②
2.
『いつか見てもらいたいわ、あの空を。どこまでも遠く、数えきれないほど星が散らばるの。ロカローマは田舎だけれど、あの星空はアランサにも負けないと思う』
愛する故郷のことを語る彼女。嬉しそうに、幸せそうに。シェイラは彼女の故郷を本当に愛おしんでいたのだろう。空気が綺麗で、夜はあまりに星が多いため、見つめているとだんだん心が吸い込まれそうになるそうだ。
いつだったか、寝物語でそんな話を聞いた。眠りに落ちる直前の心地よいぬくもりの時間、彼の肩に顔を寄せたシェイラが、囁くように語った。そんな夢うつつな記憶が残っている。
僻地で空気が澄んでいるロカローマと違い、オクタビオの出身地はラバ・ビスク第二の都市と呼ばれる人口密集地だ。さらに付近にある鉱山地帯では昼夜を問わず採掘が行われており、夜でもその灯火が輝く。そのため星はほとんど見えなかった。
しかしその晩、オクタビオは夢をみた。知らないはずの星空の夢を。
数えきれないほどの星が降る中で、横を見れば、確かに彼女がいたはずだ。
***
激痛で目を覚ました。
「な、なんだ!?」
あごに痛みを感じて目を覚ましたオクタビオは、手でそこを押さえた。心底驚く彼が見たのは、至近距離からのぞき込む者だ。近すぎて何がなんだか混乱したが、すぐにわかる。息子の顔である。
「パブロ! 何事だ」
「おとうさま、おなかすきましたー、パンが食べたいです、あまいのがいいです」
「パン? いきなり甘いのがいいと言われても……ちょっと待て、いま何時だ」
無精ひげを引っ張られて涙目になったオクタビオは、そのお陰か、目覚めたすぐに頭がはっきりする。自分たちの状況を思い出し、まだ出発時刻になっていないか確かめようとした。その間にもパブロは空腹を訴える。
「たんけんごっこ終わりですー、次はおしょくじごっこがいいな。甘いオムレツとおさとう入りの牛乳がのみたい」
「なんだそれは、甘い物ばかりじゃないか。ええとなんだ、野菜か? シェイラがいつも言っていなかったか、お野菜さんも食べてほしいと……。あ」
時計を見て蒼ざめた。完全に寝過ごしている。周りを見回すと、昨夜は大勢いた他の待合客は消えていた。
「……」
「おとうさまー、おなかすいたおなかすいたー」
「……わかった。ゆっくり食べような」
次の便まで半日近く、まだまだ待たなくてはいけないらしい。げんなりするが、自分のミスだ。これなら一度帰ってベッドで寝ればよかったと、昨夜の寝床である固いベンチから立ち上がった。
固い寝床のせいで体中が痛む大人と違い、五歳児は元気だ。早く行こう、とパブロはオクタビオの手を引く。
駅の客を見込んでいるのか、周囲に飲食店は多い。オクタビオは昨夜も利用した食堂へ行った。そこの水場で顔を洗わせてもらい、すぐに思い出してパブロの顔も洗ってやった。
一人旅と違ってやることが多いな――とため息をついたら、パブロは不満そうな表情を浮かべる。
「どうしたんだ」
「ぼくの顔はぼくがあらうんですよ。そうしなさいって、おかあさまが決めたんです」
「……ああ。そうだったな」
またやらかしてしまったようだ。この日も朝から息子の機嫌を損ねてしまい、オクタビオは内心肩を落とす。そんなルールは頭から抜けていた。
むすくれたパブロだが、そこは子どもだった。しばらく口をきかなかったが、テーブルについて朝ごはんが出てくる頃には忘れてしまった。パンと卵料理とサラダの朝食を食べるのもそこそこに、一生懸命しゃべりだす。それが日課なので。
「ビッケは七色の竜をさがして冒険のたびに出るんです。ビッケのおばあさんがくれたお守りがお化けの森でお化けを退治してくれて、お化けの森で拾った古い首飾りがお城のお姫様の呪いを解いてくれて、お姫様にもらったクリスタルの鏡で作った盾が竜の火からビッケを守ってくれるんです! すごいでしょう」
途中までは昨日のパブロの夢の話だと思って聞いていたオクタビオだが、違った。実家に帰る前のシェイラが、最後に語って聞かせた童話のストーリーらしい。
「竜ののどにささったトゲをビッケがぬいてあげたらね、かわりにおねがいごとをかなえてもらえるんです。ねえおとうさま、ぼくも竜に会いたいです! 会えますか?」
なんて答えづらいことを尋ねるのだろうと、オクタビオは内心でうめく。竜などいないと現実を教えるのは簡単だが、いまここでパブロの夢を破れば、また機嫌を損ねるに違いない。今日はこれから長い旅を予定しているので、それは困る。
「そうだな……パブロ、悪いがお父様にもよくわからない。今度調べておこう、どうすれば竜に会えるか。“調べる”というのは、つまり、本当かどうか、確かめるということだ」
「やったあ! あのねあのね、昨日も七色の竜が空を飛んでいる夢をみたんです。ぼく、竜に会ったらおねがいしたいことがあるんだ、かなえてくれるかな」
「……あ、いや、そうなのか……」
誤魔化したが、余計にハードルが上がった。
なるべくなら夢は壊したくないが、無慈悲な現実を教えた上に、お願いごとも叶わないとなると、パブロはひどく傷つくのではないか。実現可能な内容ならば何とかしてやりたいが、「お化けを見たい」とか言われたどうするのか。悩んだオクタビオは、本職の魔法士に依頼することまで考慮に入れた。
いずれ解決しなければならない難問はあるが、パブロの機嫌は上々となる。大好きな“おかあさま”に会いたい気持ちもあるのだろう。
しかしそれからが大変だった。
乗り込んだ乗合馬車で最初は乗り物にはしゃいでいたパブロだが、しばらくして静かになる。どうしたのかと思えば乗り物酔いで呻いており、家に帰りたいと泣き出した。なだめても収まらず困り果てていると、同乗していた客に魔法使い――魔法士と呼ばれる本物の有資格者だ――がいて、パブロを眠らせてくれた。お陰で帰らずに済んだ。
そんな色々を乗り越えた末に到着した街だが、そこはまだロカローマではない。
北部地方最大の都市の馬車駅にて。乗合馬車を降りたオクタビオが知ったのは、ロカローマへ向かう馬車の定期便はないということだ。自分で馬車と御者を予約し、借り受けなければならないらしい。しかも到着が夕刻だったので、明日以降にしてくれと馬車屋から言われる。
まだ眠っているパブロを抱っこして両腕に荷物を下げたオクタビオは、諦めて宿をとることにした。
王の秘書官がくぐり抜けなければならない試練はそれで終わりではなく、ほっと一息つけるはずの宿では、昼間眠ったせいで目が冴えた五歳児の猛攻があった。夜になり、宿のに泊まるのが初めてであるパブロの興奮は頂点に達した。
「ぼんぼーん! ばばーん!」
「パブロ、ベッドの上で飛び跳ねるのはやめなさい、床に落ちたら痛いぞ!」
「ちゃぷちゃぷちゃぷー、あわあわあわあわー」
「パブロ、お風呂の中に石鹸を入れて遊ぶんじゃない、次に入る人が困るだろう!」
「わーい、ひらひらひらー!」
「パブロ、カーテンを引っ張って走り回るんじゃない、外れて壊れたらどうするんだ!」
自由自在の一言に尽きた。
ひとつやめさせたと思っても、パブロはまた他の何かで遊び始める。きりがない。夜中になっても収まらず、オクタビオは途方に暮れた。子どもとはこれほどまでに手がかかるのかと、改めて、日頃世話をしてくれるシェイラの苦労を思う。なんという忍耐力かと。
「パブロ! もうだめだ、寝る時間だ。明日も早いんだぞ、お母様に会いたいだろう。早く寝て早く起きよう、な?」
切り札がそれしかないのでシェイラの名を出す。
「まだねむくないですー、おかあさまがお話してくれないと、ぼくは寝ないんです」
「だから、そのお母様に会いに行くためにも、今はもう寝なさいと」
昨日はそんなこと言わずに寝たじゃないかと、オクタビオは不思議に思う。どうして今夜はこれほどワガママになってしまったのか。以前はずっと放置していた父親にはわからない。泣かないのはいいが、違う意味で手がかかる。
「おかあさまのお話がきーきーたーいー。おかあさまー」
大量に衣類を持ってきたお陰で、パブロを寝巻に着替えさせることができた。それはいいが、ベッドの上で立ちあがった五歳児はひどいふくれっ面だ。絶対に言うことを聞かないぞ、という構えだ。
一方でオクタビオも。彼は彼で疲れている。仕事を中断して帰宅してまた出立して以降、一昼夜まともに休んでいない。仕事の徹夜ならば慣れているが、子ども連れの旅行は普段とはまったく違う神経を使った。
とうとうがっくりと、その場に膝をつく。どうか助けてくれ、とシェイラの面影に願った。もういろんな意味で、彼女が戻らないと無理だ。
「パブロ……頼む。お父様もお母様に会いたいんだ」
「おとうさま?」
「シェイラ、助けてくれ」
威厳や皮肉は通用しない。王の秘書官としての面子や、常ならば自在に皮肉や毒舌を操るオクタビオの舌は何の役にも立たなかった。もはやオクタビオにできるのは、この場にいないシェイラに助けを求めることのみ。情けない姿である。この体たらくを見たらたぶんソルシードは笑うだろうが、もうどうでもよかった。
するとパブロは、思いがけないことを言い出す。
「じゃあおとうさま、そのお話をしてください」
「は?」
「おかあさまがおとうさまを助けに来るお話! ぼく、そのお話がききたいです」
目をやると、パブロはすでに、聞きの体勢に入っている。
体面も恥もなく頭を抱えた父を哀れに思ったのか、どうなのか。ベッドの上掛けを引っ張って頭からかぶったパブロは、ベッドの端に腰かけて、オクタビオが語りだすのを待っていた。
「シェイラが私を助けに来る話……」
ひく、とオクタビオの頬が引きつる。子どもが大人しくなったのは有り難いが、生憎、王の有能な秘書官オクタビオは「子ども向けのお話を即興で作って聞かせる機能」など備えてない。簡単そうだが、普段は政治だの外交だのに頭を使う彼には何も思いつかない。
しばらく悩んだ。だが、やがて口を開く。
「昔、むかし。えーっと、ある国の首都に」
「しゅと? “しゅと”ってなんですか」
「ああ。そうだな、ある国の……お城にだ。お姫様が、いた。とても綺麗なお姫様だ。お城にお姫様がいるんだ。わかるか?」
つい難しい言葉で語りそうになるオクタビオだが、その度に中断されながら、それでも語った。
悪い王様のお城に捕まっていたお姫様の話だ。お城から逃げ出したお姫様が出会うのは、とても偏屈な鉱石掘りだった。優しいお姫様が、子持ちで偏屈な鉱石掘りをどうやって変えていったのか、オクタビオなりに語ってみる。
「お姫様と鉱石掘り、そして鉱石掘りの息子は、それからずっと仲良く暮らした。めでたしめでたし……のはずだ」
ベッドの横の床に座ったオクタビオは、結びの言葉とともに背後の息子を振り返った。寝かしつけに成功しただろうかと。だが。
「おもしろかったです! じゃあおとうさま、次のお話をしてください」
「……」
ベッドに入ったパブロだが、眠りそうな気配が全くない。目をきらきら輝かせている。オクタビオが生まれて初めて語った“お話”に、すっかり聴き入ってくれていたらしい。
喜ぶべきか落胆すべきか悩む。そしてオクタビオの考えは、妙な方向へいった。
「――わかった。ではパブロ、次は今の七国情勢について簡単に説明しよう。まず前提として、数年前に収束したユーニ戦役がある。当時も今も我が国と隣国オルニムの間の諸問題はいくつもあるが、中でも最も解決しがたいのがカロリエ河畔地方の帰属についてだ。発端は些細なことだった。少なくとも最初は些細な行き違いだと思われていた。ある日、国境を警備する監視兵が亡命者を発見したという報告が届き……」
他に彼が語れる話はない。だから自分の仕事の話を語って聞かせてみる。
元々の因果関係から話そうとするので長かった。そして難しい。五歳児でなくともついて行けない。
結果的に、それが功を奏した。子どもには意味不明な単語ばかりの政治関係の話を淀みなくえんえんと語って聞かされたパブロは、いつしか夢路に入って行った。
やっと寝てくれたが、オクタビオもぐったりしている。明日も旅は続くというのに。
「シェイラ……」
上手くいけば、やっと明日、妻に会える。早く顔が見たい気持ちはあるが、それ以上に不安もあった。
鞄から手紙を取り出した。衝撃的な内容の、彼女からの手紙だ。
――もうあなたたちとは一緒に暮らません。ごめんなさい、さようなら。
最初に読んだときは信じられなかった。シェイラが自分たちに別れを告げるはずがない、何かの間違いだと思ったオクタビオは、勢いだけでここまで来てしまった。奥の手であるパブロまで連れて。
しかし。
本当に間違いなのだろうか。
もしかしたら、シェイラは本気で別れたいのではないか?
明日にははっきり判明するだろう。シェイラの本音がわかる。それが直前に迫ると、オクタビオは怖くなってきた。
思い出してみれば、続かないのでは、という危惧は結婚当初から持っていた。
シェイラの故郷、ロカローマ。辺境の小さな荘園だが、そこは彼女の実家バジェ家が所有する土地だ。シェイラはれっきとした所領持ちの貴族の出である。
先々代国王の時代から中央集権化が進んでいるラバ・ビスクでは、王が権力を強めるのとは逆に、世襲貴族は政治の場から追放されている。シェイラの実家も例外ではなく、娘と引き換えにしてやっと父親は宮廷での役職を得たそうだ。すでにクビになっているが。
シェイラは六人きょうだいだと聞いた。兄とすでに他家へ嫁いだ姉がいて、シェイラは三番目だ。さらに三つ下の妹と弟が二人いる。母親とは死別したが、代わりに母方の祖母がともに暮らしているらしい。倒れたのはその祖母だ。
母親代わりの祖母のため、実家へ帰ったシェイラは、今どうしているのか。実は祖母の件などただの口実で、彼女を呼び戻して、また別の場所へ嫁がせるつもりではないか。
国王の秘書官であるオクタビオだが、平民出の一官吏に過ぎない。能力ゆえに重用されているが、元々は無に等しい者である。貴族であるシェイラの実家は、オクタビオを娘婿として認めたくないだろう。取り返そうとしてもおかしくない。
呼び戻され、家族から説得されて。シェイラもとうとう折れたのではないか。
オクタビオの危惧はそこだ。
自分やパブロを好いてくれているのはわかっている。
だが家族を裏切ることも出来なくなった。彼女は優しい。大切だと語っていた故郷も恋しいのだろう。だから別れたいと言い出したのではないか。
「もし――」
もしそれが真実ならば、自分はどうすればいいのだろう。無理やり連れて帰るのか、それとも。
安らかな寝顔の息子を眺めるオクタビオだが、苦悩する彼のほうは、眠れそうになかった。
***
カーテンを少しだけ引き開け、窓の外を眺める。真っ暗な夜空に散りばめられた星々は数えることなど不可能だ。
昔、自分の父親に尋ねたことがある。どうして星はまたたくのかを。残念ながら今でも答えは得られていない。
「……シェイラ? まだ起きていたの」
「おばあ様。起こしてしまいましたか」
「いいのよ。何かあったらリアを呼ぶから、お前はもう休みなさい」
実家であるバジェ屋敷の、シェイラの祖母の寝室。その窓辺で夜空を眺めていたシェイラは、祖母の枕元へと歩み寄って行く。
祖母のラウラは、ベッドの端に腰かけた孫娘の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。
「本当にそれでいいのね?」
「……はい、おばあ様」
その手をさらに、シェイラは自分の手で覆う。彼女にとって祖母の手は、幼い頃から慣れ親しんだものだ。早くに亡くなったシェイラの実母に代わり、いつだって愛おしんでくれた、大好きな手。
「後悔しません。だってもう、元には戻れませんから」
大切な人に決意を告げたシェイラの目には、光るものがあった。