第8話 欠落
《昨夜はデートすっぽかされて 俺 ひどくテンション低いんですけど》
翌日、昼近くになって届いた塚本からのメールに、春樹は少しばかり笑った。
結局昨夜は塚本に会わずに直帰したのだが、どうせ塚本も冗談半分で春樹を呼んだのだろうし、そして暇つぶしに今またこんなメールを寄越しているのだろう。
〈ごめん。昨日はちょっと急用で行けなくなっちゃって〉
冗談に付き合う程度のつもりで、そう返した。
《じゃあ きつねのお面 大事そうに抱えて歩いてたのは 一体どなたさん?》
一瞬、笑いが引いた。見られていたのだ。
けれど何となくゴメンというのも妙な気がして、春樹は返信を放棄した。
やはりどこかにまだ、あの男を敬遠する気持ちが強く残っている。
悪い奴ではないのは分かっているが、春樹の能力を知ってしまっているだけに、警戒心が湧いてしまう。
知らず知らずに神経が尖ってしまう。
返信しないのに、しばらくして着信があった。
《いいよ。デートはまた いずれ》
できれば、自分のこの力を知られたくなかった。隆也以外には、誰も。
どんな言葉もからかいに聞こえる。疑心暗鬼のかたまりになる。
春樹はそっと携帯をベッドの上に転がすと、昨夜からローテーブルの上に置きっぱなしのきつね面に視線を移した。
昨夜はすぐにでも八重の所に持って行きたかったのだが、朝になって考えてみると、まるで幼稚な猿芝居に思えてしまった。
そしてそれに対する早苗の困惑顔まで浮かんでくる。
---いったい、なんのつもり?---
怖くなる。
いったい、何のつもりなのか、自分で自分が分からなくなる。
集中ゼミを終えたあとの予定は、選ばなければ際限なくあり、同じ学部やサークルの仲間のコンパや小旅行の誘いは毎日のように舞い込んで来た。
バイトも幾つか候補を決め、面接の予定を入れようと思っていた所だったし、自動車免許の集中合宿の申し込みもまだ間に合う。
実際、大学の友人達と過ごす時間は楽しかったし、たとえ触れたとしても同年代の彼らから深いダメージを受けることは無い。無いはずだ。
皆、陽気で気のいい連中だ。
けれど、そう思いながらもどこかで恐れている自分がいる。
PTSDは根深く、治癒しかけた感情を一瞬で最悪なところまで突き落とす。
横川祐一と松岡良彦との記憶のシンクロを思い出すだけで、今でも足が震え、冷たい汗が吹き出る。
他人の心の奥に潜む影や苦痛や怒り恨みが、肌を通して染み入ってくる感覚など、もう二度と味わいたく無かった。
自分の力が怖いのではなく、正体の知れない感情を内包する、人間という生き物自体が怖いのかも知れない。
そう思うとまた、呼吸が苦しくなってくる。
開けた窓からぬるい風が入り込み、部屋の空気をほんの少し揺らした。
紙袋に入れたままになっていた夏みかんが、ふわりと薫る。
早苗に渡したお陰で半分になった夏みかんは、それでも独りで食べるには大量で、放置されたまま白い袋の中でツヤツヤ光っている。
昨日もう一度メールしてみたが、やはり隆也からの返信は無かった。
メールというのは不便だ。送ったら最後、その文面を無かったことにできない。
〈ごめん。怒らせたかな〉
中坊のようなあの一文を抹消したかった。できれば隆也に見られる前に。
そして、もう二度とメールは送らない。
◇
春樹は軽音部とダーツ研、ふたつのサークルに席を置いていたのだが、その後強引にサークル主催の飲み会に参加させられ、まる3日を慌ただしく過ごした。
久々の酒の席は楽しかったし、女の子達も皆気さくで話題に事欠かなかった。
けれど女の子数人が酔った勢いで「みんなで天野君のアパートに押し掛けちゃおうか」と冗談交じりに言い出し、その場が盛り上がってしまうと、胃の辺りが冷えていくほどの不安を覚えた。
肩に寄りかかってきた女の子から身をそっとかわし、「ごめん、ちょっと……」と言い淀むと、ほんの少し空気の温度が変わるのが分かった。
友人の1人が「なんだ? 彼女でも連れ込んでる?」と突っ込んでくれたため、笑いで誤魔化すことができたのだが。
けれど、何とも説明の付かない不安と不快感を拭うのには、時間がかかってしまった。
『一生、女も抱けないぞ』
塚本の言葉は、文字通りの意味だけではなく、人間の生き方を問うものだったのかも知れない。
洞察力の鋭い彼には、春樹の欠落しているモノがはっきりと見えているのだろう。
だとしたら、知りたくない。
答えを目の前に突きつけられ軟弱だと責められても、たぶん自分ではもう、どうすることもできない気がする。
アパートに帰ってからも胸が苦しく、落ち着かなかった。
暑さのせいばかりでなく、どんどん気力が衰えていくような気がする。
ベッドの上に置いたままだったきつね面が、憂いたような笑みを向けてくる。
堪らなく、ひとりだった。
お母さん。
思わず心が呼んだのは、八重だった。
全てを包み込んで愛してくれる八重の優しい手に触れ、一緒にゆりかごのような恍惚に漂いたかった。
明日、行ってもいいかどうかを聞くため、いつものように早苗にメールを送ったが、その日は結局返信は来なかった。
いつも、2分と待たずに返してくる早苗が、翌日改めて送ったメールにも、返事をくれなかった。
どうしたのだろう。早苗もどこか、体調を崩したのだろうか。
その2日後の昼過ぎ、バイトの面接に行く用意をしていた春樹の元に、待ちわびていた早苗からのメールが届いた。
《返信が遅くなって、本当にごめんなさい。2日ほど前、母、八重が永眠しました。
やっと自宅に体が帰ってきましたので、このあとごく親しい者だけで、静かにお見送りをしてあげたいと思っています。
春樹くん、もし良かったら、母にもう一度だけ会いに来てやって貰えないでしょうか。我が儘を言って、ごめんなさい》
立ったまま、春樹はしばらくじっとその文字を見つめていた。
見知った文字なのに、よく理解できなかった。なのに体から力が抜けていく。
何か、感情というたぐいのものすべてがポソポソと体からこぼれ落ち、足元に散らばっていく。
零れ落ちていく音が、耳の奥で響いて止まらない。
ぽそぽそと、延々。
「あ…」
声を出してみたが、止まらない。
思い出したように呼吸をしてみたが、自分の中にはもう何も入っては来ず、何も残っていない気がした。
ただの空っぽの器だった。
こぼれ落ちたものを探すように足元をゆっくり見渡すと、テーブルの端に置いてあったきつね面に行き当たった。物言いたげに、口元を歪めている。
--- ああ、光彦。きつねのお面、見つかったんね。ありがとうね、探してくれて。ありがとうね、光彦 ---
緩い風の中で、そんな声が聞こえた。 確かに聞こえたのに。優しい声が ありがとうって。
〈いまから 会いに行きます〉
思うように動かない指先で、春樹はゆっくりとそれだけ打ち、早苗に返信した。