第三章 ライ
夢と現実の狭間の中にいる感覚を、リオは暑さも冷たさもない液体の中にいるようだと思っていた。
重力のない液体の中に漂っていると、いつもの自分ではないような不思議な感覚がした。
そこで唐突に場面が変わった。
アリアの樹が立つ小高い丘で、リオはただじっとそれを見ていた。
逆光で顔が見えない少年が、白い紙を握り締めていた。
顔が見えないのにも関わらず、リオは少年がもう泣いていない事を知った。
少年は、選んだのだろう。
(あぁ…終わってしまう。)
リオは何故かそう思った。
何が、かは自分でも分からなかった。
ただ何かが終わりを迎えるのだという事は分かった。
そしてそれをリオは悲しいとは思わなかった。
大切なのはそこだった。
「憧れていたのは完璧な強さのはずだった。こんな不完全なものじゃなかった…。」
少年に対して申し訳なくてたまらなかった。
けれど、始まってしまった物を自分から終わりにする事は出来なかった。
例えこの始まりを、リオ自身が知らずにいた事だとしても、気に食わないからとリセットする事など出来ない。
なぜならこれは、ゲームではないのだから。
声は出ず、指先すらも動かせない、何一つ自由にならないリオを包み込むかのように、温かい風を受けたアリアの樹が歌い出した。
まるで慰めてくれているかのようだったが、同時にこの現状を悲しんでいるようにも感じた。
(あのおじさんは何て言ったんだっけ…。)
アリアの樹の歌に耳を傾けながら、リオの脳裏にあのおじさんの言葉が唐突に思い出された。
(間違えないでって何をだろう…。)
「こんな事なら知らなければ良かった。でもまだ間に合う。今なら…僕が…。」
アリアの樹に背を向けて、小さな声で呟きながら少年は歩き出した。
低くて冷たい声だったが、同時にとても悲しい、強い決意と覚悟を含んだ声だった。
(そう。それでいいんだよ。君は間違ってないんだ。)
少年がリオのすぐ横を通り過ぎる時に、リオは心の中で少年に言った。
風が止んで、アリアの樹は歌う事を止めた。
(君は間違ってない。そして、オレも、間違ってないんだ…。)
リオは確信した。
自分にも出来る事があったという事実が、リオは何より嬉しかった。
その事実がなによリ初めて、この夢の中でリオに安らぎを与えた。
少年には夢の中でしか会う事は出来なかった。
それも、起きたら全て忘れてしまう夢の中だけだった。
それでもリオにとって、少年の存在は特別だった。
第三章
ライ
眩しい光が目に飛び込んできて、リオは思わずうめき声を出した。
うめき声をあげながら、何だかとても大切な夢を見ていた気がした。
だが、寝ぼけている頭で思い出そうとしても思い出せる事は何もなく、思い出そうとすればするほど夢の内容は煙のようにリオの頭から消えていってしまった。
リオは諦めて目を開けた。
「あ、起きた!!」
驚きのあまり言葉を失うという表現は、今のリオにピッタリだった。
何しろ目覚めたリオの目に飛び込んできたのはリオの部屋の風景ではなく、羽根の生えた小さな妖精、ライだったからだ。
心臓がギュッと変な音を立てた気がした。
「おはようなのら、リオ!」
ライはそう言うと、透き通る美しい羽根をパタパタと動かして言った。
ライが羽根を動かすと、窓から入る光が反射してリオの顔に光がキラキラと当たった。
「…あぁそうか、まだ夢を見てるのか。」
考えてみれば当たり前な話だった。
こんな事が現実のはずはない。
リオはそれでも一向に落ち着かない心臓を落ち着かせるように、胸をトントンと叩いて言った。
ライはその行動の意味が分からなかったらしく、首をかしげてまん丸な目を更に丸くした。
ライはリオが空想の世界で遊ぶ時に造り出した友達の中の妖精で、身体は二頭身のまるでキューピー人形のようにプクプクしていた。
光によって羽根の色を七色に変える美しい羽根と、色素の薄い、茶色く柔らかい髪が、リリィは羨ましくて仕方なかった。
ライは笑った。
「夢じゃないのよぅ!!」
そう言って、ライはリオの鼻に小さな両手でしがみつくと羽根をパタパタと動かした。
鼻に広がる温かなぬくもりと、ライの手のとても柔らかい感触がリオを混乱させた。
「おいら達は生きてるんらよ。リオが命をくれたんら!!」
ライは顔をくしゃくしゃにして笑った。
リオがおそるおそる右手でライの髪に触れると、ライは笑ってリオの右手に向かってジャンプした。
リオは慌てて両手でお椀の形を作って、ライをキャッチした。
ライの髪はリオが想像していたよりもずっと柔らかかった。
そして、ライの舌っ足らずな話し方はリオが想像していたよりもずっと可愛らしかった。
ライは満足そうに手のひらに座ると、リオを大きな黒い瞳で見上げた。
「ライ…ライだ…!」
リオの胸の中に小さな炎が生まれたかのようだった。
興奮が、歓喜が、そして希望がリオの体の中で激しく暴れまわっていた。
「リオのおかげでみ〜んな幸せなのら!」
ライが両手を精一杯大きく広げながら言った。
精一杯伸ばしても耳の横にも届かないライの姿が可愛くて、リオは大声で笑った。
こんな声を出すのは初めてだった。
笑いながら周りを見渡すと、そこにはいつもリオが想像して遊んでいた風景がそのまま広がっていた。
「ここは…ドロドロの木の上の小屋?」
リオの声が興奮で上ずった。
ライはおかしそうに口に手を当て、笑いながら頷いた。
ドロドロの木の事を考えついたのは幼稚園の時の事だった。
役を決めて泥団子を作ってはおままごとをする女子や、ただ走り回ってチャンバラを繰り返す男子がリオは幼稚に思えてたまらなかった。
だからといってリオは園庭の遊具で遊ぶような子供でもなかった。
どうしても、決められた形でしかない遊具の楽しさを理解出来なかった。
それでも形を自由に変え、意思を持ち、持ち主と共に成長する、そんな遊具があったら楽しいかもしれないとリオは思っていた。
そう想像すると、リオの頭に一本の木が浮かんだ。
木といってもただの木ではなく、その日の木の気分によって姿形や色が変わり、一ヶ所に縛られる事なくどんな場所へも共に歩いていく事の出来る木だった。
木の内部は部屋になっており、要望に応じて部屋を自由に変えてくれる。
そんな木がいたらどんなに楽しいだろう。
考えるとワクワクした。
リオにとって想像するという事は、何も描かれていない真っ白なキャンパスに、線を書き、色を塗って『何か』を造り出す事と同じだった。
最初は何もない場所に、リオだけの『容れ物』を作り、何度も強くイメージしていく事で、『容れ物』に命を宿すように思えた。
リオはこの木がとても気に入り、空想の世界でみんなが集まる家にする事にしていた。
「ドロドロの木、すごく嬉しいんらね!!」
ライが笑いながら言った。
「だってリオが来たら、部屋の中がきれいになったんらよ。昨日はすごく機嫌が悪くて、おいら達を中に入れてくれなかったんらのに。」
ライの言葉に反応したドロドロの木が、抗議するように体をザワザワと揺らしたので、リオやライの体も左右にグラグラと揺れた。
揺れがおさまると、リオとライは顔を見合わせて大声で笑った。
たまらなく嬉しかった。