第一話 始まりの声
風のない穏やかな夜だった。
リオは、ふと、この声に気が付く事が出来たのはいつからだっただろう?なんて考えながら、自分の部屋の窓から綺麗に浮かぶ満月を見ていた。
リオの両手には、古い絵本が握られていた。
時刻は午前一時五分前。
時計をチラッと見て窓から離れると、窓から聞こえていた虫の声が、リオの動きに反応してピタリと止まった。
リオは毎日訪れる『その時』の訪れを、自分の部屋の白い机の横にある本棚の前に座り込んで待った。
明かりを付けなくても優しい月明かりがベランダから差し込むこの場所は、リオのお気に入りの場所だった。
再び鳴き始めた虫の声に耳を澄まして、リオは目を閉じた。
(今日こそは何かが変わるかもしれない。)
知らない内に握り締めていた絵本が、ギュッと音を立てて無言の抵抗をした。
リオは慌てて両手の力を抜くと、古びた絵本の表紙を心配そうにさすった。
その時、壁にかかった古い鳩時計がカチッと音を立てた。
ハッとして時計を見上げると、今まさに午前一時を告げようとする小さな鳩が時計の真ん中から出てこようとしていた。
(来る。)
そう思った瞬間、全ては沈黙に包まれた。
微かに聞こえていた虫達の声も、一時を告げる鳩の声も、時を刻む秒針の音も、自分の心臓の音さえも、今はもう聞こえない。
だが、リオは動じずにその訪れを受け入れた。
やがて、耳が痛くなる程の静寂を破って、一つの音が微かに聴こえてきた。
『音』とは『声』だった。
リオと年があまり変わらないであろう、幼い誰かの泣き声だった。
『声』は部屋のあらゆる物全てに反響しているのにもかかわらず、リオにはこの『声』がどこから聴こえるのか、またそれが誰の泣き声であるのかに確信さえ抱いていた。
「君はどうして泣いてるの?オレには何も出来ないの?」
返事は決して返ってこない。
それどころか、リオにはリオの出した声さえ聞こえなかった。
無駄だと知りつつ、それでもリオは今日も問い掛けずにはいられなかった。
「お願い、教えて。」
瞼を閉じると、リオの大きな眼からも涙が溢れて、ポタポタと握り締めていた絵本に落ちた。
色褪せて今にも抜け落ちそうなページばかりのボロボロの絵本だったが、リオにとって何よりも大切な、唯一の宝物だった。
大好きな大好きなピーターパンの絵本。
午前一時からの五分間の間だけ。
『声』はいつもここから聴こえた。
第一章
始まりの声
「愛って何なの?どこに在ってどんな色や形をしているの?目にも見えなくて触れる事も出来ないのに、なぜ偽物だ、本物だと言うことが出来るの?それを知る事が出来たら、幸せになれると思ってた。ずっと一緒に幸せでいられるって…!!でも誰も教えてくれなかった…!こんな風になるなんて誰も教えてなんかくれなかったんだ!!」
目の前で泣き崩れる少年に掛ける言葉を探して、リオは何も言えない自分の無力さに気が付いた。
これは夢の中の事だと分かっていた。
毎日毎日、繰り返し何度も見る夢。
逆光で顔を見る事が出来ない少年が目の前で泣き崩れても、リオはそれを見守る事しか出来なかった。
どうにかしたいと思いながら何も出来ない無力な自分が情けなくて、リオもまた心の中で激しく泣いた。
リオの体はまるで木になったかのようだった。
足は大地にくっつき、指先すら自分の意思で動かす事が出来なかった。
何かを言い掛けようとしたままの半開きの口から漏れるのは、声ではなく弱々しい息だけだった。
「愛を知る事が出来たなら、幸せになって強くなれると思ってた。…こんな未来は望んでなかったんだ!!!」
少年が振り絞って出した声は、嗚咽のせいで最後の方は殆ど聞き取れなかった。
それでもリオには充分に少年の悲痛な叫びが聞こえた。
苦しかった。
ピピピピピ…
どこかで小鳥が鳴いている。
あぁ、目覚ましだとリオは気が付いて目を開けた。
大きく瞬きをすると、知らない間に溜まっていた涙が数滴流れ、耳の側を通って枕に吸い込まれていった。
上半身を起こしながら右手で涙を拭うと、リオは手についた涙を見る事もせずに穴の空いたパジャマで乱暴に拭いた。
何の夢を見ていたのかも知らないが、ここ最近、リオは寝ている間に必ず涙を流していた。
最初の方こそ気にもなったが、夢を思い出せる訳もなく、リオは次第に気にしなくなっていった。
無表情のまま部屋を出てリビングに行くと、テーブルの上には昨日の夜にリオが食べたカップラーメンがそのまま置いてあった。
母親は昨日も帰って来なかったらしい。
最も、帰って来た所で片付けをするような母親でもなかった。
リオはスタスタと歩いて冷蔵庫を開けると、中から少しだけ残っているリンゴジュースをパックから直接飲んだ。
お腹は空いていなかったので、そのまま歯磨きと着替えを済ませ、リオは学校へ行った。
人生を早送りする事が出来たらいいのに。
物心がついた頃から、リオはずっとそう思ってきた。
DVDのように早送りして、結末までいければいいのに、と。
それが出来ないなら、病気になってしまっている人に、自分の寿命を分けてあげられたらいいのにとも思っていた。
そうすれば、病気を持つ人だけでなく、その人を大切に思う家族だって喜んでくれるだろう。
大切な人も、事も、リオには何もなかった。
まだ小学四年生だというのに、毎日毎日が苦痛で仕方なかった。
学校でもクラスメイトといつまでも馴染もうとしなかったので、リオは周りから浮いてしまっていた。
そんなリオをクラスの男子は特に面白がってからかった。
女子はリオをキモいと言って、近付きもしなかった。
小学四年生だというのに、リオは身長も体重も平均には程遠く、少し大きな一年生でも通用する小さな体をしていた。
もともと坊主に近い髪の長さでさえも、いちいちハゲとからかわれるのが煩わしくて、ある日家のバリカンで髪の毛を全部刈ってしまった事があった。
本当の丸坊主になったリオを見て、唖然とした顔をするクラスメイトの表情は面白かった。
だが、しばらくすると、自分達のせいで髪を全部刈ったのかと萎縮していた男子達もすっかり元通りになり、再びリオをからかった。
面倒くさくなったリオは、もう放っておく事にした。
そんなリオが唯一楽しいと思えるのが、空想の中にいる時だった。
大好きなピーターパンとリオが、ここではない別の場所で楽しく遊ぶ様子を想像する時だけは、表情が緩んだ。
そこには魔法使いや妖精、人魚や喋る樹がいた。
楽しい空想の世界へ旅しては、現実に戻って来る度になんとも言えない空虚な気持ちになった。
逃げだと分かってもいたが、それでもその世界にいる時だけは普段目を閉じて見ないようにしている現実に向き合わずに済んだ。
しかし、今は違った。
絵本から泣き声が聴こえるようになってから、リオはその事が気になって仕方なかった。
空想の中のピーターパンが泣く事はない。
勇敢で仲間思いの優しいピーターパン。
それなのに、あの泣き声はピーターパンだと確信さえ抱いていた。
(あの泣き声を止めてあげる事が出来たらいいのに。)
何度考えても答えなど出ないのに、それでもリオは考えた。
授業中に先生から注意散漫だと何度も言われても、考える事を止めなかった。
その日の学校の帰り道、リオは通学路から外れた道を歩いて帰った。
社宅が建ち並んでいた場所から建物がなくなり、今では建物のあった場所に沢山の草が生い茂る、広い道があった。
そこはリオのお気に入りの場所で、野良猫に餌をやるのが好きだった。
リオが家から持ってきたパンやハムをランドセルから出そうと立ち止まった時、後ろから突然声がした。
「こんにちは。」
ギクリとしてリオが振り向くと、そこには大きな見知らぬ男が一人、微かに笑みを浮かべて立っていた。