後編②
後編②
王の秘書官とはいえ、つましい一官吏の身である。宮殿を出たオクタビオは辻馬車を捕まえて自宅に帰った。案の定、今日も深夜となってしまった。今日こそパブロとシェイラと三人で、食卓を囲もうと思っていたのに。
「忌々しい……本当に」
入る前に自宅を見上げ、ため息をつきそうになった。
宮殿とはまるで違う。住宅密集地なので、隣家と密接していて裏庭しかない。しかしオクタビオの年齢の平民出身者が都市に一軒家を持ち、しかも使用人までいるのはかなり出世したほうだ。
だが、比べる相手が悪かった。一国の王と比べたら、誰だって見劣りするに決まっている。財力も権力も、ついでに見栄えも。自分にはひとつとしてソルシードに勝った点がないという自覚が、オクタビオにはある。引け目と呼んでもいい。
だが――。
家に入り、まずは子ども部屋でパブロの寝顔を見た。
まつ毛の長い、可愛らしい顔立ちの幼児に、あいにくオクタビオの面影はない。ないが、引き取った時から覚悟はした。自分の子どもとして育てると。この子どもを押し付けてきた前妻に未練などないが、ただ、捨てられたパブロが憐れだった。
それでもどう扱っていいかわからない。とりあえず使用人に世話を任せきりにして放っておいたら、仕事中毒なオクタビオは存在ごと忘れた。当然パブロが懐くはすがない。よそよそしい親子。血が繋がっていないから無理もないかと諦めていたところに、ちょうど彼女は来た。
今、眠る五歳児に、オクタビオは小さくつぶやく。
「パブロ。お前のほうが、よほど仲が良いんだろうな」
羨むような言葉を吐いて、自分で自分が情けなくなった。寝た子に対してそれ以上弱音を吐くことはできず、部屋を出る。
次に向かうのは食堂だ。ここひと月、いつもそこで待っていてくれるから。
「遅くなった――」
そう言いながら食堂に入ると、いつも必ずすぐに答えてくれる声が、今夜はなかった。ややショックを受けたオクタビオが部屋の奥に目をやると、たおやかな姿はそこにあった。
簡素なコットンのワンピースを着た、見るからに慎ましい女性だ。焦げ茶色の長い髪を飾り気のないシニョンにまとめたシェイラは、テーブルに突っ伏して眠っていた。テーブルの端には絵本が一冊置かれている。
「……」
眠りを破りたくなかったオクタビオは無言で近づく。テーブルに置いた腕の上に、横顔をのせて眠るシェイラを眺める。寝顔はパブロ同様に健やかで安らかで、ずっと見ていたくなるような姿だった。
心が壊れそうになった。
毒舌家で皮肉屋で有名なオクタビオ・シメオン秘書官である。出世するまで苦労したので、世の中にも人間にも冷静で辛辣な評価を下してはばからない男だ。
その、シニカルで頑なな心が壊されそうになっている。癒されるはずのないものが癒されていく。このひと月、ずっとそうだ。シェイラがオクタビオの妻となってから、皮肉屋秘書官はそのアイデンティティを取り崩されている。皮肉という名の鎧を捨てて、何もかも彼女に捧げてしまいたくなる。
わずかに残ったなけなしの意地にすがっているせいで、彼はシェイラに対して無口になってしまっていた。
主君であると同時に、半ば同士のようなソルシードですら信じないだろう。オクタビオが、シェイラと初めて会った日の記憶を宝物ように大事に覚えているとは。
緊急に裁可を仰がねばならない用件があり、ある日の朝、水の苑へと入って行った。事実上の後宮とはいえ、男子禁制など敷かれていない。それでも気が進まなかったオクタビオは、普段以上に攻撃的な気分になっていた。ソルシードにどんな皮肉を浴びせようか考えながら、水の苑の建物と建物をつなぐ、外回廊を歩いていた。
小さな悲鳴が聞こえて、オクタビオは足を止めた。見ると、中庭にひとりの貴婦人が立っている。
水の苑の名の通り、水を多用した庭園である。小さな川や池を造成しただけではなく、噴水も多い。その貴婦人が立つのは、地面の敷石の間から水が噴き出すという仕掛けのある場所だった。時計仕掛けである。うっかりその時刻に近づいてしまったのだと、仕掛けを知るオクタビオはすぐにわかった。
『お下がりください。もっと濡れますよ』
水の苑に慣れない、新参の寵姫だろう。そう思った。そして結い上げられた焦げ茶色の髪から、これが噂の“谷間の菫”かと判じた。
オクタビオが声をかけると、相手は怯えたように少し下がった。水の仕掛けからも、オクタビオからも離れるように。後宮に王以外の男性が入れることを知らない者は多い。騒ぎだしたら大変だと、彼は少々面倒に思った。
しかし――。
『それ……“いねむりハリネズミの冒険”ですわね?』
怯えた顔で一歩さがったシェイラ。しかしその表情は一変する。いきなり笑顔になると、目を輝かせて話しかけてきた。
そのときオクタビオは知った。谷間の菫の別名が、シェイラの瞳の色からきていると。
紫色の瞳を輝かせて笑うシェイラは、はしゃいだように両手を合わせる。やや子どもっぽい仕草で、オクタビオへと嬉しそうに話しかけてきた。
『大好きな絵本なんです、妹も弟もお気に入りで――』
彼女が話していることが何なのか、すぐにはわからなかった。さらに、何故か必要以上に慌ててしまったオクタビオは、ごちゃごちゃと、自分でもよくわからない返事をしながらその場から立ち去った。不覚にも、逃げるように。
それが最初の出会いだ。
王の秘書官と王のもと寵姫、今は夫婦となったふたりの出会いである。
「……」
そして現在。
深夜のシメオン秘書官の自宅の食堂だ。シェイラがテーブルに置いた絵本のタイトルは『いねむりハリネズミの夏休み』。ハリネズミを主人公にした絵本のシリーズの一冊である。
初めて会った日のシェイラが何を話しているのか、しばらくは本気でわからなかった。しかし、家に帰ってやっと理解する。
あの時は徹夜明けで、用事を済ませて水の苑を出たらそのまま帰宅するつもりで荷物を持っていた。
その前日だ。パブロにと、同僚が自分の子どものお下がりの絵本をくれた。鞄に入りきらなかった数冊を、オクタビオは紐でしばって抱えていたのである。そのうちの一冊、『いねむりハリネズミの冒険』の話をしていると気づいたのは、自宅でそれを子ども部屋に置いた時だ。
たった一冊の絵本。だがその取るに足りないもののせいで、オクタビオの人生は変わった。
いずれ捨てられるであろう、可憐な野の花。しかしそれも仕方がない、本人も承知だろうと傍観していたシェイラの運命が、オクタビオには他人事でなくなった。ひっそり咲く花が瞬く間に忘れられていく過程を、哀れに思いながらも、心のどこかで喜んでいた。
「私は、浅ましい」
眠るシェイラには決して聞こえないように、小さく小さくつぶやく。絶対に知られたくない。王に捨てられた彼女を哀れに思うどころか、喜んだことを。こうして形だけでもシェイラを得て、オクタビオがどれだけ嬉しく思ったかを。
不安げな表情から一転、明るく親しみのある笑みへ。
あの一瞬でシェイラに魅かれた。だから思わず、欲しいと願い出てしまった。
しかしそのせいで、オクタビオは言えない。彼女の意思を無視して、もののようにねだって得た。浅ましい方法で手にした妻に、本心から愛しているとは今さら言えなかった。気軽に名前を呼ぶことすら遠慮する。
幸い、シェイラから今の生活に対する不満は聞いたことがない。パブロによくしてくれることも感謝している。だがいずれ、別れる時は来るだろうとオクタビオは思う。曲がりなりにも貴族である、彼女の実家から何か言ってくるか。それとも本人が自ら望むか。
その日が一日でも延びればいい。そう願っている。シェイラが彼の妻でいる時間は、一日でもオクタビオには貴重だ。今夜こそ三人で食卓を囲もうと毎晩のように思っているのに、何故かいつもこんな時刻になってしまう。
今あらためて、眠る彼女の横顔を眺めた。シェイラの容貌が美しいのは事実だが、その心根の温かさを知れば知るほど、オクタビオの執着も増す。手放したくなかった。
ゴクリ、と喉を鳴らした。
一度でいいから触れてみたい。見ていたらそんな衝動にかられる。触れて、その髪に指を差し入れ、口づけたい。シェイラの紫色の瞳に自分だけを映したい。
「……」
ひとつ頭を振って、衝動をとどめた。伸ばしかけた手をぐっと握り、ため息とともに下す。代わりに声をかける。
「起きて下さい。そんなところで寝たら疲れますよ」
シェイラが眠っているのはオクタビオの席だ。別に構わないが、そのまま彼女が眠っている横で、夜食をとるのも変である。起こして、自分の寝室に行くよう勧めたほうがいいだろう。
だが、シェイラはあんがい起きなかった。深い眠りにあるのか、寝息が聞こえるばかりである。揺り起こしたほうがいいのだろうが、今、直接彼女に触れるのは気まずかった。
「起きなさい。風邪をひいたらどうするんですか」
ソルシードにやったように、くどくど皮肉を並べたてて起こそうか。いやそれよりも。
「――シェイラ」
なるべく事務的に聞こえるように、仕方がないから呼んだのだと聞こえるように。
「シェイラ」
自分を抑えたオクタビオだが、隠しようのない愛情が、その声音には篭っていた。
夫婦ふたりの話はこれでおしまい
次、パブロ視点のおまけがつきます