語が抜けている。俺はその疑問を口にしようとしたが、ハッと気付いて口を塞いだ。そうか、俺をだ。傘の柄に巻きついた剣、これを引っ張っているのはキョウシちゃんらしい。相も変わらず恐ろしい腕力だ、大の男を丸々持ち上げるぐらいは楽に出来るのだろう。
まるでキョウシちゃんに抱っこされているような気がしていくらかバツが悪い、そわそわする、ちょっと興奮する。いやいや……、熱いからだ、気のせいだ。それよりさっさと引き上げて貰おう。
「で、ここからどうしたらいいー?」
「……どうしましょうかー?」
意外な返事に少なからず驚く、どうやらノープランらしい。とりあえず近くに俺が居たから引っ張ってみました、と。本当にただそれだけのようだ。えっと、どうしよう。どうやったら俺はあの穴に戻れるんだ……?それより何より、まずは──。
「もう無理!熱い!放して!焦げちゃう!!」
「あ、姉さん聞こえました?」
「はーい」
遠くからキョウシちゃんの声が聞こえた、なぜか随分懐かしい感じがした。だがその声に吹き飛ばされるように俺の体は落下を始めていた。
「わっ、うわっ、うわっ!うわあ!わああああ!?」
加速度を増して落ちて行くかに思えた俺の体は、抱きついた傘の柄によって吸い寄せられるように横へ横へと引っ張られて行く。全身が押さえ付けられるように、振り回されるように下へ横へと移動していく。いわゆるこれが遠心力、That's遠心力。落ちるよりマシだけど、これはこれで嫌だー!!
「ああああ……、あ?」
いつの間にか上へ上がっていた俺の体は祝福を受けるように速度を緩めていく。ああ、生きてる。ありがとうありがとう。それだけで十分だ、もう速いのは嫌。
そしてそのまま最高地点へと到達すると、一瞬の停止の後に再び落下が始まった。
「分かってた……。分かってたけど、いやあああああ!?」
行けば帰る、押せば戻る、食えば出る、登れば落ちる。そんな物の道理を俺に教え込むように、傘は再び落ちるようにスライドしていった──。もういいです、十分分かりました。分かりましたってば!
そんな地獄の揺りカゴを何度も繰り返した後、ようやく俺の体は元の位置へと戻るのだが。それに気付くにはもう少々時間が必要だった──。
「速い……、速いのぉおおぉ!?」
「速いのヤなのおおぉおお!?」
「どうしてなのおおぉお!?」
「止まらないのおおぉ!?」
「はぁ……、おぉお!?」
「のおおぉおお!?」
「おおぉ……!」
「もういい、さすがに叫び疲れた」
揺れは治まったのだろうか……?まだ体が動いている気がする。これが世に言う脳が揺れるという奴だろうか、言わないっけ?
何やら頭がフワフワする、気分は悪いが浮遊感がある。成りたくないのに無理やりハエにされて汚物の上を飛び回っているかのようだ。うっぷ……。
自分の想像に思わず吐き気をもよおす。吐くものなど無いのに器用なものだ、そんな事を考えているとどこからか声がした。
「……さまー。大丈夫ー?」
この声はキョウシちゃんだろうか。顔を上げて天井の穴を探すが、遠い──。思った以上に距離がある、姉妹の顔の見分けも付かないほどだ。
原因を作ったのが誰であれ一応心配されているらしい、なら返事をしておかねば。俺は目一杯口を開くと大声で叫び返した。
「大丈夫じゃないー!」
「……なんてー?」
「吐き気がするー!」
「……聞こえないー」
「苦しいー!!」
「……なーんーてー?」
「死ぬー!!!」
「……分かんなーい」
俺は何をしているのだろう。どうして自分の不調を伝えるのにこんな一生懸命にならねばいけないのだろう。まるで自分がバカである事を必死に証明しているかのようだ、……バカだ。叫び過ぎたせいでまたも目まいに襲われる、どんな嫌がらせだこれは。
とりあえずこの距離で会話は不可能だという事は分かった、かといってまた引っ張られて地獄の揺りカゴコースも勘弁願いたい。ここは一人で穴に入る方法を考え出さねばならない訳か。
日差しを避けて仰向けになると、うーん……とうなり声を上げて考え始める。神の剣が三本あれば俺を持ち上げる事が出来るのは前の木炭人間の塔(崩れた)の時に分かっている、支えるだけなら一本でもいけるようだが。なら案外答えは簡単かもしれない、まぁ剣が三本あるのが前提なのだが──。
考えていると視界の隅から棒が伸びて来る、その棒は傘の柄に向かってグングン近づいて来る。ってちょっと待て!
「キョウシちゃーん!!ダメ!やめて、死んじゃう!俺、救世主、死ぬ!これ、死ぬ!!」
「……聞ーこーえーなーいー!」
なんて事だ、キョウシちゃんは再び俺と会話する為に俺を拷問にかけようとしている。一切悪意は無いのが逆にすがすがしい、コミュニケーションって大事だね!俺は必死で首を横に振ったり両手でバッテンを作ってみたが、剣は一向に止まろうとしない。そして俺の首根っこ、じゃなかった傘の柄を捕らえる。
まずい、まさかこんな形で再起不能にされてしまうとは。昨日の味方は今日の敵とは言ったが、助けようとしてくれている味方にトドメを刺されるなんて思ってもみなかった。……待て待て、まだだ、待てってば。
「神の剣、ストーップ!!」
俺の声が届いたのか、剣はピタリと動きを止めた。……助かったか!?




