剣の急上下
「爺さん……どうしてしまったんだよ、爺さーん!!」
「救世主さん?何をしてるんですか。早く上がって来て下さい!」
「ダメなんだ……、爺さんが天に召されようとしている。だからもうダメなんだ!爺さーん!?」
俺は更に降下していた。黒い川が俺を歓迎するようにその身をうねらせる、そして黒いトゲのような物体をいくつも跳ね上げて来る。すると神の剣は俺の指示も余計な振りも必要とせず、瞬く間にそれらを切り裂いてしまった。
さすがはデキる剣。今はまだこの剣が処理してくれているからいいが、さすがにこの中へ落ちてしまえばそれまでだろう。一体どうすればいい……?そして爺さん、爺さんの身に一体何が起きているんだ!?
「爺さんというのはその人の事ですか……。では、天に召されるとはどういう意味ですか?」
「何を言ってるんだジョーシさん!そんなの決まってるじゃないか!」
ここへ来て言葉の意味を問われるとは思ってもみなかった、これはジョーシさん流のジョークなのだろうか。ジョーシジョーク、これは中々笑えないやつだ。いいかなジョークさん、今はそんな事を言っている場合ではないんだよ。
天に召されるとは言葉通りの意味で、天命を全うして天国に旅立つ事を言って──あれ?天国?……じゃあここは一体どこだっていうんだ。天国から天国へ?でもここは偽物の天国だから……、偽物?そもそもこいつらも人じゃなかったような。あれ?あれれー?
「救世主さん、気付かれましたかー?」
「うん……。いや、でも爺さんの顔色が悪くて。そうだ、息もしていないんだ!」
それに気付いたのはつい今さっきだった。顔色の悪い爺さんの口が開いていない、更に肩や胸元も微動だにしていないのだ。これは間違いなくダメなやつだ、危篤のなせるワザだ。深呼吸が必要だ、迅速かつ正確な処置を。マウス・トゥー・マウス、俺はしたくないけど!
「ここの人は全部、息なんてしてません!!」
──え、マジで。その言葉で頭の中が真っ白になる、少しも気付かなかった。じゃあ爺さんの顔色が悪く見えるのも気のせいなのか?それならどうして俺は落ちて行っているのか。ああ、そろそろ俺の足がヘドロのような黒い川に着水しようとして──。
「それより早く上がって下さい!」
「ああ、そうだ。あれだ……、神の剣!」
そのひと言で剣は姿を変える。足元から伸びて来た黒いトゲのような塊を平らになった剣はその平らな面で受け止める、するとそのまま俺を有翼人ごとまとめてグングン上へと持ち上げて行く。そうだ、これはいつかジョーシさんが使った剣の盾。あえて名付けるのなら……、剣の盾でいいか。特に浮かばない。
敵の攻撃を受け止めながら危機を回避する、これは中々の業前だった。だがジョーシさんの時と多少違っているのは俺が手を使えなかったという点か。平らになった剣の背中を両足で踏みつけながら、俺を持ち上げていた連中と体を密着させて上昇して行く。これは中々暑苦しくて肉々しくて、更にシワシワしかった。
いや、連中に体温は感じないのだが、それでも見た目は半裸の男たちだ。今すぐ姉妹を持ち上げている女の有翼人たちとチェンジして欲しかったが、残念ながらそうも行かないようだった。それに思ったより早い、剣を貫こうとしているのか黒い塊の突き上げが凄い。やめて!そこは物を入れる穴じゃないのよ!
男たちの密着感、更に足元から無理やり持ち上げられるという余り慣れない感覚に俺の体は奇妙な酔いを感じていた。そして腹の底から湧き上がるようなこの酸っぱいものはなんだろう。甘酸っぱい……?いや、ただただ酸っぱい。うっ──。
「救世主さん、どこまで行くんですかー!?」
「っ──!」
口を開くと何かが飛び出しそうだった。俺の胸の内に秘められた大切な想いが、願いが……!それを口にすれば今の俺たちの関係は崩れてしまうかもしれない、嘘で表面を塗り固めた俺たちの関係が。そんな悲しい想いなら最初から抱かなければ良かったのに──。
愛してはいけなかった、想う事すら許されなかった。その唇が、髪が、その存在が俺を苦しめる。内側から心を変質させる。恋は呪いだと誰かが言ったが、呪っているのは俺の方だ。出会わなければ良かったのに、せめて出会う順序が違っていれば……。
込み上げる想いに息が出来ない、君を壊していいですか?きっとそれは許されない、そして俺も許さない。想いが形にならないように、口を閉ざして吐き出さないよう力一杯飲み込むと、酸っぱいものが上下して上下してウェッてなって吐きたいけど吐き出す物がなくて、だって何も食べてないから。でもほら、また来たよウェッて、ウェッて──!
「ウェッ……!?」
急に上昇が収まった、お陰でちょっと吐いただけで助かった。……ちょっとだけね?ようやく肉厚とシワ厚と酔いから解放された俺はめまいを覚えながらも周囲を見回す。
剣が元の姿に戻ると黒く長いトゲのような棒が足元から落ちて行くのが目に入った。それは途中で分断されたようだ。遥か下には真っ黒な島と二人を持ち上げているであろう翼の群が二つある、俺は随分高いところまで突き上げられたようだった。
めまいと吐き気で妙な幻覚を見てしまう程度には上り詰めてしまったらしい。フと目を上げると、そこにはいくつもの羽根に混ざって茶色い壁があった。あ、これは天井か。
やぁ、こんにちは。久し振り──。まさかそんなに高い場所に居るなんて思ってもみなかった。でも、そろそろ行かないと。
俺の体は徐々に下がりつつあった、頭上の翼は羽ばたいてはいたが、俺をその場に留めておくほど力はないらしい。しかし、なんだろう。何か言い残したような気がする、挨拶だけしてソッと帰るような、そんな優しい関係ではなかったような。この天井に何かを伝えなければ、だがそれがなんだったのか思い出せない。
混乱する頭を抱えると俺の腕をつかんだ有翼人たちがせわしなく動き、翼同士が擦れ合う音がして俺の体は今度は一気に降下して──。
「ごきげんようぅうううぅう!?」
激しく持ち上げられたと思ったら今度は突き落とされる。やっぱり上げて落とすは基本なのだろうか、でもとても理不尽だ。上がり方も決して気持ちの良いものではなかったのに今度は落とすとは──。
頭の血がまたどこかへ移動する、めまいに次ぐめまいで目の前と頭がクラクラする。どこかに吸うだけで気持ち良くなったり悪くなったりする薬があるらしいがこんな感じなのだろうか。でも、これは間違いなく悪くなる方だ。
バサバサと翼の音がする、時折浮遊感がある。が、また落ちていく。何かがおかしい、翼があっても空は飛べない。貴様らの翼は見掛け倒しか!?
「ひやあぁあああぁあぁ!?」
眼球が乾く口の中が乾く呼吸が詰まる。何か何か、手はないか何か。ワラにもすがるがワラが無い、飛べない鳥は鳥じゃない。無い無い尽くし無い尽くし、無い無い尽くし無い尽くし。落ちる鳥には自由もない、風はそれほど笑っていない。無い無い尽くし無い尽くし、無い無い尽くし無い尽くし。昨日の俺とはおさらばしたさ、故郷の町に手を振って。無い無い尽くし無い尽くし、無い無い尽くし無い尽くし。必死で働き暮らしも手にし、夢にすがって明日を生きる。場所や時代は変わったけれど、俺は一つも変わっちゃいねぇ!無い無い尽くし無い尽くし、無い無い尽くし無い尽く──。
「救世主さん!?」
「あらあら……」
悲鳴のような声で我に返る、風圧で顔の肉が取れそうだ。それでも左右に揺れているのは有翼人が足掻いているせいだろうか。再びノドの奥から酸っぱいものが溢れそうになる、それでも俺は構わずに口を開いて叫んでいた。
「がみのくぇっぺぁー!?」
何かが一気に解放される、俺の中に貯まり切っていた何かが。それと同時に目の前で剣が大きく広がって何も見えなくなる、布を広げたような音がして俺をつかむ腕に力がこもる。そして畳みかけるように金属のぶつかる音、俺は広がった剣に全身を密着させると口の中から酸っぱい何かを多量に放出した。
──俺は黒い塊の中へと落下した、着地だか着水だかをする為に剣を拡げたのだ。だが残念ながらそれだけではどうにもならずに、俺は真っ暗な世界の底へと落ちて行った。とにかくもう、落ち着けるならどこでもいい。激しい上昇と下降で体の芯がズレた感じがする、このまま目を閉じて少し休もう……。
「ほんと、手が焼けるわねぇ……」
「どうして降りて来るんですか!かなり上に行ってましたよね?どうしてそのままここを抜け出さなかったんですか!?」
何やら騒がしい、もう少し眠らせて貰えないだろうか。そして思ったより明るくて暖かい、ヘドロの底とは案外そんなものかもしれない。
「案外、私たちを残して行くのが嫌だったのかもしれないわよー?」
「──そ、それは。余り正しくない判断です!」
「でも、悪くはないよねー」
「……姉さん!」
何やら和やかなやり取りが繰り返されている、汚水の底とは思えない。どうしてこんなに暖かいのだろう、体に力が宿っているのだろう。もう少し休んでいたいのに、無理やり生命力を注入されているかのようだ。どうしてこんなにポカポカ温かいのだろう──。
「あ、お目覚めじゃないー?」
「救世主さん、気分はどうですかー?」
何やら気分は最悪だった。一瞬眠りに落ちたような数時間は眠っていたような、とにかく意識の中断は感じたのだが状況に余り変化はないらしい。
俺は有翼人たちに抱えられていた、眼下には前と変わらず黒い川が流れている。何一つ好転していないこの状況に絶望感すら感じる、もうちょっと眠らせて……。
「ほんとに危なかったんですからね!ボクと姉さんの剣で絡まった救世主さんの翼の人をほどいて、サビの中に突っ込んだ救世主さんを何とか拾い上げ……。って聞いてますか?」
「何だか参ってるみたいだからやめてあげたらー?さすがに私の怒りも冷めたわ」
「姉さん、何か怒ってたんですか?」
「えっ、別に……」
少しの沈黙が続いた後、ジョーシさんが落ち着いた声で言った。
「とにかく、道は出来ました」




