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山に入ったことには理由があった。
電車で遠くに行ったとして、するといつか防犯カメラとか、目撃情報とか――そういったもので簡単に捕まってしまうからだ。
これは旅なのだ。
だれかに捕まっては終わりなのである。
「遠くに行くんだ」
人間のいない場所へ。
僕が、おかしくない場所へ。
「ちょいと、そこの君」
「……」
見つかるにしてはあまりにはやい。
旅はまだ始まったばかりと言うのに。
「ああ、逃げないで。ちょっと手伝ってほしいんだよ。君がだれだとか、どこにいこうとしてるとか、そういったころには申し訳ないけど全く興味が無い。君だけなんだ。私をいま助ける事が出来るのは」
「すいませんが、できません。先を急ぐので」
遠くに行かなくては。
もっと遠くへ。
振り返らずに僕は進む。
「頼むよ。君だけなんだ」
「……ぅ」
ぐらりとくる。
頼られた事がないからだろうか。
「少しだけですから」
言い訳をするように言った。
「少しで良いさ」
振り返る。
そこは山の中だ。
なにかが捨てられていた、という話はそう珍しい話じゃない。
つまり、その――ブロック塀がずらりと並んでいたとしても――ありえる話なのかもしれない。
「ここだよ」
その塀に、そいつはいた。
「なんだい。そんなに驚く事は無いだろう」
「いや、その……」
「ピョンきち、って知ってるだろ? それと一緒じゃないか」
シャツにカエルが張り付いた話だ。
ずいぶん昔の話だが、僕も名前くらいは知っていた。
「あれは創作の話だけど」
「いまの世の中、なにだって現実じゃないか。車だって空を飛ぶんだから」
それとは話が違ってくるような気がするが。
「落書きが動いているのか」
「そう、テレビが飛び出すみたいにね」
映像が飛び出すのであってテレビが飛び出す訳ではないが――その塀ではたしかに、白線の落書きが動いていた。
「ふむ」
まあそんなこともあるのかと、とりあえず納得する事にした。
「ドア開けたらどこにでも行けるみたいにね。信じてよ」
それはこの先ずっと無理だろ。
「君は、その……どうしてそこに?」
「さあ? 気付いたときからだよ」
彼女――なんとなく声色でそう判断したが、そう言わせてもらおう――その落書きとして塀にいるというのは、自分がそうなると想像もできないため、どのような感じなのかが気になった。
「自己紹介というか、君が足を止めてくれた訳だし、お礼にはならないけれど話しておくよ。あたしは梨花、壁を伝って生きている」
「あーっと……僕は真だ」
「山に生きている?」
「……今はね」
ただ通り道として選んだだけなのだが。
「あたしはね、壁を伝う事しか出来ない。ずっと、ずっと――。だからね、ただ一枚の塀だけだと、おなじところをぐるぐる回る事しか出来ないと言う訳さ」
一周してしまうというわけか。
「不思議な事に、あたしっていうのは、誰かから話してもらった事を蓄積できるんだよ。記憶となったそれを、積み上げて、塀を作ることができる。あたしはそうやってずっと、ここまでやってきたのさ」
「とは言われても……」
「何か試しに話してみてよ。小さな時の話でもいいから」
「うーん」
何かあるだろうか、少し考えてみる。
「こんなのはどうかな――」
まだ僕は幼かった。
その時間は、昼食の時間だったか。
僕はフォークを握っていた。
皆は箸を握っていた。
ただ、それだけの話。
「ふむ。ふむ」
彼女は何度も、何度も頷いて、そして味わうようにのどをならした後、ふうと息をついた。
急な事だった。
どしんと、重く音をたてる訳でもない。
ただ急に、瞬きした瞬間に、そこにあったということだけだ。
つまり、塀が伸びていた。
「こうして、あたしは動ける場所を広げてきたんだよ。もっともっと遠くに行きたい。もっと自由になりたい。頼むよ」
「……」
「真の話をあたしにちょうだい」
僕は、頷いていた。
正直なところを言うと、彼女を同情していたのだ。
そんなところで、まるで閉じ込められているようだと思ったのだ。
少しでも自由になれるというのなら、彼女の助けになろう。
自分が先へ進むのはその後で良い、そう思ったのだ。
「何を話そうか」
僕はそうして腰を下ろした。
座ってみれば、足がほんのりと暑くなるのを感じた。
どうやら知らぬ間に負担をかけていたようだ。
「何でも良いよ。君が楽になれるのが一番だ。あたしは聞き上手だからね」
「そうか」
「そうだ、前にあたしを助けてくれた人間の話でもする? その人間はギターを抱えていたんだけど――」
「……」
聞き上手とはよく言ったものである。
僕はゆっくりと目を瞑って、話に耳を傾けた。
そうか、なるほど、とか適当に相づちを打つ。
日はいつの間にか落ちてしまって、辺りは真っ暗だった。
夜風が木を揺らし、明かりも無いその世界の中で、眠りの海に沈んでいく。
解放感からかやけに深く、僕は意識を手放した。




