剣の地の底
水面に開いた穴からモクモクと湯気が立ち上がっている、この下には何があるというのだろう。
穴を作った張本人であるキョウシちゃんにもその現象は予想外だったらしく、しきりに目をパチパチさせている。
「……それほど危険はないようですね」
「いや、まだ何が起こるか分からないぞ」
「救世主さま、怖いこと言わないでよ。……きっと温泉でも沸いてるんじゃない?」
理解不能な事が起こってはいたが、正直なところ少しばかり安心していた。この水面が見た目通りに鏡のような物体なら、ヒビが入ってその隙間に落ちるか、割れて全てが崩れ落ちてしまうのではと思ったからだ。
別の可能性を言えば、この考えが一番確率が高そうに思えたのだが。
穴を掘るとそこが水で埋まる、しかし次の空洞は見つからない。それでも水の中で穴を掘る、空洞は見つからない。水の底で掘れども掘れども、空洞に辿り着けない。でも掘る、どんどん深くなる、水の奥底へと沈んで行く、沈んで行く……。
「何か燃えているようですね」
ジョーシさんの声で我に返る、きっとそんな想像をしてしまったのはこの子にストローのような物体を渡されたからだろう。どうやら一人で水の奥底に沈む恐れは無くなったようだが、水の次は火か……。
穴を覗き込む姉妹。なぜか楽しそうに見える二人に違和感は感じたが、俺もまたうずく好奇心に駆られて穴の方へと顔を近づける。凄い蒸気と熱だ……。
「うわっ……!?良くそんなに近づけるなぁ。熱くない?」
「何か健康に良さそうでさぁ」
「……」
顔から水滴だか汗だかを流しながらキョウシちゃんが言う、それ以上健康になってどうするつもりですか。神を超えるんですか、それとも人類を滅ぼすんですか。
ジョーシさんの方は無言で穴を覗き込んでいる。メガネが曇るというレベルを超えて、白く塗りつぶされたようになっている。何が二人をこうさせているのか……。
姉妹から一歩引いた位置からでも、穴の中が赤く燃えているのが見て取れた。それと同時にジュージューと水の弾ける音も聞こえる、どうやらこの湯気は流れ込んだ水が熱で蒸気に変わっている音らしい。少なくとも温泉が湧いている音ではない。
「ここの水が温かいのは、この火のせいかもしれませんね」
健康的に汗を流しているだけかと思われたジョーシさんが言う。どうやらこちらは冷静に分析していたらしい、見えているかは不明だが。つまり俺たちはずっと足元を火で焙られていたという訳か、目玉焼きにでもなった気分だ。
何にしろまた行き詰ったという事になる、さすがに火の中に飛び込む訳にはいかない。どこぞのイカロスやウサギではないのだ。もう少し離れた場所に穴を掘れば大丈夫かもしれない、そう思い周囲を見渡したその時だった。蒸気を受けていたキョウシちゃんがポツリとつぶやく。
「ねぇ、何か……聞こえない?」
「へ?」
「何がですか?」
穴の側でキョウシちゃんが真剣な顔で耳を澄ましている、それに釣られて俺たちも顔を寄せる。だがジュージューいう音の他に何も聞こえはしない。それはジョーシさんも同じらしく、曇ったメガネの裏で眉をひそめている。
何も聞こえないよと口を挟もうとしたが、キョウシちゃんはそれでも真剣な顔で何かを聴き取ろうと耳に意識を集中している。その半開きの口から言葉が漏れる。
「す……け、て」
「何ですか?」
「聞こえるのよ。た……すけ、て。ほらっ、やっぱり!」
一人うなずくキョウシちゃん、その前で俺とジョーシさんが顔を見合す。更に穴に顔を寄せるてみるが、これ以上は熱くて無理だ。下手すれば火傷してしまう。近づくだけでもこれなのに、とてもじゃないがそんな熱いところに人が居るとは思えなかった。
「聞き間違えじゃないの?キョウシちゃん」
「え、聞こえないの?」
「ボクにも何も聞こえませんでした」
俺たちの言葉にキョウシちゃんが唖然とする、だがそれも僅かな時間だった。キョウシちゃんは決意を固めたように太い息を吐くと、何を思ったか急に水の上に横になって転がり出した。
姉の余りの行動に言葉を失うジョーシさん、もちろん俺もだ。急にどうしてしまったのだろう、まるで何かに操られているかのようだ。
もしや、何かを聞いてしまったのだろうか。この世ならざる者の声を、それによって操られてしまっているのだろうか……?だとしたら危険だ。
「あ、今何か……」
「え」
「聞こえませんでしたか?救世主さん」
首を振って答えるが、俺は内心焦っていた。どうやらジョーシさんにも聞こえてしまったらしい。まずいぞ、まずい流れだ。三人の内、二人が意識を操られ、しかも残ったのがよりによって俺一人とは。これはさすがにまず過ぎる。
俺は慌ててジョーシさんの肩をつかむと力一杯揺さぶった。突然の事にされるがままのジョーシさんだったが、唯一ずれたメガネを指で押さえるのは忘れなかった。その結果目の周りにメガネがガシガシぶつかっているのだが、俺はそんな事を一切気に掛けずそのままジョーシさんに向かって叫んでいた。
「ジョーシさん、行っちゃダメだ!戻って来ーい!戻って来ーい!!」
「な、な、何を言って、……こ、こ、こに居るじゃな、な、な」
俺の必死の呼びかけが功を奏したか、ジョーシさんはまだ無事のようだ。いくらか目の焦点が合っていないようだが、それも俺が揺すっているせいか。少なくとも急に水の上に転がったりはしないだろう。
そう安心したのも束の間、キョウシちゃんがずぶ濡れになった姿で穴の前に立っている。衣服が肌に張り付いて筋肉質で見事なスタイルが浮き彫りになっていた。だがその顔には濡れた髪がまとわりついて、まるで蛮族の長といった風体だ。色気よりも荒々しさが際立っている。
「神の剣、行くわよ!」
「……どこへ?」
「姉さん……?」
あっけに取られた俺たちの前で、キョウシちゃんは穴の中へと飛び込んだ。その目は真剣でいつになく鋭く光っていた、動きに関しても一切の迷いは無かった──。
どうして?そんなところ行っちゃダメだよ。戻って来い……!何が起こったのか理解できない俺の手をジョーシさんが強い力で振りほどく。
「姉さん!?」
止められなかった……?ほどかれた手の痛みが罪悪感となって圧し掛かる。俺が一人になりたくないとジョーシさんにすがっていた、助けを求めていたせいでキョウシちゃんを止める事が出来なかった。俺は一体何をしているのだ──。
「救世主さん、行きましょう」
「……へ?」
「早く姉さんを助けないと」
「え……、でも」
そんな危険な場所に飛び込んでいい訳がない、何を言ってるんだこの子は。でも、キョウシちゃんは飛び込んだ──。飛び込んだ?
状況を受け入れられない俺を置いて、ジョーシさんはメガネを外す。その目もまた真剣そのものだ。真っ白になったメガネを懐に押し込むと、代わりに短剣を取り出した。
「神の剣、お願いします!」
ジョーシさんは短剣を下へ向けると、迷いのない動きで穴の中へと姿を消した。
行っちゃダメだ、戻って来るんだ。そんな場所に飛び込んではいけない、きっと何かに操られているだけなんだ。だから俺はそんな場所には……。
足元を見ると一人分の波紋で水面が揺れていた。二人はどこへ行ってしまったのか、巨大な空白が押し寄せる。静寂が冷たい波となって俺の心に圧し掛かる。
俺は冷静で居ないと、俺だけでも理性的な行動を取らないと。じゃあ、何をすればいい……?理性的で論理的な解答、こんな絶望的な状況を打破できる決定的な答え。そんなものがどこに──。
「行かなくちゃ……、ダメだ」
急に足元に亀裂が入る、そして小さな穴が出来る。思わず小さな悲鳴を上げた俺は、そこからも激しい蒸気が上がっているのを目にする。やはり足元は火の海だ、多少離れても意味がないらしい。恐怖で足がすくむ。
そんな場所へ飛び込むのか……?本当に。
神の剣が欲しかった、いつも俺の頬を好き放題に叩くあの剣だ。そしてグズグズしている俺をさっさと火の中へ放り込んで欲しかった。でも、無い──。そして二人はもう行ってしまった、その腕に巻き付いた俺の剣と共に。……なら俺が行かないとダメだ、そうだろ?
揺らいだ決意にムチを打つ、二人が消えた穴へと重い足を運ぶ。助けないと、それがどんな自殺行為であったとしても、俺の命は二人と共にあった。ここで追わなければ俺が俺でなくなってしまう──。
「ちくしょう!神の剣!!」
俺は剣を握り締めると穴の中へ飛び込んだ。吹き上げるような熱気と蒸気に目がくらむ、喉が熱くて焼けそうだ。それでもガムシャラに剣を振り回すと、熱は俺の体から手を放すように解けていった。
安心感と共に俺の耳に声のようなものが入り込む。それはいくつかの言葉のようだ。
た……すけ、て。




