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壁の中にいるという感覚は、すぐになれるものではなかった。
外からみればらくがきでも、中に入れば生身であった時と変わらないからだ。
とはいえ、同じように動かせるわけではなかった。
体を動かそうとすると、自分の意思よりずいぶん遅く体が動き始める。
それは、だれかが落書きを書き直しているように考えると、納得できなくもなかった。
つまり、なんらかの処理が終わらなければ、自分の体は動かないのである。
手を動かすだけならすぐにでもできないないが、走り出したりするようなことは、簡単にはできない。
それに、そもそもこの世界では、彼女に勝てるわけがないのだ。
「そんなおもちゃを向けてどうしたのよ」
外から見ていた僕には分かっていた。
あの、ギターを見た時から分かっていた。
絵と実物は違う、と。
「お前がそう思うならそれでいいが、これは銃だ」
そのエアガンは、もちろん本物の銃ではない。
見た目はそっくりであっても、ほんものであるわけがないのだ。
それはあくまで、壁の外の話である。
「お前はこの世界に長くいきすぎたんだ。忘れたのか。ここは壁の中なんだぞ。現実ではない。本当の世界は、あっちだ」
壁の外から見える彼のもつエアガンは、どう見ても本物の銃である。
見た目が同じなのであれば、絵の中では、壁の中では、それは一緒なのである。
「残念だけど、おそらくあなたがしようとしていることは無駄よ。この世界では、はやいものほど止まって見える。漫画とかで考えたらわかるでしょう。その弾がどれだけ早かったとしても、避けることは簡単よ」
僕はそうか、と銃を降ろして、そして背後に弾を撃った。
「試し打ちだ。確かに、遅く見える。僕でも避けられるかもしれない。だって、僕には意識があるからね」
「あなた、何を考えているの」
「別に、君が避けたってどうってことないさ。ただ、その後ろにいるだれかが、被害を被るだけだよ」
「……脅しているのね」
「君がどうして人を飲み込むのか考えていた。確かに君が言う通り、人間を飲み込み続ければ人に近づけるっていう話、考え方には納得した。でも、それならただひたすら人を喰えばいいだけだ。でも君は、話を聞いている。そしてその記憶で、自分の世界を広げている。その後にその人間を喰うんだ」
銃を改めて彼女に向けた。
「記憶は永遠じゃない。でも元があれば、何度でも思い出せる。つまり、取り込んだ人間が死んでしまったら、記憶の元になる人間が死んでしまったら……君の塀はどうなるんだ?」
「……」
「10秒だ。10秒後に撃つ。おそらくだ、これはあくまで予測でしかないが、この壁の中にいる、君の後ろにいるだれかが死んでしまったら、君のそのだれかの記憶は失われるだろう。そして君はひとつ自由を失う。人間から離れていく。塀が崩れてしまう」
「……」
「試してみようじゃないか。違ったら違ったで別にいいんだ。残り3秒。さあ、覚悟を決めるんだ。もう一度言うぞ。君は避ければいい。後ろがどうなったって、別にいいじゃないか」
引き金に指をかける。
「自由になるって決めたのよ。あたしには、行かなきゃいけない場所があるのだから」
そして銃弾は、彼女に襲い掛かった。
銃弾は一直線に走って行った。
弾速はやはり大したものではない。
梨花はその銃弾を軽々と避けた。
と、同時、彼女の背後の壁に亀裂が走った。
「最後にあなたに言っておくわ。残念ね、言ったでしょ。この壁はぐるぐる回ることしかできないって。壁に亀裂を入れたわ。私の避けた銃弾は、すでにあなたに向かって走っている。あなたにはきっと避けられないわ。いまは一時的に、亀裂の向こうの記憶はないけれど、あなたが死んだ後にもう一度取り戻せばいいだけよ。さあ、もうすぐよ」
「……すでに僕は撃ったんだぜ」
「なにを言って……!」
彼女はなにかに気付いたのか、反射的に身を逸らした。
「うぐっ」
「僕の弾丸は、ひとつじゃない」
彼女の背後の亀裂から、銃弾が飛び出した。彼女の反応は早かっただろう。
しかし、この壁の中での動きに慣れている彼女でも、不意の攻撃には対応しきることはできない。
「はやければはやいほど、この世界では止まって見える。お前が言ったんだ。落ち着いて避けていれば、そうはならなかっただろう」
彼女の体は固まっていた。
胸を抉るように、弾が走る。
「ああ……」
彼女の口から、声が漏れた。
僕はゆっくりと身を屈める。
すぐに頭の上を、弾が走って行く。
「僕はさ、きっともう人間には戻れないんだろう。人間の領域には、もう立つことはできないんだと思う。それでいい。僕の旅はいま終わる。人であろうとした記憶はもう僕にはないけれど、それでもいつか僕が人になろうと思う時がきたら、君のことを思い出すだろう。君のことは僕が覚えているから」
弾丸が彼女の体を貫いた。




