剣の業火
一瞬の意識の空白の後、足が地についたのが分かった。だが、悶えるように体を動かしていた俺は盛大にバランスを崩して倒れこむ。仰向けになって見上げたその場所は、赤で満ちていた。
「いてて……、暑い!」
痛みより強く感じたのはその奇妙な暑さだった、上とは大違いだ。空気がやたらと乾いている、まるで目玉焼きにでもなった気分だ。燃え盛る炎が柱のように天井まで伸びていて、その炎の中に人影のようなものがうごめいている。
いや……、あれは人だ。何人もの人が叫び声を上げながら燃えている、その声が噴出するような炎の音に混ざって響き渡る。まさか本当に目玉が焼かれているとは……。
じゃあ、俺たちが聞いた声はこの人たちの?決して聞き間違いや悪魔の囁きではなかったのだ。
「救世主さん!」
「ああ、ジョーシさん。無事で良かった……」
俺の方へジョーシさんが駆けて来る、その顔はいくらか安心しているように見えた。なら、キョウシちゃんも無事なのだろうか。
一瞬気が緩んだ俺に、見上げていた炎の柱が傾いて来る。とっさに神の剣!と叫ぼうと、口を開く、だがその途端に炎の柱が二つ・三つと分断された。空気を斬る音、空間が割れたような分断が目の前を走り、呆然とする俺の前に立っていたのは……キョウシちゃんだった。ここへ降りた時と変わらぬ鋭い目をしている。
「もっと水を」
「は、はい!」
キョウシちゃんの指示でジョーシさんが剣を天井へと伸ばす、それは小さな穴を作っていくつかの水滴を周囲に落とした。さっき足元に出来た穴はこれだったのだろうか。だが、水はやはり直ぐに蒸発してしまう。
キョウシちゃんは再び炎の柱へ駆け寄ると、見事な剣さばきでそれをいくつかに分断していく。どうやら人影の大きさに合わせて斬っているらしい、助けようとしているのだろうか……?
人の形をしたそれは叫び声を上げるだけで、もはや生きているとも死んでいるとも言い難かった。それを、助ける……?俺にはキョウシちゃんと意図が分からない。ここまでひどい状態の人たちを助けてどうするつもりだろう、どうにかなるとは思えない。っていうかそれ以上に問題なのは、ここが地下だという事だ。
絶対こいつら人間じゃないだろ、この真上に居る天上人風味の連中と同じで、こいつらだって絶対そういう何かなのだ。そういう不確かで怪しい何か。それに対してどうしてこんなに真剣に、しかも自分の命を賭けてまで──。
「どう、何とかなる?」
「……分かりません」
この茶番をやめさせたかった、そんな連中助けてもなんの意味もないぞ!と大声で叫びたかった。だが二人のひたむきな救助活動を見ていると、そんな気は萎えてしまった。ここまで来て俺はまだ何を余計な事を考えているのだろう。
俺は剣を握り締めるとキョウシちゃんに向かって叫んでいた。
「なぁ!俺は何をすればいい?」
炎の柱を分断していたキョウシちゃんはその手を止める。そしてようやく俺を確認したように見つめると、素早く走り寄って来た。
「救世主さま、剣を貸して」
「あ、ああ……どうぞ」
そう言うと素早く俺の手から剣を奪うと、左右の腕で二本の剣の振り心地を試すキョウシちゃん。その髪も服もすっかり乾いている。そしてキッと天井を見上げる、何かするつもりらしい。その口がつぶやくように動くと、二本の剣が伸び上がる。手ごたえの薄い音を立ててそれらは天井に大きな二つの穴を作った。
それはジョーシさんの剣よりは大きな穴だったが、結果としては僅かな水滴が降って来ただけで大した効果は得られなかった。
不満気な顔を浮かべるキョウシちゃん、この程度ではまさに焼け石に水だ。ここは見渡す限りが燃えていて、まさに火の海といった様相だ。薄っぺらい海の下には本当の火の海があって、こっちの方がよっぽど本物らしいとい。何やら皮肉な話だ。
恐らくその炎の一つ一つが燃え上がった人なのだろう。やはりここは……、あそこなのだろうか。天国の真下に広がった阿鼻叫喚の世界、きっとこの先にも違った責め苦が用意されていて人々が苦しみ続けている。ここはやはり──地獄。
不意に水滴が顔にかかり、俺は天井を見上げた。だがそれほどの穴は出来ておらず、大した変化は見込めなかった。キョウシちゃんの表情が曇っている、ジョーシさんの舌打ちが聞こえる。中々上手く行かないようだ。
っていうかちょっと待って!俺が手ぶらでひどく手持ちぶさたなのだが……?
「あの、キョウシちゃん?俺は何をすれば……?」
「……あっ、えっと。じゃあ、救世主さまは子猫の世話でも──」
「えぇ、子猫いないし……」
それきりキョウシちゃんは考え込んでしまった。その手はイライラするように剣を上下に揺らしている、猫じゃらしでも振っているようだ。
どうだろう?今こそ俺が活躍すべきタイミングではないのだろうか。満を持して登場、切り札であり最後の手段、隠し玉で奥の手の最終奥義。それこそが救世主。よし、こんな救う価値のない連中でも俺が救ってやろうじゃないか!
俺が鼻息を荒くしていると、キョウシちゃんが悟ったように俺の顔を見る。そうですよ、やっと気付きましたか!お目が高い。
「救世主さま!」
「おうよ!」
「応援して!!」
「よし、頑張れキョウシちゃん!!……えっ」
キョウシちゃんは二本の剣を重ねて両手でつかむと、鋭い目で天井を見上げた。何かが始まる……、それを察した俺の耳から阿鼻叫喚が遠ざかる。嵐の前の静けさだ。二本の剣が揺らいで見える、それは熱のせいなのか本当に揺れているのか。俺には何が起こるのか想像がつかなかった。
キョウシちゃんの口がとがり、素早く息を吸い込む。次に出て来る言葉は分かっていた。
「神の剣!!」
「キョウシちゃん、頑張れ!!」
声に合わせて俺も叫んでいた。応援しか出来ないとは情けない、だが俺は何かが起こる予感に心をときめかせていた。情けなかろうが不甲斐なかろうが問題ない、俺はベストな応援をすれば良いのだ!
キョウシちゃんの手元から二本の剣が伸びる、その二本は互いに絡まるように回転し天井を貫いた。そこに出来たのは大きな穴だ。……だがそれだけだ、さっきより少し大きな穴が出来ただけ。むしろ二本で別々の穴を作った方がまだマシと思える大きさだった。
俺は思わずキョウシちゃんを見る、俺のベストな応援を返して!とでも言うように。だがキョウシちゃんはまだ天井を見上げていた、そして巨大な旗を振るかのように二本の剣を大きく傾ける。すると、うなるように風が動いた。風だけではない、頭上からも音がして見る見る内に日差しが差し込んで来る。
驚いて天井を見上げると、そこでは剣が踊っていた。二本の剣が絡まるようにグルグルと回り続けていた、それはキョウシちゃんの腕の動きに合わせて天井の岩を削りながら空を押し広げていく。
”風車剣”、俺は思わずその旋回する剣にそんな名前を付けた。でも口にはしない、きっと却下されるから。
「凄い……」
俺の背後からため息のような声が聞こえる。ジョーシさんの声だが、それは俺の心の声でもあった。
はがれた天井から次々と水滴が落ちて来る、それは剣によって拡散され熱によって吹上げられたものだろう。その水滴が雨のように次々と降り注いで来る、その上には雨雲のように曇った色の空が広がっていた。
「恵みの雨だ……」
見上げながら俺はそんな言葉を口にしていた。焼けた地面を水が濡らしていく、頬を伝う水滴をなめて乾いた喉に送り込む。不思議なもので、不穏で偽物にしか見えなかった天国もこんな場所から見ればそれなりのものに見えた。
それでもまだ剣の旋回は続いている、キョウシちゃんは何をするつもりだろう。二本の剣を丸太でも振り回すように体ごとグルグル振り回していたキョウシちゃんは動きを止める。その表情は真剣そのもので、何かをやり遂げたという顔ではない。これだけの事をしてまだ足りないというのだろうか。
急に雨が止むのを感じる、周囲の光が点滅しているようだ。回りを見回すが原因が分からずに、フと空を見上げると剣が羽を拡げていた。
「……え、何?」
二本の剣は回り続けている。だがその縦に伸びていた刀身は横に広がり、ちょうど天井辺りの高さで大きな面を作って回り続けていた。まるで本当の風車のように。これを使ってキョウシちゃんは何をするつもりなのだろう。その顔を見ると珍しくためらいのようなものが浮かんでいる。あ、目があった。
「ねぇ、救世主さま。私、出来るかな?」
「大丈夫、キョウシちゃんなら出来るよ!」
何をするのかは分からないが、その気持ちに偽りはなかった。キョウシちゃんはいつだってやり遂げて来た、必要以上に。なんなら俺まで倒す勢いで。だから俺には即答が出来た。
そんな俺の反応にキョウシちゃんの表情が晴れる。それは嬉しい変化だったが、内心また犠牲者が増えるだろうと複雑な気分でもあった。なんの犠牲者かは分からない。
「なら、救世主さま。応援し──」
「頑張れキョウシちゃん!君なら出来る!!」
「そう……、私なら出来る!!」
頭上に出来た風車のような剣を抱えてキョウシちゃんが走り出した。最初少しバランスを崩したが直ぐに持ち直し、離れた場所の天井も押し広げていく。
風車が地獄に雨を降らせる、それは不思議なイメージだったが。埋め尽くすような赤い炎が灰色の雲に書き換えられていくのは見ていて爽快だった。
しかし……。
「キョウシちゃん、どこまで行く気なんだろ……」
「……ボクにも分かりません」




