第9話 空虚
早苗がゆっくり開けてくれた襖の先の和室は、まるで冷蔵庫の中のように冷やされていて、お母さん、寒いだろうな、と春樹はボンヤリ思った。
八重はいつものように布団に横たわっている。
小さな木の手桶が横に置いてあるだけで、今までと何の変わりもないように思えた。八重はただそこに眠っているだけなのだ。
けれど鼻をツンと突く防腐剤の匂いがどうにもこの部屋にそぐわない感じがして、春樹は腹立たしかった。
腹を立てる対象も分からぬまま、ゆっくりと八重に近づく。
「本当は声を掛けようかどうか迷ったの。春樹君きっと戸惑ってしまうだろうなって。だけど今母が一番会いたいのは春樹君のような気がしてね。納棺が始まると人の出入りが多くなるから、その前に春樹君を呼びたくて。来てくれてありがとうね」
憔悴した風もなく、いつものように凛とした早苗の声を聞きながら、春樹は布団の横に跪き、その中に横たわる八重を見おろした。
幾分小さくなったように思えたが、穏やかな表情で瞼を閉じている。
春樹がいつも触れていた手は、整えられた布団の中に納まっていて見えなかった。
心筋梗塞だったと、早苗は静かに説明してくれた。
糖尿を煩っていたために無痛性の発作を起こし、早苗が気付いたときにはもう手遅れだったという。
「頬に触れても、いいですか?」
静かに言った春樹の言葉に、早苗は笑って頷いてくれた。
手を伸ばして触れたその頬は、ヒンヤリと冷たく、少しの柔らかさもない。
奇妙で、作り物めいている。
そしてあの温かい溢れんばかりの愛情が、触れた肌から春樹の中に注ぎ込まれることは、もう無かった。
春樹にとって、それこそが「死」だった。
もう八重の愛情に包まれることも、優しく頭を撫でられることも、永遠に無くなってしまったのだ。
「ごめんね。辛いことを思い出させてしまったんじゃ無いかしら」
ボンヤリしていたので、一瞬早苗が何のことを言っているのか分からなかったが、ああ、自分の家族の事かと思い至り、春樹は首を横に振った。
事実、あの日の悲しみがぶり返してくることはなかった。
きっともう平気なんだ。悲しいという感覚はもう過去の物になったんだと、そう思った。
今だってそうなのだ。
苦しいのに。このまま足元から粉々に崩れてしまいそうなほど自分がスカスカなのに、悲しいというのがどういう感覚だったのか思い出せない。
八重がいなくなったということが、どういうことなのか分からない。
ただ、自分は中身のないスカスカな器なのだということしか、分からなかった。きっと自分は人間らしい感情が無くなった欠陥品なのだ。
早苗が静かに自分を見つめ、気遣ってくれているのが辛かった。
母親を亡くして今一番悲しいのは早苗で、そして自分はお悔やみの言葉を言わねばならない立場なのだ。
八重は、自分にとって何の血のつながりもない他人なのだから。
そう自分自身に言い聞かせて、ひとつ息を吸い込む。
「もう、昔の事だし全然平気です。早苗さんこそ辛い時なのに、気を使わせてしまってごめんなさい。でも、知らせてくださって嬉しかったです」
春樹は静かにそう答えると、また少し何か言いたげに視線を投げてきた早苗から目を逸らし、持っていた紙袋の中に手を入れた。
手に触れた物の優しい手触りに、春樹は刹那安堵し、重さを感じないそれを取り出して見つめる。
自然と笑みがこぼれた。
「ほら、早苗さん見て。縁日で見つけたんです。ね? あの時のお面にとっても良く似てるでしょ? お店のおじいさんに譲ってもらったんです。たった一つだけ残ってたんです。見つかったよって、お母さんに見せてあげたくて……。喜んでくれたらいいなって、この2、3日、そればっかり思ってて。
早苗さんに、何やってんのって笑われるかなとか、お母さんに、そんなお面じゃないよ、って言われるんじゃないかとか、心配なんかもしたんだけど。
でも、……結局間に合わなかったですね。お母さん、なんて言ってくれるのか、聞けなかった。もう少し早く見つけてあげればよかった。ずっと探してたのに。
あ、早苗さん。これ、お棺に入れてもらってもいいでしょうか。お花しか入れたらだめなんですか? 僕の家族の時は棺は閉じられたままで何も入れちゃダメって言われたから、その辺の事よくわからなくて……」
遠慮がちにそう訊きながら顔を上げてはじめて、驚いたように目を見開いて春樹の手の中のきつね面をみつめている早苗に気が付いた。
早苗の目が、やがてゆっくりと春樹の視線に合わさる。
春樹もその視線に掴まれて動けず、呼吸もできぬままその赤く、次第に潤んで行く早苗の瞳を見つめていた。
そのうちふっと何かの戒めが解かれたように早苗の手が伸び、座ったままの春樹の頭は強くその胸に引き寄せられた。
余りの突然の事に、春樹は身構えることもできず、ただ小さな子供のように抱き留められるに任せた。
きちんとスーツを着込んでいた早苗の肌が春樹に触れることはなかったが、取り繕うことなく嗚咽を漏らした早苗の感情の波動を、春樹は肌からではなく体全体で受け止めていた。
母を亡くし、一番悲しいはずの早苗がそうやって自分を抱きしめてくれる理由をボンヤリと思い、そして自分は今、彼女に何と声を掛けてあげれば良いのか、考えを巡らせた。
けれど、答えが見つからない。
答えがあるとも思えなかった。ただ抱きしめられている、そのことに今は身をゆだねていたいと思った。
「ごめんね、びっくりさせちゃったね。何だかもう…春樹君があんまり優しいから…。幸せもんだなあ、母は。死んじゃったけど、嫉妬するくらい母は幸せもんよ。なんか悲しいのに嬉しくって感情セーブできなくなっちゃった。ごめんなさいね。
お面、本当に嬉しいわ。絶対にお棺に入れてあげるから。母は絶対あっちでずっとそれを抱いてると思う」
ひとしきり号泣したあと、体を離して照れたように笑う早苗を、春樹は可愛らしい人だと思った。
触れてもいないのに、早苗から伝わる波動が春樹を包み込んでくれる。
八重と同じ血を持つから。
それとも人とは本来、こんなに優しくて温かいものに満ちているのだろうか。
「だけど、早苗さん」
「え? 何?」
きつね面を微笑みながら見ていた早苗が、振り返る。
「お母さんが会いたいのは光彦さんです。僕じゃないです」
しばらく驚いたような目で春樹を見ていた早苗は、泣き出すのではないかと思える表情で、静かに笑い出した。
「なんで? もしかして、そんなこと気にしてたの? どうして? 春樹君に会ってからの母が、どんなに幸せそうだったか、分かるでしょ?」
早苗は座ったまま体をこちらに向け、じっと春樹の目を覗き込むように見つめてきた。
逃げ場は無く、目を逸らす事もできずに春樹もまた、早苗の目を見つめ返す。
「この半年、母の認知症は急速に進んで、私のことはおろか自分のことも時々分からなくなってね。夜中、子供のように突然泣き出したり、光彦を捜して外に飛び出したり。母も不憫だったけど、私もちょっと正直参ってたの。
それが……そんな母が、春樹君と出会ってからは本当に幸せそうだったのよ。実際母の中で、ずっと光彦の喪失は受け入れられてなかったのね。それが、こんな形で認知症になった今、出てきてしまったんだと思う。その空洞を、春樹君が埋めてくれたのよ。
春樹君は、母の中でもう一度光彦を生き返らせてくれたの。母の中で、時間を共有してくれたの」
「共有…」
「そうよ」
早苗は、ふふと笑った。
「不思議だなあって思ってたのよ。春樹君って、もしかして本当に光彦なんじゃないかって思ったのよ? 私まで。母のことを躊躇い無くお母さんって呼んでくれるし、母の思い出話を、全部知ってるように相づち打ってくれるし、そして、このきつねのお面。これが、あのお面にそっくりだって、なんで知ってるのかな、って。さっきちょっと感激で鳥肌立っちゃった。でもそれこそが春樹君っていう子の魅力で、すごいところなんだなって思うの」
少しばかり気まずそうに目を逸らした春樹を、早苗は微笑んで見つめた。
「私はこんなに毎日接してるのに、母の内面に入っていくことができていなかった。でも、春樹君は母の心の中にスッと入っていってくれたように思えて仕方なかったの。すごい子だなって思った。春樹君は、空っぽだった母の中に入って、最後の時間を一緒に生きてくれたんだと思う。光彦として。私としては、感謝しても仕切れないわ」
春樹は、やはり目を伏せた。早苗の言葉は優しすぎ、誰か赤の他人への賛美に聞こえた。
早苗が言ってることは、すべて春樹の特殊な力によるもので、そこが讃えられることは、春樹にとって素直に喜べるものではなかった。
八重だけではなく、早苗も騙していたのだろうか。自分は。
早苗の優しさが伝わるほどに、春樹の中の空洞が大きくなっていく。
埋まらないのだろう。もう、呼吸しても、食べても、笑っても。きっと。
「でもね、白状すると母に会ってもらうために春樹君をここに呼んだんじゃないの」
急にトーンの違う、悪戯を隠す少女のような声色で早苗は言った。
「…え?」
「ずっとあなたとちゃんと話がしたいと思ってたの。光彦の代わりをしてくれている子じゃなく、天野春樹という男の子と。でも私が踏み込むのは違うかな、っていう遠慮もあって。だけどね、今朝、考えが変わったの」
早苗は一体何を言い出すのだろうときょとんとし、春樹は和室を出て行こうとするその背を視線で追う。
早苗は振り返って柔らかく笑った。
「さあ、いらっしゃい。夏みかんの魔法が消えてしまわないうちに」