③
3.
遠くから黄土色交じり灰色に見えた大地は、近寄ってみると、起伏の多い岩と灌木だらけの荒れ地だった。緩やかな丘が連なる、荒涼とした風景だ。
農地を拓いてもたいした収穫を望めず、家畜を放牧するにも大量には難しい。収益を上げるのは至難な土地だろうと、オクタビオは官吏の目で見た。それがロカローマだ。シェイラが言っていた通りの場所である。
借り馬車がオクタビオ親子を乗せて入ったのは、小さな村だ。屋根の低い石造りの家が、丘の間にへばりつくように二列に並んでいる。道はどうやら一本しかない。馬車を降りたオクタビオは、その道を通りかかった少年に尋ねた。
「ご領主様のお屋敷? そんならこの道の奥だね」
「そうか。ありがとう、助かった」
帽子を斜めにかぶった少年は、何かの作業の帰りらしい。着古したシャツにひざ丈のズボンを穿き、脛を覆うのは泥だらけの脚絆という格好だ。家畜の世話でもしていたのかもしれない。
「おじさん、都会から来た人だろ。ご領主様になんの用事があるんだい?」
「……挨拶を、しに」
「挨拶? 何の挨拶で、こんな田舎に? しかも子連れで」
何故だろう、詮索されている。他所から来た人間がそんなに珍しいのだろうか。領主の娘であるシェイラを迎えに来たと正直に言うかどうかオクタビオが迷っていたら、代わりにパブロが元気よく答えた。
「ぼくとおとうさまは、おかあさまをむかえに来たんです!」
「お母様……って。坊っちゃんの母ちゃんは、領主館にいるってのか?」
「おかあさまはとってもきれいな女のひとなんですよ」
「パブロ、もういい。お母様に会いたいだろう、早く行こう」
無理やり会話を終わらせた。見知らぬ少年に、妻に逃げられそうになっている話を打ち明けるのは、やはり気が進まない。
まだ何か言いたそうにしている少年を振り切り、息子の手を引いて先を急ぐ。舗装されていない田舎道はごつごつして、轍痕がところどころぬかるんでいた。そして緩やかな登りだ。荷物は多い。ふだん肉体労働をしないオクタビオは、徐々に息が切れてくる。子連れということもあり、馬車を降りた時にはちょうど正午ごろだった時間は、どんどん過ぎていく。
「おなか空きましたー」
「……そうだな」
そう言われ、再び止まった。今朝の宿で用意してもらった、ハムとチーズを挟んだパンで昼食にする。道端の石垣の上にパブロを座らせてやり、オクタビオも隣に腰かけた。
休憩ついでに頭上を見れば、澄み渡った青空だ。なるほど、シェイラの語った通りである。
「……」
綺麗な空を見ているのに、オクタビオの頭が引き出すのは全く別の光景だ。
オクタビオの故郷にあったのは、どんよりした灰色の空だった。見ているだけでうんざりするような、気の滅入る色をよく覚えている。田舎のロカローマには美しい空があるが、オクタビオの故郷には、夢や希望を失わせるものしかなかった。
シェイラが見て育ったものと、オクタビオが見てきたものは、全く違う。
違う世界にいるはずだった二人。それが彼と彼女だ。
「あ……?」
故郷の空を思い浮かべていたら、もうひとつ、別の記憶が引き出された。生まれ育った街を出て王都へ来てから、十五年以上経っている。一度も帰郷していない。しかし過去へ置き去りにした故郷で、オクタビオは確か、それを見ていたのではなかったか。
パブロは言った。“七色の竜が空を飛んでいる”、と。
「――こら、パブロ。危ないだろう」
もっとよく思い出そうとしていたが、ゆっくりそれに耽ることを現実が許さない。食べ終わったパブロが石垣の上を歩いて行こうとするのを、寸でのところで止めた。
「ぼくここを歩きたいです! 高くてとってもたのしいです」
「だめだ。何故かというと、落ちたら怪我をするからだ。お前が頭を打ちでもしたら困る、痛いのは嫌だろう」
休憩もそこそこに、親子は再び歩き始めた。
周辺で最も高い丘を迂回すると、領主の屋敷らしき建物がやっと二人の視界に入った。周囲に岩と灌木しかない荒れ地の中にいきなり、石造りの館が現れる。塀や城門などは特になく、周囲に生垣をぐるりとめぐらせている。総二階の素っ気ない屋敷だが、他の住宅よりは立派なので間違いないだろう。
不安な気持ちはあるが、ここが彼女の生家か、という感慨もあった。やっとここまで来れた。もうすぐシェイラに会える。複雑な思いはあるにしろ、彼女が恋しい気持ちもまた、偽りなくそこにあるのだから。
しかし。
――もうあなたたちとは一緒に暮らません。ごめんなさい、さようなら。
今になってまた、彼の脳裏にあの文面がよみがえった。オクタビオの足が止まる。怖い。シェイラの口から、決定的な言葉を聞くのがとても怖い。それは絶対に嫌だ。
このまま帰ってしまおうか、などという弱気まで芽生えてきた。目の前まで来ておいて。
「あれがおかあさまのおうちですか!? おとうさま、はやく行こう」
「あ、待て」
だが何も知らないパブロに躊躇などない。今度は止める間もなく駆け去った。荷物を持ち、くたびれ果てたオクタビオはついに置いて行かれた。
始めは勢いよかったが、あまり走り慣れていないパブロはすぐに速度が落ちた。屋敷を囲む生垣を抜けて前庭に入ったところで、オクタビオはなんとか追いつく。
「っ、パブロ、勝手に走って行くんじゃない、はあ」
その時だ。呼ばれて振り返ったパブロの目は、オクタビオを通り越してさらに後ろを見た。そして叫んだ。
「! おばけーっ!」
「え……うわっ?」
同じように振り向いて驚いた。オクタビオのすぐ後ろに、奇妙な風体のものがいたからだ。
ぎょろりとした大きな目に、通常の二倍はあろうかという顔は土気色だ。裂けたような巨大な口からは真っ赤な舌がだらりと下がる。背丈はオクタビオよりも小さく、顔を前に突き出した格好で、身体には小枝を束ねた蓑状の物をまとっていた。そして頭からは、二本の角が生えている。
「きょえぇけげー!」
角を持つ者が奇声を発し、オクタビオはぎょっとした。さらに。
「きゃー!」
「あ、こら、パブロ!」
パブロが逃げ出した。
シェイラの実家バジェ屋敷の前庭は地に埋めた煉瓦で小道が形成されており、パブロはそこへ駆けて行く。まっすぐ、屋敷の玄関へ向けて。
「!?」
オクタビオが玄関に目を向けると、いつの間にか、そこには誰かが立っていた。二人の少女が、バジェ屋敷の玄関前に立っている。
「ひっ」
そこへ向けて駆けだしていたパブロの足が止まる。小さな悲鳴を上げると、ぴたりと立ち止まった。恐怖で凍りついたように。
その二人の少女は、まったく同じ顔をしていた。二人とも異様なほど真っ白い顔で、まったく同じ、真っ赤なワンピースを着ている。少女たちは口を開いた。
「カエレ」
「カエレ」
無機質な感情のない声音。二人同時に言い放った。まばたきもせずに。
「な、君たちはなんなんだ――」
「こわーい!」
パブロが再び逃げ出した。
後ろを先ほどの化け物に、前を双子の少女たちに塞がれた五歳児は、小道を逸れ、横に飛び出した。やや伸びすぎた芝生の中を突っ切って走っていく。
「パブロ、止まれ! どこへ行くんだ」
オクタビオは追いかける。
「きげげげげ!」
「カエレー!」
「カエレー!」
そして何故か、奇声を上げる化け物と双子の少女たちも親子を追いかける。
「きゃー!」
「待つんだパブロ!」
「きえええ!」
「カエレー!」
「カエレー!」
子どもの悲鳴と大人の制止と奇声と声を揃えた帰れコール。それらが屋敷の庭で響き渡る。一体なんなんだ、オクタビオは思う。
「パブロ!」
しかし五歳児である。最終的にはオクタビオは、息子を捕まえるのに成功した。荷物を両腕にひっかけ、さらに子どもを抱きかかえ、オクタビオはやっと謎の者たちと対峙した。
「なんだ君たちは! 大人をからかうのはやめなさい」
強気の声で一喝した。王の秘書官は、それらしき威厳をようやく引っ張り出す。普段の調子を大いに狂わされたとはいえ、そこは海千山千の貴族や官僚と渡り合って来た身である。オクタビオは多少のことでは動じない。
また、冷静な大人の目で見れば一目瞭然だ。お化けが、大きなお面をつけて蓑を被っただけの人間で、少女たちの白面がただの化粧であることは。まるきり子どもの悪戯である。
ずるとお化けは足を止め、双子の少女もオクタビオの一喝に目に見えてひるんだ。眼鏡の奥の怜悧な目に見つめられ、少女たちの無表情が崩れて戸惑った顔になる。
「君たちはバジェ家の子ですか?」
妹はひとりだと聞いていたが、とオクタビオは内心疑問を抱きながら尋ねる。
「あ……」
「他に大人はいないのですか。バジェ家の当主様、ならびにご家族への面会を申し入れたいのですが」
丁寧語で慇懃に問う声は、逆に冷たく鋭く響く。国王相手でも不遜になる彼にとって、怯えた子どもなど敵ではない。目を細め、見下ろすような目つきで眺め渡す。
「悪戯をしたことは内緒にしてあげてもいいでしょう。だから誰か、屋敷の大人を――」
双子の少女は戸惑った表情でお互いを見ている。どうしていいかわからないらしい。
相手の弱気はオクタビオの強気となる。若干おとなげないが、居丈高に言いつけようとした。だが。
「オクタビオ?」
他の誰でもない、シェイラの声で名前を呼ばれる。パブロを抱えたオクタビオは、身体ごと揺れた。振り返ると、庭木の間から黒い衣装をまとった女の姿が見え隠れしている。
「シェイラ!」
「……」
一旦は戻ったオクタビオの冷静さはふたたび崩れる。やっと会えた妻に駆け寄ろうとした。皮肉屋秘書官の仮面は簡単に外れ、奥にある、妻を連れ戻しに来た夫の必死の顔がのぞいた。
「来ないで、オクタビオ」
しかしそんな彼に突き付けられるのは、冷たい拒絶だ。現れたシェイラは一歩下がると、手を上げてオクタビオが近づくのを制する。
「おかあさま!」
パブロが呼ぶが、黒いベールを顔に巻き付けたシェイラは、それにも応じない。
「帰って。二人ともよ」
「シェイラ? どうしたんだ」
「手紙を見なかったの? わたしはもうアランサへは戻らないわ」
ぐるんと、天地がひっくり返るような。オクタビオはそれくらいの衝撃を受けた。
――もうあなたたちとは一緒に暮らません。ごめんなさい、さようなら。
オクタビオの悪夢は現実となった。
手紙と同じ内容――別れをはっきり彼女の声で聞く。ずっと恐れていたオクタビオの危惧が現実のものとなった。
「何故だシェイラ。何があった? ここへ帰るよう、お父上に言われたのか?」
「別に。誰が何を言ったわけじゃないの、ここで暮らすとわたしが決めたのよ。そうしたいの」
「そんな」
あまりのショックで、息子を抱く腕から力が抜けようとした。事情をよくわかっていないパブロは、不思議そうな表情で両親の顔を代わる代わる見ている。
たしかに結婚当初は、続かないと思っていた。こんな日がいつか訪れるだろうと予想していたはずだ。オクタビオはシェイラを失う。いつか失う、つかの間の幸福だと覚悟していた。
思い返せば、彼は過去に同じ経験をしている。むかし上司から持ち込まれた縁談を断れずに結婚した先妻は、以前から付き合っていた恋人が忘れられないと言い、日をおかずに出て行った。一年ほどして戻って来たが、赤子のパブロを置いてまた去った。
当時のオクタビオはあっさり認めた。「どうぞご自由に、幸せになれるといいですね。我が子を捨ててまで求める“幸せ”とやらがどういうものか、私には想像もつきませんが」と、冷笑交じりの皮肉を言ったこともある。特に引き留めるような真似などしなかった。
ならば。シェイラにも同じように言うしかないのか。いま、ここで。
「あなたには妻より大事な仕事があるんでしょう。帰って。わたしの幸せはここにしかないの、家族の下に!」
ひときわ重い一撃を食らい、オクタビオは立ち尽くす。
シェイラの悲痛な叫びには、彼女が本気でそう言っているという響きがあった。
彼女の幸せはオクタビオのところにはない。シェイラは家族を選ぶと言う。
「おとうさま?」
両親の間にある異様な雰囲気に、パブロが不安げな顔になる。子どもの小さな手がしがみついてくる。シェイラの叫びで衝撃を食らい、ぐらんぐらんと揺れていたオクタビオの意識は、その手でハッと我に返った。
その瞬間、失っていた力が戻る。ぎゅっと、腕の中の息子を抱き締めた。
「わかった。あなたの選択を受け入れよう」
放したくない。別れの台詞など絶対に聞きたくなかったオクタビオだが、それを受け入れる言葉を発する。
最初から、無理やり連れて帰っていいとは思ってない。一度は家族のため我が身を捧げた彼女に、二度と己を犠牲にするような真似はさせられない。元妻と同様に、シェイラにも己が生きる場所を選ぶ自由があるから。
別れを認めたオクタビオへ、シェイラは喜色の声を上げた。
「それでいいわ。さあ、納得したなら早くここから出て」
「パブロ。お父様のお願いを聞いてくれるか」
しかしオクタビオは抱っこした息子に頼む。何をか。
引き留め役か、それとも。
「パブロ、お前にはお友達が沢山できたんだったな? なんだったか、ポールや猫たちのことだ」
「うん? いるよ、たくさん」
「そうか。悪いんだが、その友達にお別れを言ってくれるか」
「おわかれ?」
悲しむよりも言われた意味がわからなかったかもしれない。パブロはキョトンとする。
「そうだ。お父様とお前は、これからここで暮らす。だからアランサには帰れない。新しい家は、そうだな、これから探そう」
お母様の家の近くで、と付け加える。
「何いってるの!?」
パブロより先にシェイラが反応した。信じられない、とばかりにこちらに一歩踏み出しかける。
しかし、小さく「あ」とつぶやいた後、彼女はなぜか慌てた様子でまた下がった。その視線はわずかにオクタビオからその背後へ逸れていたのだが、彼は気づかない。
「シェイラ」
一方で、オクタビオは肚を決めた。彼女の幸せがロカローマにしかないと言うならば、答えはひとつだ。オクタビオがこちらに来ると。
あり得ない選択だ。
オクタビオ・シメオンは王の皮肉屋秘書官にして懐刀である。能吏というだけではなく、時には公にできない外交戦略の相談に乗り、あるいは耳目として国内での情報収集に回る。不遜にして毒舌家という欠点はあるものの、何より重要なことに、ソルシード本人と信頼し合っている。
その彼が首都を捨て、すなわち仕事を捨てて田舎に引っ込むという。
国家級の損失だと、人は言うかもしれない。何よりソルシードが泡を食う。
「確かに今の仕事は私の誇りだ。だがわかってもらえないだろうか、シェイラ。あなたを完全に失っても、私は一生後悔する」
「……」
「……そういえば一度も言っていなかったな。だからいま改めて尋ねたい。
シェイラ・ヴィヴィニー・バジェ、私と結婚してもらえませんか」
拒否されても構わない、この場では。今までシェイラに一度も告げたことのない言葉だが、これから何度でも言えばいいと思った。押し付けられたような形で彼の下にいた彼女に、今日やっと、正式な求婚をした。
「あなただけだと誓う」
他の誰でもなく、あなたに伴侶になってほしいのだと。
皮肉の鎧も毒舌の矢も。オクタビオは出世の過程で身につけたすべての武器を放り捨てた。ソルシードが見たら、それこそ驚嘆するだろう。この皮肉屋秘書官に、ここまで素直に己の気持ちを吐露できたのかと。
自分の変化に自分で驚くが、不思議と嫌ではなかった。むしろ清々しい気持ちになる。
後はシェイラの返答だけだと、オクタビオは彼女を見つめた。なぜか庭木の後ろへまで下がった彼女は、顔に巻き付けたベールのすそをぎゅっと握り、無言で彼を見返す。
黙った黒衣の彼女を前に、ただ待った。
しかし。
違う――と、オクタビオは強く感じた。何かに違和感がある。その正体はというと。
「オクタビオ?」
と、またもシェイラが彼を呼んだ。背後から。オクタビオは全身で驚く。心臓が飛び出るかと思った。勢いよく振り返った。
「――シェイラ!?」
そこにもシェイラはいた。庭木の向こうにいるひとりと、オクタビオのすぐ後ろにもひとり。新たに現れたシェイラは淡い水色のワンピース姿で、顔は露わにしている。
「おかあさまだ!」
「パブロ」
驚きのあまり動けないオクタビオより早く、パブロが反応した。母を求める五歳児は、父の腕から逃れるようにシェイラへと身を乗り出した。
新たに現れた水色のシェイラは、パブロに応えるように微笑んだ。幼子の頭を撫で、「会いたかったわ」と頬にキスを贈っている。
それはオクタビオが見慣れた妻の顔だ。今は紅潮し、菫の色の瞳はうるんでいるが。
「し、シェイラ?」
どういうことだ、とオクタビオは黒衣のほうの彼女を振り返り、また向き直って水色と見比べる。そしてやっと悟る。
ベールを巻いて顔をさらさない黒衣のシェイラと、すぐ目の前でパブロを甘やかすシェイラ。
前者は偽者で、本物はいま現れたほう。
ようするに。
「悪戯……」
なりすましだ。子どもの悪戯はまだ続いていたのである。
王の秘書官オクタビオは完全にいっぱい食わされた。