第二章 箱
「こんにちは。」
腰まで伸びた長い銀色の髪に、黒いトレンチコートを羽織ったその男は、着ている服とは似合わない優しい笑みでリオに話し掛けてきた。
リオは初めて会ったはずのこの男が、なぜか懐かしくてたまらなかった。
逃げようという考えなど浮かびもしなかった。
そんなリオの心の中を見透かしたかのように、男は笑いながら言った。
「多分、僕達は会った事がないと思うよ。」
そう言われてもリオは驚きもせずに男の方へ一歩進むと、 大きな目をもっと大きくして男を見上げた。
「でも、知っている気がする。おじさん、誰?」
男は一瞬きょとんとした顔をした後、突然大きな声で笑い出した。
「あっはははは!!君、凄いね!!」
「…?何が?」
涙を流しながら笑う男に少しムッとしながらリオは言った。
「だって物怖じしないんだもん。怖いものとかないの?僕が殺人犯だったらどうするの?あ、あと、おじさんじゃないからね?年は秘密だけど。」
笑う事を止めようとしない男を睨み付けながら、リオも言った。
「だって殺人犯じゃないじゃん。おじさんには人を殺す事なんか出来ないよ。それに…。」
「ふむ?」
「おじさんが殺人犯だったらそれはそれまでだ。終わりを迎えるだけだろ。生き物なら当たり前の事だ。」
男の顔から笑みが消えた。
「で、おじさん、誰?なんか用なの?」
男は何も言わなかった。
ただじっとリオを見た。
リオも男の目から目を離さなかった。
男の瞳は空の碧さを凝縮したかのような、鮮やかな宝石のように碧かった。
やがて男は背中の碧いリュックから小さな四角い茶色の箱を取り出すと、リオの目線と同じ位になるように屈み込み、その箱をそっと差し出した。
「これをね、君に買って貰いたい。」
訝しげに首を少し傾けて質問しようとしたリオを遮り、男は続けて言った。
「中には君がずっと知らなきゃいけない答えに近付く物が入っている。」
リオの心臓が、今まで生きてきた中で一番大きな音を立てた。
「本当は渡す気なんてなかったんだけどね。巻き込む事になってしまうから。…でも…。」
男が悲しそうな表情をした事に、リオは気が付けない位、頭の中は絵本から聴こえる泣き声の事でいっぱいだった。
「買う!いくら払えばいいの?」
そう言った後に、リオはお金を持っていない事に気が付いた。
「あ、でも…今、お金持っていないんだ…。どうしよう…!」
「お金じゃなくていいよ。」
「え…?じゃあ…?」
「うん、じゃあ君の右ポケットに入ってる物を貰おうかな。」
(ポケットに何か入ってたっけ?)
リオは一瞬考えたが、あまりにも絵本の事で頭が一杯で、考えもせずに右手をポケットに突っ込むと、中に入っている物を乱暴に掴んで取りだして男に渡した。
「はい、じゃあこれ!!」
リオは男がキチンと受け取ったのかも確認せずに家へと走り出そうとした。
「リオ!待って!」
男は走り出そうとしたリオの腕を掴んで言った。
その瞬間、掴まれた腕から何本もの電流がリオの体を隅々まで流れる感覚が走った。
不快感はしなかったものの、その不思議な感覚に驚いたリオは体が固まり、後ろを振り向く事さえ出来なくなった。
「リオ、お願いだから間違えないで。確かに君には、君にしか出来ない、君が幸せにしてあげなきゃいけない子がいる。でもそれは彼じゃないんだ。本当に救ってあげなきゃいけないのは小さな女の子の方だ。」
耳のすぐ側で囁かれたかのようだった。
今まで聞いた事のない、深い井戸の底の冷たい水のような声だった。
額から流れた汗が開けっ放しの口に入った。
「間違えないでね。君が助けてあげなきゃいけないのは小さな女の子の方だからね。」
第二章
箱
そこからどう家に帰ったのか、リオには分からなかった。
気が付いたらリオは家の玄関に座り込んでいた。
足元のランドセルはまるで死んだ虫のようにひっくり返り、辺りにノートや教科書が散乱していた。
両足は小刻みに震え、立ち上がろうと思っても力が上手く入らなかった。
呼吸が苦しくてたまらなかったが、手にはしっかりと男から受け取った茶色の箱を持っていた。
リオは震える足の代わりに箱を持っていない左手で靴箱を掴むと、箱を落とさないように気を付けながら転ばないようにゆっくりと立ち上がった。
(答えが分かる。助けてあげる事があるかもしれないんだ…!!)
リオの頭の中にはそれしかなかった。
そう思うと、嬉しくて仕方なかった。
ピーターパンが、なぜ絵本の中で泣いているのかは分からないが、辛い時にピーターパン達と空想の世界で旅をすれば心が慰められた。
空想の世界では、誰もがリオの欲しい言葉をくれた。
それは現実から逃げているだけだと分かっていたが、それでもそれがリオにとっての唯一の救いだった。
リオは足早にリビングへ入ると、汗でべたべたになった手を交互に服で拭いた。
テーブルの上に箱を置き、今にも爆発しそうな心臓を必死に落ち着かせようと深呼吸もした。
そこで初めて、リオは箱を見て気が付いた。
(どこから開ければいいんだ?)
箱の中身にばかり気をとられていたリオは、箱の外面を全く気にしていなかった。
箱を持ち上げて箱の下も見てみたが、蓋がある訳でも、継ぎ目がある訳でもなく、どうやって開けたらいいのかがリオには全く分からなかった。
恐る恐る箱を上下に振ってみると、カサカサと何かが動く音がした。
今まで気が付かなかったが、箱はとても軽く、プラスチックのような素材で出来ていた。
胸の中で期待が不安に変わろうとしている事に気が付き、今度は嫌な冷たい汗が頭から流れた。
リオは悩んだ末に、棚から大きなハサミを持ってくると、ハサミの刃を最大まで開き、ノコギリのように箱を切り始めた。
だが、箱はびくともしなかった。
どんなに力を入れても傷一つつかなかった。
手が痛くなる位ハサミを動かして箱にとっかかりを作ろうとしたが、ボロボロになったのはハサミだった。
「…なんだよ!!なんだよっ!!!!」
リオの目から涙が出た。
(騙された。)
認めたくはなかったが、それしか考えられなかった。
悔しくて箱を投げ付けたい衝動に駆られ、リオは箱を両手で握り締めた。
だが、震える手で乱暴に箱をテーブルに叩きつけると、自分の部屋へ走って行った。
涙が出たのは悲しかったからかもしれない。
だが、同時に酷く自分自身が恥ずかしかった。
こんなにも現実世界に適応出来ないのは、非現実的な世界こそリオの居場所なのかもしれないと心のどこかで思っていたからだ。
現実は現実であり、自分は特別でもなんでもない。
絵本から声が聴こえたのも、非現実な事を願うばかりにリオが造り出したものなのかもしれない。
それを思うと涙が止まらなかった。