心
例えば、とても綺麗で美しいものを見た時や、そこはかとなく誰かを愛しい、恋しいと思った時に、「ああ、もう生きていたくないなあ」と思うことが、きっとあると思う。
その日は、雪が降った。細雪だった。手や衣服に触れれば、忽ち消えてしまうような、儚い雪が降っていた。冬とは思えない温かな陽射しの日が続いていたので、私はすっかりそれに慣れてしまい、マフラーも手袋も持たず登校した。しかしそれが間違いだったと、私は家を出てすぐに気付かされた。時折強く吹く風は冷たく身体を刺すようであったし、空気は澄み過ぎて寒さを本物にしていた。少しでも寒さを和らげるために、被っていた帽子を引っ張って、耳を隠した。しかし隠しきれない耳朶は寒いままだった。学校に着くと、真っ先に売店に寄って温かいお茶を買い、それを懐炉代わりにして退屈な講義を受けた。椅子はとても冷えていて、座るのが億劫に思えてしまう程だった。講義の途中、テーブルの上に置いた携帯が小さく振動した。メールを開くと、そこには短く「今夜、日付が変わる頃に。」と記してあった。差出人など、確認しなくても分かった。けれども、私は文章の最後にある「作」の文字が目に入ると、自然と口許が緩んでしまった。今夜、彼に会える。そう思うだけで、私の冷えた身体は、次第に熱を持ち始めるのだった。
枕元の時計を確認すると、無機質なデジタルの文字で「00:35」と記してあった。その瞬間、くぐもった私の頭の中が一気に冴え渡った。乱暴に布団を跳ねのけて飛び起きるようにしてベッドから降りた。床は冷たく、何も履いていない足の裏からはその冷たさがひしひしと伝わった。けれども身体は寒さなんて感じなかった。寒さなんて気にしている場合じゃないくらいに、焦っていた。「日付が変わる頃に」という台詞が頭の中を何度も何度も行き来する。私はもう一度時計を確認した。じっと、穴が開く程見詰めた数字はやはり「00:35」であった。携帯を見ても、同じ時刻が記されており、とうとう私はほんとうに混乱した。血の気が引いていく。パニック症状が出るのは久しぶりだったので、私は軽い眩暈をおぼえた。私はすぐに鏡台の引き出しから安定剤を取り出し、水なしで一気に二錠を飲み込んだ。もう時計は見なかった。携帯を握り締め、私はその場にうずくまった。後悔の波が押し寄せた。それは涙となって私の中から溢れ出てきた。
すると突然、床に置いたままの携帯が音を立てて震えた。私は衝動的に、携帯を掴み、画面を見た。そこには“糸島作”という文字が浮かんでいて、それを見た私はこの上なく安心して、携帯電話をきつく握り締めた。五回目くらいのコールで電話に出ると、ややくぐもった彼の声が聞こえた。
「…もしもし」
ああ、彼の声だ。夜闇の中でも、この声さえあれば、私はもう何も怖くはない。
「もしもし」と、もう一度問い掛けが聞こえて、私は頼りない声で「さくちゃん」と返事をした。
「ごめんな。寝過ごして。あき、今どこにいる?」
と、彼は些か焦ったような喋り方でそう言った。
「家に居るよ。実は私も寝過ごしたの。だからさっきまですごく焦ってたの」
そう伝えると、彼は「なんだ、そうなのか。よかった」と安心したような声で言った。
「今から出て来られるか?」
「うん。行く」
「よし、じゃあ、迎えに行くから。待ってろ。五分で行く。暖かくして来いよ」
そう言って、彼は電話を切った。受話器越しに、彼が床を歩く音が聞こえていた。布同士がこすれ合うような音も。彼が迎えに来る。まだ会ってもいないのに、そう思うだけでとても嬉しかった。
私はパジャマの上にカーディガンを着て、その上にロングコートを着た。そして帽子を被り、マフラーを巻いて手袋をはめた。靴下は一番厚手のものを履いた。足音をたてないように、ゆっくりと、慎重に階段を下りていく。夜、家族が眠っている間にこっそりと家を出て行くことは初めてではない。もう何度も経験していることだけれど、私はそれに慣れることはない。いつだって、緊張して、心臓の鼓動が早くなる。それでも、私は彼に会いたくてたまらないから、少しの罪悪感を覚えつつも、私は黙って家を出るのだ。
玄関のドアの鍵を開ける時の音は結構大きくて、階段にも響くので、私はいつも、誰か音に気付いて起きてしまわないかとどきどきしてしまう。外に出ると、しんとした寒さが身体を包んだ。鼻先が寒い。塵のような雪が、ゆっくりと、静かに、とめどなく降っていた。ドアに鍵を掛けて、私は家の前のフェンスに腰掛けた。信号は黄色に点滅していて、車は一台も走っていなかった。改めて、田舎だなあと思う。見上げると、真っ黒な空に混じって、星がいくつか輝いていた。一番大きな星は青白い光を放っていた。人間と同じように、あの星たちにもひとつひとつちゃんと名前があるのだろうか。どんな宝石よりも、こうして見上げる星のほうがずっときれいだと思った。あの星を集めて、アクセサリーにして、首や腕に飾ったら、どんなに素敵だろう。
りんりん、と。静まり返った夜の中に、短く音が響いた。彼が来たのだと、直感でわかった。隣の家の影から、自転車とそれを押す人影が見えた。夜闇に紛れてはっきりとは見えないけれど、それはさくちゃんだということはわかっていた。私はすぐに駆け寄った。
「さくちゃん」
私がそう言うと、彼は眼尻を下げて困ったように笑った。吐く息が白かった。
「自転車、寒くなかった?」と私が問うと、彼は、
「少し」と言って両手をこすり合わせた。彼の手にはめられた手袋が、去年私がクリスマスに彼に贈ったものだと分かり、愛おしさがこみ上げた。
「行こうか」
と言って、さくちゃんは私の手を取った。
「自転車、乗らないの?」
私は自転車を引いて歩き始めた彼に問うた。すると彼は、照れたように笑って、
「あきと一緒に歩きたいんだ」と言った。
ああ、いとしいなあ。この瞬間を、凍らせて、永遠に私のものにしたい。
「雪、降ったね」
「ああ。細雪だな」
私達は他愛のない話をしながら、二人並んで歩いた。何も言わなくても、彼がちゃんと私の歩く速さに合わせて歩いてくれることが嬉しかった。五分程歩き、公園に着くと私たちはベンチに座った。冬、寒さを埋めるために寄り添い合う恋人みたいに、私たちはお互いの身体を近付けた。
「今日はもう、会えないかと思った」
私は小さな声で言った。すると彼は、一瞬目を見開いた後、また柔らかく笑って、
「おれもだよ。目が覚めて、時計を見た時はすげえ焦った」と言った。
「でも、会えてよかった」
「うん。おれも」
「もし、今日、さくちゃんに会えなかったら、死んじゃおうかと思った」
「おい。死ぬとか、簡単に言うな。冗談でも言うなよ、いいな?」
そう言う彼の顔は真剣だった。私は、なんだか彼に怒られているみたいで、少し怖かった。
「おまえはおれの隣にいるんだ。これからもずっと。だから、死ぬなんて、言わないでくれ」
今度は彼の顔が、みるみる悲しくなっていき、それを見た私は、彼に「ごめんね」と何度も繰り返した。
「ごめんねさくちゃん。ごめんね」
「ごめん。もう言わないから。だからそんな悲しい顔しないでよ」
慌てたようにそう言うと、彼は片方の手袋を外して、その手に息をはあと吹きかけた
そしてそのまま私の頬に手を当てると、包み込むように撫でた。私は何も言わず、ゆっくりと目を瞑った。そして彼の手に、自分の手を重ねてそっと握った。衣服が擦れるような音がして、彼の身体が近付いてくるのが分かった。彼のもう片方の手が、私の背中に添えられ、私は抱き締められた。彼のマフラーに顔を埋めると、微かに煙草の匂いがした。少しだけ甘い。私は彼の手を力を込めて握った。
「さくちゃん」
マフラーに顔を埋めたまま発した声は、ひどくくぐもっていた。
「もういいよ」
そう言った瞬間、彼が強く私を抱き締めた。身体が密着しているのに、私の心はひどく冷たかった。彼はするりと自分の手を私の頬と手の間から抜いて、私の腰のあたりに回し、さらに強く抱いた。彼の表情は見えなかった。時々、鼻を啜る音が聞こえた。私達はそのまま、無言で抱き合っていた。それはとても長い時間のように思えた。永遠のようだとも思った。
乾いた頬に、生温いものが伝った。それが渇いた頃、それは涙だったのだと気が付いた。
さくちゃんは私を玄関の前まで送ってくれた。「またね」と言うと、彼も同じ言葉を返してくれた。そして、「風邪、引くなよ」という言葉をかけてくれ、私のほうを一度だけ振り向いて帰っていった。
私は家を出る時のように、慎重に鍵を開け、ゆっくりと、忍び足で階段を上って部屋に入った。コートを脱ぎ、マフラーと帽子を外し、トイレに入った。デジタル時計を見ると、小さな文字で、「2:03」と示してあった。トイレから出ると、手を洗い、口を濯いで、水を飲んだ。水は刺すような冷たさだった。
明日の学校の準備をしながら、明日は何時に登校すればいいんだっけ、ということをぼんやりと考えていた。明日の朝ご飯は何にしよう、お弁当のおかずは何にすればいいかなどと考えたけれど、何も思い浮かばなかったので、考えるのを止めた。
ぼんやりと、焦点の定まらない視線で天井を見つめながら、もう家に着いただろうか、いや、さすがにまだかな、などと、彼の事を考えた。彼の腕にきつく抱かれた背中は、すっかり冷え切ってしまっていた。先程、突き放すような言葉を彼に投げておきながら、次は何時会えるだろうかと考えている自分が、ひどく愚かで、滑稽に思えた。彼が忙しいことはなんとなくわかっているけれど、私は何も知らないふりをしている。私はひどくわがままなのだ。「会いたい」と言えば、彼は時間を作って今日のように会ってくれる。もしかしたら、さくちゃんには恋人がいるかもしれない。例えそうだとしても、彼は私と会ってくれるだろう。今日みたいな、こんな、密やかな夜にさえ。私が彼にとって幼馴染という立場じゃなかったら、私が、毎朝父親と妹のご飯とお弁当を作ったり、洗濯をしたりしていなかったら、私の母親が、心を病んでサナトリウムに入ったりしていなかったら、さくちゃんはきっと、私なんかのそばにいないで、たくさんの女の子と出会って、恋をして、別れて、また恋をしているのだろう。
それでも私は、彼にそばにいて欲しい。私のことを、一番に考えていて欲しい。私にもしものことがあった時は、真っ先に駆け付けて欲しい。私の心はいびつでもろい。悲しいけれど、それは母親譲りだと考える他なかった。
午前五時。枕元の時計のアラームがセットされていることを確認して、私は目を閉じた。
けれどすぐに喉が渇いて、鏡台の上に置いたペットボトルの水を口に含んで、しばらく温めてから飲み込んだ。横向きになって、再び目を閉じた。鼻先がひどく冷たかった。枕元に置いてあるウォークマンを取って、最近お気に入りの夜の深海みたいな曲を聞いた。
突然、首の後ろあたりで何かが振動した。振り返ると、そこには画面の光っている携帯があった。その光が眩しくて、目が痛くなった。画面には“糸島作”とあって、私は細めていた目を、一気に大きく開いた。メールには「まだ起きてる?今日は遅れてごめんな。今度は皆で鍋でもやろう。じゃあ、また連絡する。おやすみ」とあった。
文章を読み終えると、私は携帯を閉じた。返事をする気は起きなかった。
布団を引っ張って、鼻先まで覆った。靴下に包まれた足の指先が冷たい。明日起きる頃には、雪は止んでいるだろうか。あんなに細かな雪だと、あまり積もりそうにない。また、降ってくれるだろうか。今年の雪は、もうこれで終わりかもしれないと思うと、なんだか淋しくなった。あと少しで、この寒さも消えて、あっと言う間に春が来るのだろう。温かな日差しの中に紛れて、この世界から消えていく私を夢見ながら、目を閉じた。