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前編

前編



 ふと見ると、ベッドの中の子どもは眠っていた。まぶたはぴたりと閉じられ、規則的な呼吸音が聞こえてくる。愛らしい寝顔に、シェイラも思わず微笑んだ。起きている時は始終動き回るやんちゃな男の子なのだが、この時ばかりは無邪気なものである。


 本を閉じたシェイラはベッド脇の椅子から立ち上がると、眠る子どもへ身を屈ませた。柔らかな赤茶色の髪をかき分けて、現れたひたいに口づけを落とす。起こさないように、そっと。


「おやすみ、わたしの宝物(アマドニーニョ)


 静かに静かに子ども部屋を出た彼女は、扉を閉める直前にささやいた。今まで読み聞かせていた絵本を片手に、最低限の灯りだけをともした薄暗い廊下を進む。


 やんちゃな五歳児の世話をするという、慌ただしいシェイラの一日がまた終わる。朝から夜まであの子ども、五歳のパブロと共に過ごすのが今のシェイラの毎日だ。彼女のこういう生活が始まってから、やっとひと月が経過した。


 いや。この『形』に落ち着いてから、ひと月と言うべきか。

 その前には慌ただしい、激動とも言ってもいい事件がシェイラの身に起こった。


 まだ過去ではないと、シェイラは思う。今でもこのアランサの社交界に出れば、自分はこう呼ばれるのだろう。『不義を働いた寵姫』、『王を裏切った女』、『追放された愛妾』などと。


 国王の寵愛を失った末に不義を働き、とうとう宮廷を追放されて臣下に下げ渡された、哀れな元寵姫、と。




 シェイラは以前、国王の母である、王太后の侍女をしていた。だがそれは表向きの話で、実態は王の愛妾であることは宮廷の誰もが知っていた。事実その通り、彼女は現国王ソルシードの寵愛を受ける身だった。王の母の侍女を務めていて恋仲になったのではなく、初めからそのために差し出された。


 辺境の、名ばかりの貴族の家に生まれたシェイラは、たまたま他の姉妹より容姿に優れていた。その美しさに目をつけたのは実の父だ。シェイラが年頃になると、他家に縁付かせるのではなく宮廷に仕えることを強いた。父親の目論見通り、彼女は即位したばかりの若い新王の関心を惹いた。


 しかし、国王の心を独占し続けることはできなかった。容姿は美しいが、シェイラは生来大人しい性格だ。遠慮がちな態度を取っていたら、王は興をそがれたらしい。そして宮廷を彩る花は彼女だけではない。あっという間にソルシードの心は離れた。


 だがそれでも、一度は王に愛された女だ。忘れられたとしても、追放するほどのことはない。しかし事件は、彼女がこのまま宮廷の隅で静かに過ごしていようと達観した矢先に起こった。


 別名水の苑ウーナファンテ・パラーシオとも呼ばれる、王宮内の一角。王の寵姫たちが住まう館のサロンでシェイラが静かに本を読んでいたら、目の前にひとりの貴婦人が立っていて、窓からの外光を遮っていた。


 相手はその当時――現在もだが――国王ソルシードの寵愛を独占していた、“赤の貴婦人”と呼ばれる女だった。目立たぬシェイラと違い、大輪の薔薇のごとき美貌で人の目を惹き付ける、豪奢な金髪の美女である。


 何の用かと首をかしげるシェイラに、蔑みの目をした赤の貴婦人が告げた。


“恥知らず。あなたのような裏切り者は、陛下のもとにいる資格はなくてよ”。


 それは告発だった。


 彼女曰く、シェイラは不貞を働いたのだと言う。赤の貴婦人は、シェイラが王以外の男性と密通したのを見たとまことしやかに語った。語る間に、周囲には他の女たちが集まり、騒ぎは大きくなる。よりによってそんな時だ。ソルシードが水の苑を訪れたのは。


 続いたのは断罪だった。


 赤の貴婦人は国王の前でシェイラの不義を暴く。証拠があるはずだという赤の貴婦人の言葉で、シェイラの部屋が調べられた。すると衣装箱から、シェイラの密通相手から彼女宛てに送られた手紙の束が発見される。


 それから後のことを思い出すと、今でもシェイラは、全身をぎゅっと絞られるような感覚に襲われる。シェイラの密通相手として発覚したのは、宮廷で護衛官として働く身分の低い兵士だった。そして王の前に引き立てられた男は、素直にシェイラとの関係を認めた。シェイラのほうから誘惑してきたと、その兵士は語った。


 こうしてシェイラは宮廷を追放される。

 それまで会ったこともない見知らぬ男との、全く身に覚えのない不義密通の罪で。


 そして。


 宮廷を追い出されたシェイラを引き取ったのが、現在彼女が住んでいる、この家の持ち主だ。五歳のパブロの父親でもある。




 子ども部屋のある二階から、シェイラは階下へ下りていく。向かうのは屋敷の食堂だ。そこの灯りはまだ落とされていない。食卓にはカラトリー類が並び、いまだ帰って来ない人を待っている。


 水の苑の館のように贅沢な調度品にあふれてはいないが、充分に広くて清潔で、明るい光が差し込む屋敷だ。多忙な主人に代わってここを守る、しっかりした使用人にも恵まれている。お陰でシェイラも、生まれて初めての子育てに専念できる。


 この屋敷の主人の名はオクタビオ・シメオン。官吏である。役職は秘書官。

 しかも、国王ソルシードその人に仕える秘書官だ。

 

 その秘書官の屋敷に何故シェイラがいるかというと、二人が夫婦だからである。シェイラとオクタビオの結婚により、パブロも彼女の義理の息子となった。


 シェイラを罰するようにと赤の貴婦人に迫られたソルシードは、どうしてか、返事に窮していた。そしてためらった末に、たまたまその場に居合わせた自分の秘書官に彼女の身柄を押し付けたのである。後は任せる、と言って。


 つまり。


「わたしの旦那さまは、運悪くその場にいたばっかりに、王の寵姫を押し付けられた可哀そうな秘書官……」


 呟きながらテーブル上のフォークを、ずれてもいないそれをなんとなく並べ直す。きっと今夜もオクタビオの帰りは遅いだろう。シェイラが逃げ込むようにしてこの屋敷に来て以来、いつもこうだ。メイドを下がらせた後は、シェイラ一人が夜遅くまでオクタビオを待つ。


 新婚一か月。しかしこれまで、夫の帰宅は毎晩のように遅かった。休日も、仕事の付き合いを理由に外出していくことが多い。


 だから彼女も気づかずにはいられなかった。避けられている、と。


 その、今はいないオクタビオの椅子にシェイラは座ってみた。


 以前から名前も顔も知っていた。ソルシード国王の片腕で、有能な官吏だということも。平民の出だが、若くして王の秘書官に抜擢された俊才らしい。しかし長広舌で毒舌家で、ソルシードが相手でも遠慮しないそうだ。たしかにシェイラも、王が「あんなに長ったらしい秘書官の皮肉に耐える王は私ぐらいだ」と、何度かぼやくのを聞いた覚えがある。


 一度口を開けば長々としゃべるオクタビオ。しかも毒舌。聞けば、誰に対してもそうらしい。

だがシェイラはこの屋敷で、ひとこと二言しか話さない彼しか見たことがない。どんな皮肉を浴びせられるのだろうと覚悟していたが、彼は不義の件にも寵姫だったことにも一切言及してこない。


 妻に対してだけ無口な夫の席に座ったシェイラは、テーブルに頬杖をついて独り言をいう。


「あのひとは、わたしを妻だと思っていないんでしょうね」


 テーブルに突っ伏したシェイラは、そのまま目を閉じて、縁なしの眼鏡をかけた顔を思い浮かべた。


 三十手前、いかにも有能そうな怜悧な目つきの人である。痩身で、やや女性的だが整った彼の顔立ちは、ひそかに宮廷の女官の視線を集めているらしい。

 宮廷に伺候するときは黒のスーツ姿、自宅ではシャツにガウンで過ごしているのを見る。髪はこの国に多い金髪ではなく焦げ茶色、瞳も同じ色だ。シェイラも髪だけは同じ色なので、初めて会った時には少し親近感を覚えた。

 

 親近感の分だけ、不安はほんの少し減った。突然の断罪と追放で麻痺していた心は、それでも少しだけほっとした。


 シェイラの処遇をゆだねられた際、オクタビオは、はっきりこう言った。

 『でしたら彼女を、私に下さい』と。


 だが。そうして引き受けたシェイラを、オクタビオは妻として扱わない。指一本触れたこともない。時折じっと、複雑そうな表情で見てくるだけ。


「……無理もない、か」


 パブロの母親、オクタビオの前妻は恋人を作って家を出て行ったそうだ。その前妻に未練があるのかもしれないし、不義を働いたとされているシェイラを、同じ種類の女と思っているかもしれない。


 シェイラから見ても、この結婚に至る事情はひどいものだ。

 あの時、王が捨てた寵姫を押し付けられて、オクタビオ自身も困惑していたのだろう。思わず引き受けてしまったものの、彼はきっと後悔したに違いない。


 彼がシェイラを避けるのは、しゃべらないのは、シェイラを妻としては認められないから。皮肉を言う気にすらならない。そういうことだと彼女は考える。もしかしたら、息子の世話係としてなら認めてもいいと思っている可能性もある。


 『お母様』と、懐きはじめたパブロは呼んでくれる。屋敷に来た日から、使用人たちも当たり前のようにシェイラを奥様と呼ぶ。


 だがその人だけはいまだに呼ばない。

 オクタビオはシェイラを、妻と呼ばない。名前で呼ばれた覚えすらなかった。


 新婚一か月、平穏な日々だ。

 元々シェイラは、幼い頃から弟妹の世話を焼くのが好きな少女だった。このまま大人しく、パブロの世話係としてあの子の成長を見守れたら幸せだろうと思う。それだけでもシェイラには満足だ。


(だけど)


 オクタビオは毎晩帰ってくる。この屋敷に。シェイラのいる場所に。


 どれだけ忙しくとも、どれだけ遅くなったとしても、必ずこの屋敷に帰る。帰ってまずは息子の部屋へ向かって様子を見て、それからこの食堂に下りて来る。そしてシェイラの話を聞いてくれる。話すのは彼女だけで、内容はパブロのことばかりとはいえ。だから彼女も、オクタビオを冷たい人だとは思わない。きっと、息子想いの優しい人なのだ。


 愛されていないのはわかっている。淋しいけれど、仕方がないとも思う。


 だが一方で、毎晩かならず帰ってくるオクタビオが、シェイラは嬉しい。他の人のところには行かないのだと思うと、救われる気持ちになる。


 夫が毎晩帰ってくるたびに、シェイラはほっとする。その度にシェイラ自身が、この屋敷に確かに根付いているのだと感じる。昼間のパブロの様子を黙って聞く彼に、必要とされているのではと、錯覚すらおぼえる。育っていく何かがある。


 こうしてずっと、同じ家に他人行儀で暮らすのもいい。少なくとも平和である。

 だけどシェイラには、別の気持ちも芽生えている。もっと近づけたらいいのにと、望んでしまっている。


「呼んで……ほしいな」


 もし彼がひと言、『シェイラ』と呼んでくれたら。彼女もこの気持ちを打ち明ける。あなたがわたしを嫌いでも、わたしはお慕いしていますよ、と。普通の夫婦のようになるのが無理だとしても、せめて無実だったと信じてほしかった。


 おたがい捨てられた者同士だ。寄り添えないのだろうかと、シェイラは今夜もオクタビオの帰りを待つ。今夜こそ、と思いながら。


 深夜である。毎日パブロの世話に手を焼くシェイラは疲れていた。

 テーブルに突っ伏した彼女は、そのまま動かなくなった。




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