3
『空っぽだ』
また聞こえた。
一度足を止める。
ずいぶん近くから聞こえたようだった。
そうして、ふと塀に目を向ける。
「……らくがきだ」
女の子の絵だ。
その女の子の体は、ぽっかりと穴があいている。
なにかに引っ掻かれたような線が一直線にその体を横切っていた。
その隣にはちいさなギターが書いてある。
もう一度女の子の絵を見た。
まるで無理矢理ギターの姿にさせられているようだ。
寒気がした。
ただの落書きである。
もう気付いたのではないか。
ただの落書きである。
「彼女は言っていた。前にあたしを助けてくれた人間はギターを持っていた、と。そしていまこの塀には、らくがきになった女の子の姿がある。ギターを持った女の子だ。そして僕は今日の朝――」
左腕を壁に飲み込まれたのだ。
「なにかがおかしい。そんなこと……ある訳が無い」
戻らなければ。
彼女が目覚める前に元の場所に戻らなければ。
もし、彼女がこの事に気付いたのなら――僕がもう壁に吸い込まれるという結果を知っているという事に気付いたのなら――間違いなく終わりだ。
僕は一度既に飲み込まれている。
どうやってそうしたのか、どうして僕の左手が今無事なのかは分からない。
でも、次は無い。
それだけは分かる。
「そうか、この前の傷はそういうことだったんだ」
左腕を飲み込まれる前の日、目を覚ますと左手の甲に痛みを感じた。
皮が一部分だけはがれていた。
あれは草か何かで切ってしまったと考えていたが、違ったのだ。
もうすでにあのとき、皮だけが壁に飲み込まれていたのだ。
「心配したよ。眠っている間に何かあったらどうするのさ」
僕の壁に触れる右手のすぐ側で、彼女はそう言った。
「こんなところまで来てどうしたの?」
彼女はにっこりと笑って言う。
咄嗟に右手を壁から離そうとして、すぐにそれを止めた。
いま手を離せば、この塀のことを知っていると気付かれてしまう。
「食べ物を探そうと思って」
嘘はついていない。
「そっか。でもキノコとかを知識もなしに食べるのは良くないよ。生き物もこの辺りにはいないし」
それはたまたまだった。
彼女の目から目をそらそうとして、視線を動かした。
塀の高さは2メートルほど。
彼女のいる高さは、僕の視線に近い、1メートルと60センチほどのライン。
その下だ。膝の辺り。
そこに、もうひとつのらくがきを、僕は見つけた。
熊だ。
「手を離しちゃダメだよ」
「……っ!」
「あなたは壁に手をついている。離す理由はないよね。そう、あなたがこの壁から手を離す理由はないはずなのよ」
そうだ。
理由なんてない。
あってはいけなかったのだ。
食べ物なんかを山で見つけようなんて思うんじゃなかった。
旅に出ようなんて思うんじゃなかった。
こんなに外が危ないだなんて――人間とは違う何彼があるなんて思いもしなかった。
生き物がいないのは当たり前だった。
彼女が飲み込んでいたのだ。
だからこの塀の近くには、なにもいないのだ。
「ああ、でも――ちょっと頭がかゆいから掻く。ただそれだけだよ。僕は右利きだからね。だから僕は右手を、この壁から離す。そうだ。頭を掻くんだよ」
「……だめよ。左手を使いなさい」
「なぜだ。この壁から右手を離してはいけない理由があるのか。あるいは、そうしてくれないと困る事情が、君にはあるのか!」
僕は、右手を離した。
すぐに走り出す。
「壁から離れないと! もっと遠くへ! もっと遠くへ!」
彼女は声も上げず、ただ瞬きもせず、僕の後ろ姿を見送った。
日は暮れた。
もうずいぶんの距離を進んだ。
もう一度、旅のやり直しである。
そう思えば今まであった事は忘れられそうである。
サバイバルブックを頼りに火をつける。
壁からずいぶん離れてしまったため、もう安全ではないのだろう。
一番危険である壁の近くにいることが、一番安全だったというのも、なかなかに妙な話ではあるが。
痛む左手の甲を撫でて、シートの上に寝転がった。
「寝よう。また明日、進むんだ」




