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後編①

後編①



 “谷間の(すみれ)”。それが、宮廷にいた頃の彼女のあだ名だ。谷間にひっそりと咲くすみれの花のように可憐だと、ソルシードはうっとりと語った。当時の自身の恋人シェイラについて。


 その頃すでに国王の秘書官を務めていたオクタビオは、王の言葉を鼻で笑った。王太子時代から移り気で知られたソルシードである。戯れに野の花を摘んで、ぽいと捨てるのは目に見えていた。捨てられる娘が憐れだと、他人事ながらも苦々しく思ったものだ。事実、ひっそり咲く花は瞬く間に忘れられた。




 そろそろ深夜にさしかかろうかという遅い時刻である。窓の外は塗りつぶしたような暗闇だ。

王宮エスプランドル宮殿の国王の執務室近くに、秘書官の詰め所もあった。


 その秘書官室の奥、山積みした書類を前でぴりぴりした空気を放つのはひとりの官吏である。もともと目つきの悪いオクタビオ・シメオン秘書官だが、現在はさらに機嫌が悪かった。先に帰った同役の仕事のミスを発見したからだ。


「……個人じゃなくオルニム政府に送る公式な文書だぞ。何が『貴殿の永遠の友たるソルシード』だ、こんな装飾過多で詩的な文章でどうするんだ。ビクトルめ、こんなことを書き方したら陛下が阿呆のようではないか」


 外交専門の秘書官が用意した、隣国の政府宛ての書簡である。ただの挨拶文とはいえ、文章に凡ミスが散見する。非公式だが、オクタビオは王の書類すべてに目を通すことを許されている。問題ないよう直してから、筆耕係に差し戻ことにした。お陰で彼の残業はさらに伸びた。


 今日はソルシードが、突然視察に行くと言い出して予定が狂った。裁可や署名をもらうはずだった書類はすべて明日以降に回すこととなり、普段の日課である、議会や行政府から送られてきた書簡を読んで聞かせる時間もなくなった。


 秘書官たるオクタビオは自分の仕事を放り出して他部署との連絡に追われ、なんとか無事に送り出したと思ったら、今度は王へ陳情に来た地方貴族の相手を代わりにさせられた。成人した息子に何か良い役職をくれないか、というあからさまなコネをねだり来た内容だったので、嫌味と皮肉で追い返した。


 予定外の仕事と、これからの予定の組み直しと。もともと多岐に渡るオクタビオの仕事はもっと増えて、今夜も帰りが遅くなる。今日こそ早く帰ろうと思っていたのに。


 あともう一ページ分だ。忌々しく思いながらペンをインク壺に突っ込む。そして気づく。中身が限りなくゼロに近いと。


「……ああ! なんで秘書官には秘書がいないんだ!?」

「落ち着け、オクタビオ」


 秘書官室でひとり絶叫したオクタビオに、声をかける者がいた。ノックもなしにここに入っていい人物は、王宮でも唯一人である。


 言われたからではないが、直ちに冷静になったオクタビオは落ち着き払って返事をした。声に皮肉をたっぷり沁み込ませることも忘れない。


「――ああ。どなたかと思えば、今日は何の前置きも無しに王都から遠く離れた辺境の地に視察に赴かれた我が国の偉大なる国王陛下ではありませんか。お帰りなさいませ」


 部屋に入って来たのは、均整のとれた立派な体格を、今は目立たぬ茶色のスーツに包んだ青年である。眉目秀麗、強気な光を放つ瞳は人を従えるもの特有の傲慢さを奥に持つ。だが見栄えのいい国王ソルシードは、その地位も相まって非常に女性に人気がある。


 にやりと人の悪い笑みを浮かべたソルシードは、嫌味たっぷりな秘書官の皮肉などどこ吹く風で応じた。


「そなたの進言ではなかったか、いちど前置き無しにエグモンターニャを視察してはどうかとは。オクタビオにも見せてやりたかったものだ、突然国王を迎えたアイード師団長の慌てぶりを! あれは中央の目の届かないのをよいことに、そうとう好き勝手をしているな」


 王は笑っていた。だがその目の奥に、怒りが混じる。そこに気づかぬオクタビオではないが、直接それに触れない。


「ほう? 進言とは何のことか存じませんが、アイード師団長閣下は運の良いおかたですね。恐れ多くも陛下の直接の検分を賜るなど光栄の至りではありませんか。それに痛くもない腹ならば、探られても何の問題もないのが真の臣下でありましょう」

「すべて知っていてそういうことを言う……。まあいい。辺境とはいえエグモンターニャはオルニムとの国境間近で要衝だからな、これから目を光らせるようリモネスに言っておく。せっかく揺さぶりをかけたのだ、慌てて尻尾を出すネズミを一網打尽にせねば」


 検察庁長官の名を挙げたソルシードは、首元のネクタイを緩めながら、手近にあった椅子にどかりと腰かけた。


 南方のエグモンターニャ地方を本拠地とする第二師団で、不正な人事や物資の横流しが発生している、という情報が入った。どちらも根絶するには困難すぎる問題だが、放置して、腐敗が進み過ぎてしまってはいずれ師団全体が使い物にならなくなる。それは、国の守り手であるソルシードには許しがたいことだ。


 国王と違って隠密に動きやすいオクタビオが、ここしばらく、休日を使って情報を集めた。一度ソルシード自身が視察を行い、表立って摘発するより前に揺さぶりをかけてみてはどうかと提案したのはオクタビオだ。今日いく、とは聞いてなかったが。


 国の安寧のためならば、時には臣下の手駒となることも辞さない。ソルシードはそういう王だ。そしてオクタビオも、主君のこういうところは認めている。


 傲慢さは、「この国を背負って立つのは己である」という、強い自負の裏返しでもある。私人としては同性であるオクタビオの目から見ても問題だらけだが、公人として、一国の王としては尊敬できなくはない。少なくともソルシードは、常に国事を己の第一とする人間だから。それに公明正大だ。見せかけの恭順よりも、能力で部下を選んだ点もオクタビオは評価する。


 権力者にしては賢いな、と。

 どちらが王なのか、わからなくなりそうなほど不遜なオクタビオもオクタビオである。


 国王としてのソルシードへの評価はともかく、今のオクタビオは早く帰宅したかった。引き出しから予備のインクを出し、仕事の続きをする。

 が、しかし。


「……陛下?」

「んあ? なんだ」

「そこでお休みにならないで下さい。陛下を待っている寝床は他にいくらでもあるでしょう。そもそも王みずから秘書官室にいらっしゃるとは何事ですかお戻り下さい今すぐに」


 椅子で居眠りを始めていた国王を、秘書官は平気で追い立てる。


 オクタビオは帰りたいのである。しかしそこにソルシードがいたら、仕事が終わっても帰れない。なんやかやと相手をさせられるに決まっている。遅れた仕事をこれからやろうと言い出す可能性もあった。


「秘書官室だろうが執務室だろうが、この宮殿全体が私のものだぞ。どこで寝ようが勝手ではないか」

「では朝までそこにいらっしゃるので? おっしゃる通りそれは陛下の自由ですし床下でも屋根裏でもどこでも好きに寝て下さって結構ですが私は帰りますので。では」

「それでは私がネズミではないか。オクタビオ、もう行くのか? これからエグモンターニャの話をたっぷりしてやろうと思ったのに。それでも秘書官か」

「また今度たっぷりお願いします、微に入り細を穿つ形で。――もうこんな時間ではないですか! 早く帰らねば」


 時計を見て悲鳴に近い声を上げた毒舌家の秘書官に、王は口元を歪めた。


「仕事中毒のくせに、そんなに自分の家が好きだとは知らなかった。早く帰らないとどうなるんだ?」

「……」

「確か、かなり前に出て行ったそなたの前妻の子はまだ幼児だったな。いま帰ってもどうせ寝ているのではないか」


 他に誰が待ってるんだ――と、言外に問うてくる。


 不覚をとった、とオクタビオは痛烈に思う。


 指摘され、頭に浮かんだのは、生き生きとした表情で語ってくれる彼女の姿だ。オクタビオの帰りがどれだけ遅くなっても待っていてくれる人。彼女が自宅に来る前は、ただ、あの子どもがいるだけだった。何年も前に家を出て行った妻と浮気相手との間に出来たパブロと、血の繋がらない子どもをどう扱っていいかわからないオクタビオがいた。

 

 どちらかというと大人しい子どもなのかと思っていたら、シェイラの話では、正反対に活発な様子だ。

 どちらかというと無口な子どもなのかと思っていたら、シェイラの話では、おしゃべりで、食事中でもしゃべろうとするらしい。

 

 オクタビオがまるで見ていなかったパブロの成長を、シェイラの話を通じて、彼は初めて知った。親の事情はどうあれ、そこにひとりの人間が育っていることを、彼女が教えてくれたのだ。さらに。


「……私も複雑な気分だ。だが、シェイラには幸せになってほしいのも本心だからな」


 オクタビオの眉がピクリと反応する。平気でその名を呼ぶソルシードに。

そのかすかな反応に気づいた国王だが、知らぬ顔をする。だが潮時を悟ったらしく、ソルシードは立ち上がった。


「ではな。そなたの進言通り、寝床を温めて待っている者のところへ顔を出してくるとしよう。これはこれで満足しているが、大勢いると毎夜のように忙しい」

「……臣下として申し上げますが、いい加減おひとりに決めて下さい」

「無理だろうな。あの“女神”のような者が現れれば、話は別だが」

「……」


 おやすみなさいませ、とオクタビオは深く頭を下げた。背中で片手を上げたソルシードは部屋を出て、廊下で待っていた侍従や警護と一緒に去った。




 公人としては認めているが、私人としては本当に呆れかえる。どうやったらあそこまで平気で複数の女性をとっかえひっかえできるのか、有能だが凡人に過ぎないオクタビオには理解できない。


 できないが、ソルシードのお陰なのは事実だ。彼女が今、オクタビオの妻になっているのは。だから感謝はするが、苦い気持ちも抱いている。


 仕事を終わらせて帰り支度をしながら、シェイラが彼の妻になると決まった時のことを思い出す。あの時の自分の浅ましい言動を思い出すと、今でも頭を抱えてしまうが。


 他の寵姫によって陥れられ、密通の疑いをかけられた“谷間の菫”。追及を受けるシェイラの顔色は今にも倒れそうなほど蒼く、オクタビオも見ていられなかった。

 

 赤の貴婦人による告発の後、シェイラとその密通相手とされた兵士は、水の苑から場所を移し、ソルシードの私室へと連れて来られた。

 ただただ驚いて戸惑うばかりのシェイラの様子と、ふてぶてしく笑い、開き直ったように密会の様子をまことしやかに語る密通相手。王に呼び出されてたまたまその場にいたオクタビオは、直ちにそれが罠だと判じた。濡れ衣である、と。


 ソルシードはというと、戸惑った顔をしていた。寵姫の裏切りに怒るというよりは、困ったことになったと言わんばかりに言葉を濁していた。

 恐らくソルシードにもわかっていたのだろう。シェイラが濡れ衣を着せられたことは。赤の貴婦人の姦計によって陥れられたと、国王もわかっていた。王の愛を独占して正妻に収まろうとする赤の貴婦人は、谷間の菫を水の苑から追い出したかったのだ。


 赤の貴婦人の嘘はわかっていた。だが証拠はそろい過ぎている。


 不貞を働いた寵姫を罰する法はないが、放逐されるのが慣例だ。あのままでは、ただシェイラは追放されるだけだった。汚名を着せられて水の苑を追い出される。


 王の多情が原因でシェイラがそのような目に遭うのは、オクタビオには許せないことだった。国王本人が相手でも遠慮なく毒舌をふるわせる秘書官である。恨まれるのを覚悟で赤の貴婦人の証言の穴をついてやろうと口を開いたら、ソルシードがやっと決定を下した。


『この件はシメオン秘書官に一任する。では、後は任せたぞ』と。


 口を挟もうとしたとはいえ、呆気に取られた。なぜ後宮に関する問題を一秘書官に任せるのか。面倒事を押し付けられるのは毎度のことだが、これはない。


 突然すぎて、オクタビオも戸惑った。慌てていた。だから、つい、口からこぼれた。


『でしたら彼女を、私に下さい』と、オクタビオは気がついたらそう言っていた。


「……」


 思い返すと今でも自己嫌悪に襲われる。臣下の身で王のものを望む云々、と思ってではない。オクタビオはそこまで王を敬っていない。

 彼が今でも気に病むのは、『下さい』と言ってしまったことだ。シェイラは物ではない。それに、来てくれと頼むなら、ソルシードではなく彼女本人に願い出るべきだった。


 だが、オクタビオのその一言ですべてが決まった。

 そうしてあれよあれよという間に王の寵姫シェイラは後宮を出て、王の秘書官オクタビオの妻となったのである。




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