エピローグ
ベッドから降りると、杖を頼りに歩き始めた。
壁の外に出てから、自分の体は言う事をきかない。
右の掌を動かそうとすれば足が動く。
何もかもがぐちゃぐちゃになってしまっていた。
頭の中で理解しようとしても、その頭を意識しようにもうまくいかなかった。
「うっ」
足は少しずつ言う事を聞くようになった。
しかしこうして気が抜けてしまうと
「あーあ……」
壁に手をつくと、腕の先は簡単に壁の中に飲み込まれる。
その中では、簡単に腕を動かす事ができるというのに。
「ねえ」
大きめのバッグを肩にかけた少女が、不意に目の前に立ちふさがる。
「……人違いだよ」
「まだなにも言ってないのにわかるの? これは驚いたわ。バンド組む?」
組まねえよ。
「私にはギターがあったのよ。でも、なんというか、どうやってもギターを持てないのよね。なんというか、ギターって言葉は知ってるし、音を出すものだって事もわかるんだけど……持ち方がわからないのよ」
彼女はぶつぶつと考え込む。
面倒だからいつものように脇をすり抜ける事にしよう。
「待って、坂井真」
「……」
「あなたは私が山で倒れているのを見つけてくれたのよね。もしかして、私のギターって側にあったんじゃない?」
「だから、何度もいうようだけど君はなにも持っていなかった。君がどうしてギターにそこまで執着してるのかも知らないし、僕だって気付いたらあの山の中にいたんだ。思い出させないでくれ。僕が助けたのは君だけなんだぞ」
僕が助ける事ができたのは、ギターと共に壁に飲み込まれていた彼女だけだった。
他の人たちは、すでに時間が経ち過ぎていたのか、壁の中からでた頃には体がだめになってしまったのだ。
彼女だけは、まだ壁に入って間もなかったようで、なんとか助かった。
僕はいう事のきかない体で彼女を引き摺り、山を降りたのだ。
「私ね、昨日退院したのよ」
「そうか。良かったじゃないか。僕はまだだよ。それじゃ……」
歩いていく。
彼女はもう、ギターのことを思い出せないだろう。
あの場所に、置いてきたからだ。
あの壁の中に。
「山に行ってきた」
「……いま、何って言った?」
「山に行ってきたの。私がいた場所に、なにかがあると思って」
「……なにもなかっただろ」
「うん。ギターはなかった。塀はあったけれど」
塀は、残されたままだった。
まだなにか意味があるのかもしれないと思い、退院すればまず調べに行こうと思っていたが。
塀にされた記憶が本当に戻ってこないのかを調べる必要がある。
「私ね、塀を辿ってみたの。なにかわからないけれど、その先になにかがあるような気がして」
「……」
「今頃警察がまた捜索してる。塀の先には洞窟があったの。崖の真下だった。その奥には、女の子の死体があったわ。服装でわかっただけだけどね」
「そうか」
「その子、ずいぶん前に行方不明になった子なんですって。洞窟の壁にいっぱい落書きがあったわ。足を怪我して、動けなくて、家族へのメッセージがたくさん書かれてた」
「……帰れよ。もうお前は退院したんだろ。感謝されるようなことはしてないし、もう会う必要もない」
聞きたくもない話だった。
次の日、新聞には行方不明の少女が発見された記事が、小さく載っていた。
地図が載っていて、山と彼女の家が、そんなに離れていなかったことがわかる。
「自由になりたかった、か」
塀が向かっていた方向と、彼女の家のある方向は一致していた。
深山梨花。
その少女のことを、僕は忘れないだろう。




