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 浮かんでいる。

 つまり、今の自分はそうだった。

 遠くから鼻歌が聞こえてくる。

 ずいぶんと機嫌の良い女の子の声だ。

 意識は手の届く場所に転がっている。

 手を伸ばすことは容易だが、しかしそれをする気力が、僕には残されていなかった。


「また、あたしは人間に近づいた。そうよ。そしてもっと遠くに行くの。この先、ずっと先に、あたしの向かう場所がある」


 自分から少しずつ、何かが奪われていくようだった。

 自分から何かが失われていくたびに、このふわりとした世界が広がっていくのを感じた。


 壁の中にいた、ギターの少女を思い出していた。

 彼女はどうなったのだろう。

 いま僕と同じように、浮かんでいるのだろうか。

 まるで眠るように目を閉じていたあの表情は、きっと寝たままに壁に飲み込まれてしまったからなのだろうか。


「……」


 思い出していた。

 自分は眠っている間に、いつの間にか左腕を壁に飲み込まれた。

 あのとき痛みは感じなかったが、あの壁の中で、僕の左手は動いていたか。


「ギターの少女は眠ったままの姿だった。僕はどうだ。違う。意識はある。動けるぞ」

「え?」


 こちらを見た壁の中の女の子、梨花は驚きの声を上げた。


「僕の意識は眠ってなんかいない。だから僕は、この中で動ける。お前は眠ったままの人間を取り入れるだけで、起きた状態の人間を取り入れたことがなかったんだろう。結果はこうだ」

「……そう。そうね。こうなるなんて思っていなかった。そうね。残念だわ」


 彼女は息を吸い込んで、そしてゆっくりと、ゆっくりと、吐き出した。


「あなたは……そうね、動けるようだけれど、それでどうするの。何がしたいの。人間からついにあなたは飛び出したわ。もう、あなたはなにも考えなくていいじゃない。なら、あたしの糧になるのが道理というものよ。正直、あなたみたいな、もともと人のハズレものである人間を、さらにはずれてしまった存在を飲み込んだところで、あたしにプラスになるようなことがあるのかも疑問だけれど」


 僕は言い返すこともなく、彼女の次の言葉を待った。

 自分がどうしたいのかがわからなかった。


「すごく、残念だわ。あなたのことを忘れることはすごく残念だわ。でも、仕方がないのよ。もし、あなたがこのまま眠りにつくというのなら、あたしはそのようなことは絶対にしないわ。でも、もし、まだあなたが何かをしようとするなら、そうしなければならない。仕方がないのよ。これはあなたのせいだわ。あたしは悪くないのよ」

「……いま分かった。僕は君に怒っているんだ」


 と、僕は彼女の言葉に続けて言い放った。


「そうだったさ。僕はもういっそ、人間なんかじゃなく、もっと自由にいられたらって。何も考えずに生きていけたらって、そんなことを考えていたさ。そして、壁にいる君に同情したんだ。君がもしこの壁から外に出ることができて、そして、人間になるっていうことは……人になるっていうことは……つまり僕もいつかは、人間になることができるんじゃないかって、そう考えていたんだよ。でも」

「もうそれ以上はだめよ」

「君はもう人間を殺した」

「もうやめて」

「人間を殺してしまった時点で、君はもう」 

「もう知らない。あなたなんて忘れるわ」

「人間である資格がないのだから」


 その瞬間だった。

 なにかが割れる音がした。

 ミシミシと嫌な音を立てて、何かが崩れていく。

 その音はすぐ背後から聞こえていた。


「あたしのせいじゃない。あなたがそんなつまらない話をするからよ。あたしは、あなたの話を切り離したわ。忘れたことは思い出すことができない。それが、この場所のルールなの」


 彼女の塀は記憶でできている。

 その記憶を崩すということは、彼女にとっては最後の手段だっただろう。

 僕はすっかりと、綺麗に、彼女に話してしまった物事を忘れてしまっていた。


「必要ないさ」


 そして、僕は腰のベルトから、エアガンを取り出した。


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